大和の清九郎
今月の言葉は花岡大学師(一九〇九~一九八八)の『妙好人 清九郎』からの言葉です。
『観無量寿経』の「念仏するものは(中略)人中の芬陀利華(ふんだりけ)(白蓮華)なり」という言葉をうけて、中国の善導大師は篤信の念仏者を好人、妙好人といっています。
江戸時代に石見の学僧、仰誓師(ごうせいし)が『妙好人伝』を編集して、篤信の信者が多く顕彰されました。その後、五種類の『妙好人伝』が刊行されました。大和の清九郎は仰誓師が編集した『妙好人伝』に出てきます。大和国(やまとのくに)吉野郡(よしのごおり)鉾立村(ほこたてむら)(現在の奈良県大淀町)の人で、江戸時代が始まって約八十年経った一六七八(延宝六)年に誕生し、一七五〇(寛延三)年に往生しています。
清九郎は父親を早く亡くし、貧しい生活をしていましたが、大変な孝行者でした。清九郎は住み込みで仕事をしていましたが、夕方仕事が終わると、奉公先で食事をする前に、主人の許可を取って実家に帰り、老母の様子を窺い、水を汲み薪を割るなど、日々の生活に困らないようにしてから、奉公先に再び帰って冷めた食事をいただきました。また後年、念仏に帰依してからのことです。母を連れて京都のご本山にお参りしました。母は吉野からご本山まで歩くことはできませんので、清九郎は母を背負ってご本山にお参りしたといいます。
清九郎の孝行ぶりは高取藩の領主の知るところとなり、米五俵の褒美をいただくことになりました。清九郎は親に孝行するのは当たり前のことだといい、褒美を断ってしまいました。領主はますます感心して、銭を十貫文と領地のどこでも柴を採ってもいいという許可を出しました。この頃清九郎はすでに奉公を辞めて田を耕し、柴を売って生活していましたので、大変よろこびました。しかし欲が少ないのか、自分のような者が大きな銭を使うのはもったいないとして、一銭残らずご本山に献上しました。
清九郎は欲も少なく、純粋ではあるが少し変わった人のようです。しかし、人望もあり多くの人びとから慕われて、その名前は他の国にまで届いていました。仰誓師は清九郎が亡くなる一年ほど前に、吉野に会いにいき、「これほどすばらしい人がいるから吉野には(浄土真宗の)信者が多い」と述べています。またその生活は「御聖教の文のこころに叶うことばかり」であると言います。仰誓師は自分ひとりだけの出会いではもったいないとして、その当時住職をしていた伊賀上野の明覚寺に帰って自分の母親と道俗二十四人を連れて、再び吉野を訪れました。この仰誓師の行動からも清九郎の人柄が窺えます。
信心を得る~法を聞く~
『妙好人伝』によりますと、山で樵(きこり)をしているときも里に帰るときも、いつも二、三羽の鶯がついてきて離れないことが二、三年続き、清九郎は不思議に思っていました。
鶯は「法を聞けよ」とさえずるので、蓮如上人が最期の病床で三日間ほど枕元に置いて愛でられたと伝えられています。清九郎はこの話を聞き、その鳥かごを蓮如上人ご創建の本善寺の宝物披露で見せて貰いました。それから、鶯は「法を聞けよ」の催促であると思い、聞き始めたそうです。それはいつのころだったかは『妙好人伝』には書いていませんが、清九郎が女房を亡くした三十三歳頃かと思われます。
清九郎が妙好人として有名になってから、高取藩のお殿さまの母君に呼ばれました。そのときにいつ頃に信心を得たのかと問われました。清九郎は次のように答えてました。
願うべきは浄土なりと思ひそめしは四十三二の頃かとも覚え候へどもその頃は出離の道に付けても兎や角やと疑ひしに、いつしか疑ひも晴れ、今は近づく往生を楽しみ御報謝の念仏を喜ぶこと、これ全く他力の御催しと有難く存じ候。
(『妙好人伝』 一七頁、昭和三十三年、永田文昌堂)
『妙好人伝』の記述から考えますと、清九郎は、三十三歳頃か四十二歳頃に何かきっかけがあり、教えを聞いたのでしょうが、そのまま聞法を重ねていると、いつしか往生についての疑いもなくなり、今は御恩報謝の念仏を喜んでいるとあります。
清九郎が信心を得る話を、私は興味深く読みました。法を聞く縁があって、大きなきっかけ一つで、一気に生死の問題が解決することもあるのでしょうが、縁あるままに聞いていき、自分の依り所は念仏しかないと思いながらも、なおどこか納得できるようなできないような気になったりします。それでも聞いていくうちに「念仏しかないと思いながらも」の「思いながらも」が消えて、いつしか念仏を支えにしていくということもあります。聞いていくなかで、自分自身のもつ問題に収まりがつくことを教えている話として、私はありかたく受けとることができました。
『妙好人清九郎』
花岡大学師は仏典童話の作家として有名です。師は清九郎と同じく吉野の出身で、大淀町の浄土真宗本願寺派浄迎寺住職でした。大淀町の高校で教鞭を執りながら、児童文学の活動をされました。その後、京都女子大学で児童学科の教授となられ、児童文学、仏典童話の創作に打ち込まれました。大淀町には師の童話碑が建てられています。
花岡大学師が、同郷の妙好人清九郎の生涯を小説化したのが『妙好人 清九郎』です。この作品は、ちょうどお釈迦さまが阿弥陀仏と同じ境地になって『無量寿経』を説かれたように、花岡師が清九郎と同じ境地になって創られた作品のように感じられます。
親鸞一人がため
五月の言葉「わしひとりをめあての本願のありがたさ」は『妙好人伝』にはありません。清九郎ならばこのように言うであろうとして花岡師から出た言葉です。視点を変えますと、花岡師がこの言葉のように本願を感じておられたと理解できます。また『歎異抄』の、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
(『註釈版聖典』八五三頁)
からつくられたと理解しても、大きな間違いではないと考えています。
『無量寿経』には、法蔵菩薩が迷いの衆生を救いたいとして、二百一十億の浄土を見、五劫という極めて長い間、思惟して四十八の願いを建てて、兆載永劫にわたってあらゆる修行をして、阿弥陀仏になられたとあります。その四十八願の根本の願が本願です。いかに立派な浄土でも誰ひとり往生できなければ、意味がありません。私たちの往生浄土を誓われた願がまさに根本の願です。本願は四十八願の第十八番目にありますので、第十八願ともいいます。その内容は十方衆生(あらゆる人びと)を信心一つで浄土に往生させて、仏のさとりを得させたいというものです。
本願は十方衆生に願われていますが、聖人は「親鸞」一人がため」といわれます。
どのようなことなのでしょうか。
例えば学校で、一クラス四十人で授業を受けていますと、私は四十人の中の一人です。その授業がイヤなときは四十人の中の一人だからまじめに聞かなくても、先生に気付かれることはないと高をくくっているときがあります。しかし真剣に聞いていると、他の三十九人のことは気にならず、自分に対する授業になってきます。
もし自分かわからなければ、質問をしてわかろうとします。このように見ていきますと、あらゆる人びとを対象としても私一人のこととして本願を受けとめるのは、道を求める人にとっては、特別なことではありません。しかし「よくよく考えてみると私一人のためであった」と言葉に出てくるのは、普通のことではありません。
では、どのようなことでしょうか。
親鸞聖人は、
「凡夫」はすなはちわれらなり
(『一念多念文意』『註釈版聖典』六九二頁)
と述べられます。「われら」は『一念多念文意(現代語版)』つ三八頁)では「私ども」となっています。「私ども」は、私とも私たちとも理解できますが、もし私たちとしてもその中心は私である親鸞聖人です。さらに、凡夫とは、自分中心の心のままに生きてきて、思い通りにならないと、順風な人を妬んでみたり、時にはその人の欠点をあげつらったり、また些細なことで腹を立て、言ってはならないことを言ってとりかえしがつかなくなったりするようなもののことである、という趣旨のことをいわれます。また、みすがらを「愚禿(ぐとく)」といって、
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり
(『愚禿抄』『註釈版聖典』五一六頁)
として、外面は立派な賢者のようにふるまってしまっていることを述べられています。誰かと比較するのではありませんが、親鸞聖人は底下の凡夫としてご自身を見つめられています。そして「このような私にまでも願いがかかっている」ことが「よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がため」という言葉になっています。このご自身を見る目が普通のことではありません。
ひとりをめあての本願
『妙好人伝』では、仰誓師が清九郎のことを「御聖教の文のこころに叶うことばかり」であると言っています。つまり清九郎の言行や生活が御聖教の心にかなうことばかりという意味です。この点から考えると、清九郎も罪悪深重の凡夫という意識が強くあり、「清九郎ひとりをめあてとした本願」とありかたいとよろこんだことは容易に想像できます。
私たちにも本願のはたらきは、南無阿弥陀仏となっていつもはたらき続けています。もしその本願が友人、知人のために建てられ、私も友人同様に罪悪深重であるから、友人が救われたら私も救われるだろうと受け止めたとしますと、その本願は依り所にはなりにくくもあり、それほどありかたくは感じることはできません。
もっとも、友人と同様に私も罪悪深重だということは、自分自身をまじめに見つめる人には先ずあり得ないことです。私のような愚悪の凡夫にまではたらきかけて、「あなたが信心一つで往生しなければ、私は仏のさとりを開かない」と誓っていただいたと受けとめられたときに、阿弥陀仏が依り所になり、ありかたくも頼もしくも感じられます。
(村上泰順)