2015年7月 私が私であってよかったといえるあなたになれ 法語案内解説

hougo201507阿弥陀さま・親鸞さまとともに

 

今月の言葉は、実に味わい深いものがあります。これは一九九九(平成十二年十月五日に、四十歳でご往生された中島みどりさんという方の言葉です。彼女にはご主人と小学校二年生の娘さんと幼稚園に通う息子さんがいました。そんな彼女が悪性リンパ腫と診断され、激痛の中でご主人と二人のお子さんに、妻として、また母として、渾身の力で愛情のこもった言葉をつづり、思いの全てを伝えていかれたのでした。それが今月の言葉が収録されている『白蓮華のように―あなたに会えてよかった―』という一冊なのです。この本を読めば、彼女が厳しい闘病生活を、阿弥陀さま・親鸞さま、そしてご家族と、いかに感謝とよろこびと反省によって過ごしていかれたかがわかります。彼女は、幼少期に浄土真宗の日曜学校に通う生徒さんであり、やがて自然と人生の意味に真剣に向き合うようになっていかれたようです。この本にあらわれている彼女の姿は、尊い本物の念仏者です。

 

 

人生の実相

 

中島さんは今月の言葉を、ご自身で次のようにお子さん達に伝えておられます。

 

私が私であってよかったといえる私は、お金持ちになったり、健康だからよかったといえるようになったとか、そんなことではないのです。…中略…お金がなくても病気をしてもいろんなことをするなかで、いつでも、どんなときでも、「私が私でよかったといえるあなたになれ」と呼びかけてくださる方があった。その呼び声を聞くということが、人間のいちばん大事な願いではないでしょうか。そのお方こそ親鸞聖人だと私は思います。だから「お母さんは、お母さんでよかったと思ってます」、お母さんは親鸞様が大好きです。

(『白蓮華のように―あなたに会えてよかった―』一四~一五頁)

 

これによると中島さんは、自分の望むように金や健康があれば、人は自分の人生を認めることが出来るのだといった、そんな甘い人生観を勧めているのではありません。むしろそうしたことは思惑通りにならないことが人生であることを伝えつつ、それでも「私が私でよかった」とその人生を引き受けていける人間になれ、と言っているのです。そして自分の人生がどう在っても、それを引き受けていくためには、人生を認めてくれる自分以外の存在が必要なのであり、その方こそ真実の阿弥陀さまを明らかにされた親鸞さまであるとおっしゃっているのです。まことにその通りですね。

 

 

他力の論理

 

私は幼い頃、とてもかわいがってもらっていた方から「あなたは言ったことを理解してくれるから、好きよ」と言われたことがあります。私は子どもなからにこの言葉がとても怖かった。好きなことに理由があったわけですが、そこに強烈な違和感を覚えたのでした。そうであるならば、もしその方が言ったことを私が理解せず受け入れなかったら、自分のことを好きではなくなるのだ。反発すれば相手にされなくなるのだと思ったからです。

 

この言葉は当時の私に強烈な印象を残しましたが、大きくなるにつれ、人間関係というのは、多かれ少なかれ、こうした駆け引きのような関係によって成立していることにも気づいていきました。『無量寿経』には、

 

人、世間愛欲(せけんあいよく)のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。

(人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである)

(『註釈版聖典』五六頁)

 

という有名な言葉があります。世間に生きるそれぞれが、それぞれの思惑によって、都合のいいように「いい人」と「悪い人」と「どっちでもいい人」とを描き出し、その中を独りで生きている。結果を出せば賞賛されるが、出せない者は相手にもされず、思い通りにいけば喜ぶが、思い通りにいかないと腹を立てて、他人を責め、そして自分を責める。確かにこうした姿が、この娑婆世界の論理かもしれません。

 

しかし親鸞さまのみ教えに触れていると、これとはまったく別の論理に触れます。たとえば親鸞さまがとても大切にされた『涅槃経』には、父殺しの罪の重さに堪えきれなくなった阿闇世(あじゃせ)王の全身に、高熱をともなう無数の発疹ができてしまい、彼は心身共にまさに「生き地獄」ともいうべき重篤な状態にあったという場面が出てきます。そして、その様子を見た耆婆(ぎば)という大臣が、その病を治せるのはお釈迦さま以外にはいないだろうと告げ、それでもお釈迦さまとの面会を逡巡する王に対して、次のように告げるのです。

 

たとへば一人(いちにん)にして七子(しちし)あらん。この七子のなかに一子(いっし)病に遇へば、父母(ぶも)の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。

 

たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけはありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。放逸のものに如来は慈しみの心をかけてくださるのである)。

(『註釈版聖典』二七九頁)

 

ここに出てくる、病気の子にこそ親の愛情は集中していくという話は、先ほど述べました娑婆世界の論理とは違います。勝れているから認められるのではなく、劣弱な状態にあるからこそ見捨てることなく慈悲が向けられていく。それが阿弥陀さまの「摂取不捨」の大悲の論理なのです。

 

子が泣いていれば親は動きます。それはその子が利口だからでも、器量がいいからでも、その子に頼まれたからでも決してありません。そこに理由なんかないのです。しいていえば、その子が我が子だからでしょうか。阿弥陀さまが古来「親さま」と呼ばれてきた所以はここにあるのです。

 

 

よかった探し

 

ある土曜日、子どもがあまりにもせがむので、DVDを借りに行きました。一目散にアニメコーナーに走っていく子どもたちに私も着いていったのですが、そこでとても懐かしいDVDを見つけ、こっそり私も一緒に借りたのでした。それは『愛少女ポリアンナ物語』といいます。

 

この物語は全体を通して「よかった探し」という言葉と共に展開します。たとえば毎週火曜日はハムエッグを食べる日になっていたのですが、父が今日はハムと卵が手に入らなかったことを告げると、幼いポリアンナは、「それならご飯を食べない」とむくれてしまいます。それに対し、父は次のように告げます。

 

今ここにパンとミルクがある、このことに感謝しなければならないよ。そして今日は食べられなくても、お前には明日か明後日、とにかくハムエッグを食べる楽しみがあるんだよ。そうは思わないか? ポリアンナ。

 

それに対し、彼女は「確かに今日だったら当たり前みたいで、そんなに嬉しくなかったかもしれない。きっと今度食べる時は今日の何倍も嬉しいわ、よかった!」と言うのです。物語の中で、客観的にみれば、多くのつらく厳しい現実が彼女に襲いかかるのですが、本人はその中で上手に発想を転換しながら意味をみいたし、「よかった」を何度も探して、明るく乗り切っていきます。そのたびに彼女の持つしなやかな強靫さに感心させられます。

 

そして、私は中島さんの言葉にも同質のものを感じるのです。彼女はこう言います。

 

もしお寺にお参りして、聴聞をしてみたいと思うときがきたときは、ぜひ、お参りして下さい。

この世に生まれ出た目的がはっきりするはずです。お母さんもそのことがわからなくて随分と悩みました。随分苦しい時期もありましたけれど、こうして病気になり、はじめて目がさめた気がしました。やっと目をさめさせられたのです。ここまでの大変な病気をしなければわがらなかったのですね。だから、お母さんは自分の病気に感謝しているのですよ。苦しくてつらいけど、やはりこの病気になっていなければ、もっと大切なものに目が開かなかったでしょう。

そう考えるとなんでもご縁ですね。本当にありかたいことです。

(『白蓮華のようにあなたに会えてよかった―』一六頁)

 

自分の人生に「あれがなかった」「これがない」と言い出せば、それこそキリがないわけですが、この彼女の言葉は、むしろ自分には何か恵まれていたのか、そして、いま何か恵まれているのか、そちらに目を向けることの大切さを教えています。こうした発想の転換は、ご法義を聞く者に具わっていく仏の智慧であるといえます。そして、この苦難を転換する智慧を与えて、その人生を護念し続ける方、それが阿弥陀さまなのです。

 

中島さんという方はその阿弥陀さまに確かに出遇い、苦難を転換する智慧を得て、「私が私であってよかった」と見事に自分の人生を引き受けて行かれた珠玉の念仏者です。

 

今月の言葉を、いま一度昧わってみてください。

(井上見淳)

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