2013年 表紙 念仏とは自己を発見することである 法語カレンダー解説

智慧と慈悲

 

二〇一三(平成二十五)年の法語カレンダーは、「智慧(ちえ)と慈悲」をテーマとしています。

 

ブッダ・釈尊は真実に目覚められて、最初の説法で「四聖諦(ししょうたい)」(あるいは「四諦八正道(したいはっしょうどう)」)を説かれたと言われます。その「四聖諦」の第一が「この世は苦である」という真実であり、第二が「その苦の原因は(自己中心の)愛欲、すなわち煩悩である」という真実である、と説かれました。

『歎異抄』にも、私どもの姿を「煩悩具足の凡夫」と示される親鸞聖人のお言葉が述べられていますが、そのようなご教示によって、私たちは自らをたよりとして自己中心的な振る舞いしかできず、覚りを目指す実践がまったくかなわないものであると、つくづく知らされます。実際には、私たちは、何かに失敗した時とか、大きな災害に出遭った時などには、自分の愚かさや人間の無力さをいくらか感じますが、自分中心の思いを持ち、自分中心の眼(まなこ)でものを見ること以外にない存在で、なかなか自己をまともに見つめることができないものであります。

釈尊のみ教えに出遇(あ)って、やっと少し自分の姿に気づかされ、さらに、真実の覚りそのものである如来の、あらゆるものを平等にご覧になる真実の智慧と、すべてにへだてなくはたらく大慈悲に照らされてこそ、愚かなる「私」の姿が見えてまいります。

それが、煩悩具足の凡夫であると知らされるということになります。

この法語カレンダーには、如来の智慧と慈悲に照らされて、自己を見つめ、自己の愚かさを知らされるとともに、大悲にいだかれたよろこびをかみしめる。そのようなお言葉を、先達のご著述などから選んでいます。ともに味わいつつ、日々を過ごしたく思います。

 

自己の発見

 

表紙に、金子大榮(かねこだいえい)師のお言葉をいただきました。

念仏とは 自己を 発見することである

(金子大榮著『歎異抄』四六頁)

「念仏」とは、浄土教では私どもの口元で「南無阿弥陀仏」と称えさせていただく「称名念仏」のことですが、本来、真実の覚りそのものである如来を心に念ずることが「念仏」であり、仏を念ずることによって覚りへの道を歩む、すなわち仏道を歩むことになる、ということになります。しかし、親鸞聖人は、「この私」が迷いのなかの凡夫であることを厳しく見つめられ、真実の覚りである阿弥陀さまの本願によってこそ、救われる道が開かれているということを説かれました。

阿弥陀さまが「あらゆるものを救わずにはおかぬ」と願われ、「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)を完成され、如来の大智と大悲を円かにそなえた救いのはたらきそのものである名号となって、「この私」に喚びかけてくださっている。その本願を信じ、名号をいただき、称名念仏するところに、救われていく道が開かれることになります。

親鸞聖人は、称名念仏の道を歩むについて、その根底に、如来の智慧と慈悲のおはたらきにいだかれて、そのはたらきにたよりきる心、「信心」があることが大事である、と示されました。師である法然聖人は、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」(『歎異抄』第二条 『註釈版聖典』八三二頁)とおっしゃられたと言われているように、唯円房(ゆいえんぼう)がまとめられた『歎異抄』にも、しばしば「念仏する」ことが説き示してあります。

『歎異抄』には「念仏」が三十九回使われていて、「念仏によって往生する」と説かれているのです。すなわち、念仏するところに、如来の本願を信じ、如来の智慧と慈悲のはたらきをいただく。そしてそのことは、「この私」の煩悩具足の姿を知らされつつ、如来の大いなるはたらきにいだかれる世界が開かれることであると、うかがわれるのであります。

金子大榮師が、念仏とは「自己を発見すること」であると語られるところには、念仏するなかに、阿弥陀如来の本願のはたらきをいただき、「この私」をあるがままに見つめさせていただく世界が広がっていることが示されているものと、うかがうことができるでしょう。

お念仏とともに生きる、お念仏のなかに生活するということは、お念仏するなかで、お念仏を通して、仏・如来に対面し、自己をあるがままに見つめる、そしてお念仏のなかに如来の大慈悲をよろこばせていただく、ということになるでしょう。

 

念仏のなかの生活

 

これは、阪神大震災の一年余り前のことですが、浄土真宗本願寺派の総長を長く務められた豊原大潤(だいじゅん)師が語ってくださった話です。

ある祝賀の会合で話されたのです。お祝いの言葉を述べられた後に―、

「私は、耳が遠くなり、自宅にいても家族の話がろくに聞こえず、まったく孤独な毎日です。そのようななかでも、ひとりでにお念仏を称えている、お念仏申すばかりの生活です。

ありかたいことに、自分か称えるお念仏だけは聞こえるのです、耳元でお念仏が響いてくださる。これが尊い、ありかたいことです。私か称えさせていただいているお念仏をいただきながら、お念仏のなかに生活させていただいています」

と加えられて、挨拶を結ばれました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 なまんだ―ぶ…… とお称えする

このお念仏するなかに、「愚かなるこの私」がお念仏のなかに生かされている、お念仏とともに歩む身となっているということを、深いよろこびのなかで感じとり、ご自身を見つめておられる、そういうお姿を、豊原大潤師の挨拶のなかに拝見させていただいたのです。

金子師のお言葉のとおり、このような「自己発見」の場がお念仏なのだ、といただくことができます。

(佐々木恵精)

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