二月の法語は「和訳正信偈」の第四首後半です。
生きとしいくるものすべて このみひかりのうちにあり
一月の法語(第四首前半)に続くご文で、「正信掲」では、
……一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)
……一切(いっさい)の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る(『註釈版聖典』二〇三頁)
とある句にあたります。
現代語版では、
……すべての衆生は、その光明に照らされる。
(『教行信証(現代語版)』 一四四頁)
とあって、阿弥陀さまの無量無限のひかりに、私ども迷いの中にある生きとし生けるものすべてが照らされている、そのはたらきの中にいだかれてあると、その慶びを詠われています。
一月の法語をいただく中でも触れたように、親鸞聖人は、ご和讃に、「十二光」と示される阿弥陀さまのはたらきを、感動とよろこびをもって詠われています。そのいくつかを取り上げて、この法語を味わうことにしましょう。
無礙の大道
光雲無礙如虚空(こううんむげにょこくう)
一切の有礙(うげ)さはりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議(なんじぎ)を帰命せよ(『註釈版聖典』五五七頁)
「十二光」について詠う中で、「無擬光」を讃えるご和讃です。現代語訳してみますと、
阿弥陀さまのひかりは輝く雲のようであり、何ものにもさまたげられない大空のようである。すべての障碍(しょうがい)(=煩悩)にさまたげられることなく、そのひかりのはたらきを受けないものはない。はかり知ることのできない「難思議」〔なる阿弥陀仏〕に帰依しなさい。
十二光の中の「無礙なる光」のはたらきを示されて、そのような阿弥陀さまに帰依しなさいと詠います。
私たちの世界では、たとえば、大きなビルが建てられて日照権が侵害されたとか、大自然の素晴らしい眺望が奪われたということがしばしば言われます。また、携帯電話やスマートフォンなどが自在に活用される時代ですが、場所によっては、電波が届かず、音声が途切れたり、映像が消えたりします。このように、私たちの世界では、障害物があれば機能不全になったり、誤動作したりします。
「無礙」とは、さまたげるものがない、障碍となるものがないということで、阿弥陀さまのまなこは自由自在にものをとらえ、その大慈悲のはたらきを邪魔するものは何一つとしてないということなのです。
『歎異抄』第七条には、
念仏者は無磯の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇(じぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障磯(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずるとあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(『註釈版聖典』八三六頁)
〔現代語版〕
念仏者は、なにものにもさまたげられないただひとすじの道を歩むものです。
それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信ずるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのよ
うな善も本願の念仏には及ばないからです。
このように聖人は仰せになりました。(『歎異抄(現代語版)』 一三頁)
とあり、阿弥陀さまの「無礙なる光」のはたらきがはっきりと示されています。真の法則であり真理のはたらきである如来の威神力の前には妨げとなるものはないということです。
曇鸞大師を讃嘆されるご和讃に、
無擬光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし(『註釈版聖典』五八五頁)
と詠われています。すなわち、
「無礙のひかりのはたらきによって他力の大信心が得られ、氷のように硬い煩悩がそのまま転じてさとりの智慧となる」
「罪悪や煩悩の障りが悟りの徳の本体となる、ちょうど氷と永のように、氷が多くて水が多くなるように、罪悪や煩悩の障りが多くて悟りの徳が多くなる」
と詠われて、障碍となる「罪障の氷」が多いほど、悟りの「功徳の水」が多くなるとよろこばれ、阿弥陀さまの「無擬なる光」のうちにあることを、このように讃嘆して詠っておられるのです。
大悲ものうきことなし
「正信偈」の終わりに近いところに、源信和尚の『往生要集』のおことばを詠われている偶文があります。
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
極重の悪人はただ仏を称ずべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり
(『註釈版聖典』二〇七頁)
現代語版では、
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と〔源信和尚は〕述べられた。
(『教行信証(現代語版)』 一五一頁)
まさに、阿弥陀さまの光明のはたらきが限りない無際限であり、無礙であり、不断にして常にはたらいてくださっているがために、わが身の身勝手なむさぼりなどの煩悩が障りをなそうとしても、常に私を見守り見捨てることがない、と、お示しくださっています。
欧米の篤信の聞法者に、朝夕に「正信偈」をお勤めしながら、この源信和尚のことばの偈文に来ると、「感動のあまり、声が詰まるのです、……」と述懐されているお方がおられます。—-「この偈文は、この私のためにお示しくださったのだ……」と、感極まって涙が出てくる、と言われるのです。
さらにご和讃にも、同じように詠われています。「源信大師 釈文に付けて十首」とされる中に、
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり(『註釈版聖典』五九五頁)
と詠われる詩頌です。「和訳正信偈」では、第二十七首に、
罪の人々 み名をよべ
われもひかりの うちにあり
まどいの眼には 見えねども
ほとけはつねに てらします
と詠われています。
このように、「正信偈」やご和讃、「和訳正信偈」に、「無礙なる光」の阿弥陀さま、「無量なる光」の阿弥陀さま、「不断なる光」の阿弥陀さまと讃えられる阿弥陀さまの大いなる光明のはたらきを、「このみひかりのうちにあり」と味わわさせていただきます。
(佐々木恵精)