2016年3月 信心ひとたびおこりなば 煩悩を断たで涅槃あり 法語カレンダー解説

hougocalender201603三月の法語は「和訳正信謁」の第七首前半です。

 

信心ひとたびおこりなば

煩悩(なやみ)を断たで涅槃(すくい)あり

 

「正信偈」では、

 

能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん)
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)

よく一念喜愛(いちねんきあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり

(『註釈版聖典』二〇三頁)

 

という偈文にあたります。現代語版には、

 

信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる。

(『教行信証(現代語版)』一四四頁)

と訳されています。

 

 

信心ひとたびおこりなば

 

この「正信偈」のご文について、ある先輩の先生は、「よく・・・・発す」(能発)と詠われるところに注目したいと言われます。それは、「能(よく)」の字が置かれているところに、親鸞聖人の深い感慨の心がうかがわれると言われるのです。

 

中国浄土教を大成された善導大師が『観無量寿経』を解説くださった『観経疏』の中の「散善義(さんぜんぎ)」に、「深く信ずる心」について説かれる中に、

 

決定して深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、礦劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず

(『註釈版聖典』二一八頁)

 

と示されています。

 

現代語版では、

 

わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、ばかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信ずる。

(『教行信証(現代語版)』 一七二頁)

 

と述べられ、親鸞聖人はこれをその通りに重く受け止められて『教行信証』の「信文類」(『註釈版聖典』二一八頁)などに引用されています。

 

―私どもは、礦劫のいにしえより迷いの海に浮き沈みを繰り返していて、そこから離脱できる縁は全くなかったのです。そのような私どもに、阿弥陀さまは飽くことなく大慈悲のお育てのみ手を差し伸べてくださって、今やっと「他力の信」に目覚めることができました、という感動の心が「よく・・・発す」のご文になっているのではないか、ということです。「和訳正信偈」のご文では、「信心ひとたびおこりなば」にその感動の心がうかがわれるでしょう。

 

 

煩悩を断たで涅槃あり

 

「煩悩」とは、さとり(正覚)に対する無智からおこるもので、私どもの自己中心的な営みそのものであり、身勝手な欲望(貪欲)や、それが満足できないでいらだちに走る怒り(瞋恚)などに支配されているのが「煩悩具足」の姿であると説明できるでしょう。人間生活の全体が煩悩の活動そのものであります。

 

釈尊がおさとり(正覚)を完成(成就)されたことを物語る釈尊伝では、「降魔成道」と呼ばれる一段に、「煩悩具足」の凡夫の姿が語られています。釈尊は出家された後の数年間厳しい苦行をされますが、「苦行は心身を痛めるだけだ」と気づかれて、最後の三昧(深い禅定、精神集中)に入られます。その時に、悪魔が釈尊の三昧を妨害するために、乙女の姿をして欲望を駆り立てる誘惑の手を出したり、武力で妨害したりするなど、三昧の邪魔をする物語が語られます。しかし、釈尊はその誘惑や妨害をひとつずつ退けられたといわれます。これは、釈尊の心の中で悟りの道を妨害する「煩悩」がはたらいていたことを意味するとされます。釈尊がこれらの「煩悩」を一つひとつ退けられて、ついに涅槃(正覚)に至られたというのが、仏伝の「降魔成道」すなわち「悪魔を降する(=悪魔を退ける)ことが、道を成す(=涅槃に至る)ことになる」という物語となっています。

 

このように、「涅槃」とは、煩悩のはたらきがなくなったこと、すなわち煩悩の活動が火を消したように消滅したところで、「悟り(正覚)」が得られたことを意味します。

 

したがって、自ら悟り(正覚)を求める「聖道門」や「自力の道」では、「正信偈」に言われる「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」とか、「和訳正信偈」の「煩悩を断たで涅槃あり」ということは不可能なことになります。

 

このように、「断煩悩」すなわち凡夫が自ら煩悩を断ち切ることは不可能であり、自分の努力で迷いから離脱する道はないということになります。親鸞聖人は、比叡山において二十年もの間、その苦悩の道を歩まれ、絶望に沈まれて法然聖人を訪ねることになられたのでした。そして、この絶望に沈む凡夫に代わって、煩悩を断絶する「行」が、阿弥陀さまの「五劫思惟の願、兆載永劫のご修行」であったこと、その成果が名号「南無阿弥陀仏」に凝縮されて「これを受け取ってくれよ」と喚びかけられていることを教えられたのでした。

 

すなわち、私の方は、煩悩具足のまま、煩悩を断つことのできないままでありながら、阿弥陀さまのおはたらきによって、名号のはたらきによって、涅槃のさとりを完成(成就)することのできる身となるということなのです。

 

『歎異抄』の結び(後序)に、親鸞聖人のおことばを引かれています。

 

聖人のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、礦劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。

(『註釈版聖典』八五三頁)

 

〔現代語版〕

親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた1 ‥臓をよくよ仁札ごてみるとヽそれはただこの親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であっだのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話しになっておられました。そのことを今またあらためて考えてみますと、善導大師の、「自分は現に、深く重い罪悪をかかえて迷いの世界にさまよい続けている凡夫であり、果てしない過去の世から今に至るまで、いつもこの迷いの世界に沈み、つねに生れ変り死に変りし続けてきたのであって、そこから脱け出る縁などない身であると知れ」という尊いお言葉と、少しも違ってはおりません。

(『歎異抄(現代語版)』四八頁)

 

このように、煩悩具足のままのこの「私」は、涅槃(正覚)へと出離する縁など全くない身であるのに、阿弥陀さまの大いなる本願のはたらき、「南無阿弥陀仏」として結実した救いのおはたらきによってこそ、この世を離れる時、往生成仏する身となっている、といわれるのです。

 

「煩悩を断たで 涅槃あり」は、以上のようにいただかれるでしょう。

(佐々木恵精)

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