私たちは自分のことは自分が一番よく知っているといいますが、意外に知らないこともあり、他からのはたらき、人からの指摘で自分の一面がわかることがあります。
ある人は、文章が必ずしも得意ではなかったのですが、講演依頼の手紙を書いたところ、その講師に手紙の文章を褒められました。あまりにも意外なことだったので驚いたとともに、手紙の書き方だけではなく、文章を書くことが苦にならなくなったといっていました。
この人は自分が思うほどにひどい文章を書いていたのではなかったのでしょうが、たまたま褒められたのを機に本来の力を発揮したのかもしれません。もちろん逆もあって、正しく自分のことを知らずに失敗を重ねていることもありそうです。
その点で自分のことを正しく知ることは大切なことです。
自分のことを正しく知って自分に出会うといっても、今月の言葉で廣瀬杲(ひろせたかし)師が説かれるのは趣が異なります。
私自身に出会った人
廣瀬杲師(一九二四~二〇一一)は京都市に誕生されました。一九五三(昭和二十八)年に大谷大学文学部真宗学科を卒業し、大谷大学教授、学長を歴任されました。師が大谷大学研究科を修了するときに大学に提出された論文は、後に『宿業と大悲-三願転入の考察-』(法蔵館)として出版されます。同書の序文に真宗学の泰斗、金子大榮師が「この書において、自分の徹底しえなかったものが明快にせられ、雑想していたものが純化されたよろこびを感ずる」といわれ「種々の点において、啓発された」と記されています。これらのことから師の学問的な力量は窺い知ることができます。『観経四帖疏講義(かんぎょうしじょうしょこうぎ)(全九巻)』(法蔵館)をはじめ、師の著述は多くあります。中でも『歎異抄(たんにしょう)』に関する著述が多く、四月の言葉も『真宗入門「歎異抄」のこころ』(東本願寺出版部)より採っています。
廣瀬師は「私自身」との出会いについて、次のように述べられます。
眼が眼自身を見ることができないように、人間は人間自身の正体を知ることができません。しかし知る能力を持った人間は、人間自身の正体を知らないままで過ごすことはできません。では何が人間自身の正体を知らせるのかといえば、如来よりたまわった信心の智慧であるとされ、この信心の智慧によって自分自身の正体を知らされることが自分自身との出会いであるとされます。また自分自身と出会って掛け値なしの自分が知らされ、そのことにうなずいて生きることが救いであるといわれます。それは縁に会った事実を受けとめて生きることであるといわれます。
私たちは縁によって出会い、縁によって別れていきます。私かこのようになりたい、あのようになりたくないというのとは関係なく、縁によって生きています。廣瀬師は縁によって、商家に養子に行った後輩Aさんの話をします。Aさんは、特には書いていませんが、まじめな念仏者です。
養家に入って半年後に養父が不治の病で床につき、その数力月後には看病疲れか養母も病床につきました。Aさんは慣れない土地で、家業のこともよくわからないままにすべてを引き受けさせられることになり途方に暮れてしまいました。しかし、ただ考えても好転することはありません。Aさんは二人の看病をしながら、不慣れな仕事に励んでいきました。その苦労は傍目にも痛々しく感じられるほどだったそうです。
そんな毎日が一年あまり続き、養父母は亡くなりました。Aさんを知る人は異口同音に「若いのによくやった」といいました。廣瀬師もある時に「ご苦労だったね」と労をねぎらいました。Aさんは、
「苦労といえば苦労でした。しかし、この苦労をいつになったら、ご苦労といただける私になれるのやら」
と答えました。廣瀬師は身の引き締まる気持ちになったといいます。
新しい生き方
Aさんは思わぬ縁が重なって苦労の日々を過ごしましたが、その苦労を不運、不条理と受けとめるのではなく、たまわりたる信心の智慧に照らされて、いただいたご縁の苦労と受けとめようとしました。信心の智慧によってご縁といただける新しい生き方が、私自身と出会った生き方であり、救いであるとされます。
果たしてこれが救いなのかと納得しにくい話です。多少別の方向から考えてみます。確かに私たちは縁によって人に出会っています。何人かの人と共にはたらき、共に生活しています。その中で「なぜこの人の不服を他の人ではなく、私か聞かなければならないのか」「なぜこの人の世話をしなければならないのか」と思うこともあります。しかし、信心の智慧か、聞法のおかげか、自分の凡夫性がますますわかってくると、凡夫であるから自分の中心の思いが不満につながったのだろうと思われ、不思議に不満がなくなったりします。ご縁の中で不服を聞く出会い、世話をする出会いと受けとめられます。この延長線で考えると、信心の智慧によってご縁といただける新しい生き方が救いであるといえます。
この救いは必ずしも楽しい、うれしいということはありませんが、信心の智慧に照らされて本当のことを本当のこととして受けとる生き方です。
信心の智慧
お釈迦さまは、インドのガヤーにある菩提樹の下でさとりを開いて仏陀になられました。ではお釈迦さまは何をさとられたのかといえば、智慧をさとられたのだという話を聞いたことがあります。お釈迦さまの智慧の眼で人生を見て、人びとに説かれたのが「人生は苦である」です。物事を見て「あらゆるものは縁によって起こる」という縁起の理を示されました。このように考えると、仏になるとはさとりの智慧を得ることだといえます。この智慧は必ず慈悲として展開します。
阿弥陀仏が私たちに回向された信心は、阿弥陀仏の智慧です。それを親鸞聖人は信心の智慧といわれました。これは信心の一部が智慧という意味ではなく、信心イコール智慧という関係の信心です。『正像末和讃』には、
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし(『註釈版聖典』六○六頁)
とあります。私を往生に導く智慧の念仏は、法蔵菩薩の本願力によって与えられたものです。信心も同様です。その信心は、仏の智慧です。智慧であるから涅槃のさとりにいたることを述べています。信心の智慧に照らされるから私自身のすがたがわかり、私の依るべき道がわかります。
「アカンもの」と南無阿弥陀仏
木村無相(むそう)(一九〇四~一九八四)さんは『念仏詩抄』(永田文昌堂)などの念仏詩で有名な方です。二十歳の頃に自分の内面の醜さに驚いて、煩悩を断ち切ってさとりを開きたいと思い立ちました。その後、真言宗と浄土真宗を行き来しながら、数十年にわたる求道生活をして、念仏にたどり着いた人です。
『木村無相師法談』(法蔵館)には、
信心の智慧によって機が見える。それが機の深信。信心の智慧を賜ってこそわが身がまったくアカンものじゃと照らされてわかる、そして、信心の智慧によりて本願を頼むしかない、ただ念仏よりはかないと感じさせていただく。
(『木村無相師法談』八五頁、法蔵館)
とあります。無相さんは信心の智慧によってわが身が「アカンもの(ダメな者)」であることがわかったといわれます。「アカンもの」は、信心の智慧によって念仏しかないことがわかったといわれます。多くの作品には、次の詩「それさえ」のように「アカンもの」と南無阿弥陀仏がでてきます。これは信心の智慧によって見出されたものですから、一つの信心の両面を示してます。
「アカンもの」とは具体的には次のようにあります。
それさえ
-花田先生の「人間の原点」を拝聴して
愚かな愚かな
わたしです
それさえしらぬ
わたしです
無慚・無愧の
わたしです
それさえしらぬ
わたしですナモアミダブツ
ナモアミダブツ(『念仏詩抄』五八頁、永田文昌堂)
愚者ということも知らないほどの愚者であり、人に恥じ、天に恥じることがない無慚、無愧ということも知らないほどの恥知らずであると記されます。無相さんの自分を見る眼は鋭く、「極重悪人」「誇法の身」「愚悪の衆生」「邪見、無信の者」といわれます。このような「アカンもの」が南無阿弥陀仏によって救われることが「それさえ」から窺えます。
無相さんは自分の心が醜くて仏教に救いを求めたのでしたが、三十三年間求めて得たものは、心の醜いままに救われる教えでした。無相さんは「アカンもの」は善くなったりはしない、ご信心をいただいても「アカンもの」のままで何も変わるものはないとして、そのままに救う南無阿弥陀仏を頼りとして喜んでおられました。
無相さんは極重悪人、誇法の身などの自分かわかって凡愚としての新しい人生が始まったというより、念仏に救われたところに新しい人生が始まっているようです。
信心の智慧によって知らされる私自身とは、廣瀬師のような新しい生き方をする私なのか、また木村無相さんのように凡夫性を徹底して自覚しながらも法のはたらきを頼む私なのか。人それぞれのような気がしますが、教えを聞く生活の中で知らされると窺えます。
(村上泰順)