2013年5月 鈴と 小鳥と それから私 みんなちがって みんないい 法語カレンダー解説

hougo201305 もう十年近く前のことです。長男が小学校四年生の頃、宿題にローマ字の文章を朗読して、親に聞いてもらうというものがありました。彼が「読むから聞いてほしい」と言うので、私は寝転がったまま聞いていました。

 

 「watasniga ryoutewo hirogetemo……」と始まった時、私はびっくりして起き上がりました。

 

 「えっ、この文章は」と尋ねると、国語の教科書に載っている文章だということでした。金子みすゞさんの詩が、学校の教材として取り上げられているとは、私にとってはとても驚きでした。童謡詩人である金子みすずさんの作品のなかには、阿弥陀さまの温かなまなざしが感じられるものがたくさんあります。その代表作とも言える「私と小鳥と鈴と」という作品の最後の部分が、今月の法語です。

 

私が両手をひろげても、

お空はちつとも飛べないが

飛べる小鳥は私のやうに、

地面を速くは走れない

 

私がからだをゆすつても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のやうに、

たくさんの唄は知らないよ。

 

鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがつて、みんないい。

(『さみしい女王 新装版 金子みすゞ全集・Ⅲ』 一四五頁 JULA出版局)

 

 この私と小鳥とは、間違いなく違います。小鳥は飛べるけれども、私がいくら両手を広げても飛べません。しかし、その小鳥も地面に降りれば、私ほど速くは走れないということになります。また、鈴を振ればきれいな音が出ますが、私か身体をゆすってもまったく音は出ません。しかし、私はたくさんの唄を知っていますが、鈴は一種類の音色しか出すことができません。当たり前と言えば当たり前すぎる話ですが、それぞれが全然違います。しかし、違っているけれども、それぞれがそのままで、かけがえのない尊い存在なんだと知らされます。命という観点で言えば、生きとし生けるものすべてが精一杯その命を輝かせており、それぞれの命がそれぞれの色で光っているということを、教えていてくれると思います。

 

 金子みすゞさんは、本名を金子テルと言い、山口県の仙崎という港町に明治三十六(1903)年に生まれます。小さい頃から、手を引かれてよくお寺へお参りしていたそうです。みすゞさんが育った仙崎という町は、その昔から念仏の薫る土壌があり、彼女の家族も浄土真宗の信仰に篤(あつ)く、みすゞさんは幼少期からそのような環境のなかで育ちました。そして、阿弥陀さまの温かく、哀しく、慈悲深いまなざしを通して、たくさんの作品を残してくれました。

 

 「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」とは、それぞれの命が、それぞれの色で精一杯輝いており、その色をそのまま認めていく世界を表現していると思います。一つひとつの命が、そのままに、あるがままに認め合うことのできる世界を教えてくれます。それはそのまま、阿弥陀さまの慈しみに満ちた温かなまなざしが根底にあるからではないでしょうか。ところが、私たちは常に比較してしまいます。比べてしまいます。一切比べる必要などなく、そのまま、あるがままを尊び、受け止め、認め合っていく世界が、阿弥陀さまのお慈悲から流れ出ているのだと思います。そしてそのまなざしは、無機質な鈴というものにまで命の息吹を認めていくのでしょう。

 

 

あるがままの姿で

 もう二十年近く前に、私自身、初めて常例布教にご縁をいただいた時のことです。

 九日間に十一ヵ寺の寺院を巡る布教の旅でした。初めての経験のなか、かなり緊張しながら各寺院での布教をさせていただき、それぞれの住職や門信徒の皆さんとの出会いに、新鮮な感動を覚えていました。私は、自家用車で各寺院を回らせていただきましたが、何軒目かの寺院に車で着いた時には、住職さんがすでに玄関へ出て、私の到着を待っていてくださいました。荷物を持って車を降り、玄関で挨拶をし、奥の部屋に通されました。かなり年配の住職さんでしたが、私の大きな荷物を持ってくださり、部屋に入った後、お茶を入れていただきました。お茶を入れて、湯飲みを茶托(ちゃたく)に乗せて私に出してくださった後、その住職さんはメモ用紙とボールペンを取り出して、そのメモ用紙にさらさらと何かを書いて、私に渡してくださいました。私は、最初、事態をうまく飲み込めなかったのですが、メモ用紙を何枚も書いては破り書いては破いて、私にくださる姿を通して、私なりに事情がわかってきました。筆談です。声を失われた住職さんでした。

 

 この住職さんが、「一語法話」のなかに登場されます。「一語法話」とは、以前、本願寺から毎年発行されていた四つ折りの簡単な冊子で、そこには、文字どおり、短い法話が載っています。その法話には、「本当の喜び」という題名が付けられており、それを書いてくださったのは、当時、中央基幹運動推進相談員をされていた真敷祐弘(ましきゆうこう)先生でした。その短い法話に、次のように説かれています。

 

 

 私の先輩住職にNさんがおられます。Nさんは二十四年前、喉頭ガンで手術を受け、声が出なくなりました。

 病気は治りましたが、声を失った寺の住職の苦しみが始まりました。ご法話も勤行(おつとめ)もできない自分に生きている価値があるのだろうか。苦しい毎日が続きました。  そんなとき、隣寺の住職がお見舞いに見えて、筆談の中からNさんの苦悩を知り、ただ一言「お念仏の教えは、仕事が出来る出来ないではなしに、全ての人が、あるがままの姿で救われる道の発見ではありませんか」と励ましてくださいました。

 この一言がNさんを目覚めさせ、生きる勇気を与えてくれました。  以来二十四年間、声を失った不便でつらい毎日でありますが、このことが機縁となってあらためて法に遇うことができたことを喜んでおられます。 「本当の喜び」とは、自分の思うようになった時や、他人の不幸と比べて喜ぶことではないということを私たちは学ぶことができます。

(『一語法話』第四七号所収、一九九九年)

 住職がすることと言って、まず思い浮かぶのは、お経をお勤めすること、つまり読経ということでしょう。また、み教えを言葉にして伝えること、つまり法話ということでしょう。その両方ともできなくなってしまった自分に、生きている価値があるのだろうか、と思い悩む切なさとはどれはどのものであったか、私には想像もつきません。見舞いに来てくださった隣寺の住職さんの一言が、まさに「そのまま」の救いを表してくださっています。「全ての人が、あるがままの姿で救われていく道の発見」と表現されていますが、その道を自分で切り開いていくのではなく、すでに用意されている道を見つけるという意味になります。この私ひとりのために、阿弥陀さまが届けてくださった道がすでにあるということです。自分でその道を建設していくのなら、一歩も半歩も前に進むことはできませんが、すべて阿弥陀さまの側でしつらえていただいたものであり、それを発見させていただくことが、お念仏との出遇いの大きな意味合いであると、真敷先生は「一語法話」のなかで教えてくださいます。

 

 

大漁

 金子みすゞさんの多くの作品のなかに、「大漁」という詩があります。

 

朝焼小焼(あさやけこやけ)だ

大漁(たいれふ)だ

大羽鰯(おほばいわし)の

大漁だ。

 

濱は祭りの

やうだけど

海のなかでは

何萬(なんまん)の

鰯のとむらひ

するだらう。

(『美しい町 新装版 金子みすゞ全集・I』 一〇一頁 JULA出版局)

 

 大羽鰯(おおばいわし)の大漁に沸く浜辺のよろこびようとは裏腹に、その海のなかではどれだけ多くの鰯の命が失われ、その弔いがされるだろう。祭りのようににぎわう港の様子を見つめるみすゞさんの目には、そのよろこびの光景ではなく、海のなかの哀しみの情景が思い浮かび、多くの鰯の命が失われたことへの哀しみが感じられたことでしょう。

 そして、他の命を犠牲にして生きていかねばならない自分白身の命の哀しさも、そこには表されています。それがそのまま、故郷のお念仏の薫る土壌のなかで育まれたまなざしなのでしょう。

 

 

積もった雪

 昨年の冬、長野県の私の住む町では、記録的な豪雪に見舞われました。かき落とすように激しい雪降りの時は、見る見るうちに雪が積もっていきます。うずたかく屋根に積もった雪を眺めながら、「大丈夫かなあ」と不安になることもしばしばありました。降雪のあった日は、早朝の暗いうちから除雪機を運転し、境内の除雪をします。

 日によっては、新雪が腰の高さぐらいになることもあります。玄関から公道までの参道や駐車場などをきちんと除雪するには、かなりの時間がかかります。吹雪のなかを作業することもしばしばです。除雪をするというよりも、雪と戦う、格闘するといった表現のほうが似つかわしいかも知れません。厄介物をやっつけるといった気持ちが強いのは確かです。ところが、みすゞさんは、そんな雪に対して命を見ています。

 

「積った雪」という作品です。

 

上の雪

さむかろな。

つめたい月がさしてゐて。

 

下の雪

重かろな。

何百人ものせてゐて。

 

中の雪

さみしかろな。

空も地面もみえないで。

(『空のかあさま 新装版 金子みすゞ全集・Ⅱ』二四二頁 JULA出版局)

 

 積もったばかりの雪は、ふわふわしていて真っ白ですが、晴れた日が続くと、雪が沈んで締まってきます。そして、気温が下がってまた雪が降り、気温が上がって雪が締まり、それを繰り返しながら、雪にも地層のような層が幾重にもできていきます。

春先の雪の断面にはそれがきれいに見えます。雪国に住む私か厄介物をやっつけるように扱うその雪を、みすゞさんは三つの層に分けて、「さむかろな」、「重かろな」、「さみしかろな」とうたいます。このようなまなざしは、きっと阿弥陀さまのはたらきをいただいて手に入れられたものなのでしょう。

 

 「ああでなければいけない、こうでなければいけない」などという枠組だらけのこの娑婆で、各々の違いを認め、そのままのあり方を尊ぶまなざしを、阿弥陀さまからいただきます。さらに、命を尊ぶ一方で、他の命を犠牲にして成り立つ我が命の哀しさに思いを馳せるまなざしや、各々の立場のなかにある切なさに気づいていくまなざしもいただきます。どれもこれもみな、みすゞさんが「詩」という形をとって私たちに伝えてくれる、阿弥陀さまの慈しみのまなざしの世界です。

 

(井上慶真)

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