生老病死の解決
ある先生から、「『人生が空しい』という人がいますが、それは、人生が空しいのではなく、空しい人生観しか持っていないだけなのです」というお話を聞かせていただいた時、深く考えさせられた記憶があります。私たちは、空しくない人生、真に充実した人生が送れることを望んで生きています。しかし、そのような人生を送れている人が、どれだけいるでしょうか。
お釈迦さまは、王子という身分に生まれ、何不自由ないめぐまれた環境にいながら、何か満たされない空しい人生を送られていました。その根本的な原因は、老・病・死に対する不安にありました。人はどんなにめぐまれた生活をしていても、生まれたからには、必ず老い、病み、死んでいきます。これらの苦しみは、後に四苦として説かれますが、四苦とは、生苦(生まれる苦しみ)、老苦(老いる苦しみ)、病苦(病の苦しみ)、死苦(死ぬ苦しみ)の、四つの苦しみのことです。お釈迦さまは、この四苦を解決しない限り本当の幸せはないという思いから、出家されたといわれています。
皆さんは、老い、病み、死んでいくことは、いやですか。もし、老い、病み、死んでいくことが不幸なことだとしたら、「オギャー」と生まれた瞬間が、一番若く、健康で、死から遠いので、一番幸せだということになります。そして年をとり、病んでいくにしたがって、どんどん、どんどん、不幸になって、最後には死んでいかなければならないので、ものすごく不幸になって人生を終わることになります。そんな人生、いやではないですか。
お釈迦さまは、四苦の解決を求めて二十九歳で出家し、三十五歳でさとりを開き、四苦を解決されたのです。四苦を解決されたからといって、老いなかったり、病気にならなかったり、死ななかったりするのではありません。お釈迦さまも、老い、病み、死んでいかれました。しかし、老い、病み、死んでいくことが不幸なことではない、という人生観を体得されたのです。老いるということは、肉体的には衰えていきますが、精神的には、新しい世界が開けてくることでもあります。若い時見えなかった世界が、老いて見えてくるということもあるでしょう。病についても、肉体的な苦しみは避けられませんが、病になったおかげて周りの人の温かさにふれ、幸せになることもあるでしょう。死も決して駄目になることではなく、大きないのちに還っていくことだと受け取れれば、決して不幸になることではないのです。このように、老・病・死は決して駄目になること、不幸なことではなく、大きな意味のあることなのです。
さとりの世界
『仏説阿弥陀経』に、さとりの境地である極楽浄土は、どのような世界なのかということが述べられています。それによると、
お浄土には、綺麗な池があって、その底には金の砂が敷き詰められている。そして、その池には、綺麗な蓮の花が咲いている。青色の蓮の花は青色の光を、黄色の蓮の花は黄色の光を、赤色の蓮の花は赤色の光を、白色の蓮の花は白色の光を放ち、よい香りを漂わせている。
とあります。これは、「私か私色に光り輝き、あなたがあなた色に光り輝く。それが本来あるべきあり方であり、さとりの世界だ」ということを表しています。それぞれの色の蓮の花がそれぞれに光っているというところを、漢文で表記すると、
青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう) 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)
となります。ある人が、この青黄赤白のところを生老病死の漢字と入れ替えて、
生色生光 老色老光 病色病光 死色死光
として味わわれました。生か生のまま光り輝き、老いが老いのまま光り輝き、病が病のまま光り輝き、死が死のまま光り輝く。それがさとりの境地であり、空しくない人生なのです。仏さまのみ教え(はたらき)が私に届いた時、そんな世界が開けてくるのです。
天親菩薩の『浄土論』
さて、七月の法語は、『高僧和讃』「天親讃」の中の一つ、
本願力(ほんがんりき)にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くとく)の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし (『註釈版聖典』五八〇頁)
の後半部分です。現代語に訳してみると、
本願のはたらきに出遇ったならば、空しく迷いの世界を過ごす人はいない。
名号にそなわったすぐれたはたらきが、海のように満ち満ちて、濁った煩悩の水も、分け隔てがない。
となります。
『高僧和讃』は、七高僧(龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道棹禅師・善導大師・源信和尚・法然聖人)の教えを、その事跡や著作をもとに、和語で讃嘆されたものです。この和讃は、天親菩薩の著作『浄土論』の、
観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海
(『尊号真像銘文』引文、『註釈版聖典』六五一頁)
(仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。『註釈版聖典(七祖篇)』三一頁)
によって、作られたものです。
本願力を信じる
和讃を昧わってみましょう。まず、前半の「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」とは、阿弥陀さまがすべての人を必ず救うと願いはたらいてくださっている、そのはたらきに遇えば、空しい人生を過ごす人はいないということです。阿弥陀さまのはたらきは、南無阿弥陀仏のお念仏(名号)となって私たちに届きます。もっとわかりやすく言えば、教えの言葉となって届きます。そしてそれは、私の闇を照らしてくれる光となるのです。光によって闇は破られるように、私の人生の闇は、言葉によって破られます。そこに、空しくない人生が開けてくるのです。
親鸞聖人は、「遇」という文字について『尊号真像銘文』の中で、
「遇」はまうあふといふ。まうあふと申すは、本願力を信ずるなり。
(『註釈版聖典』六九一頁)
と解説してくださっています。「もうあう(まうあふ)」の「もう」は、「参る」の変化したもので、「もうあう」とは「尊いものにあう」という意味になります。また「遇」の字には、「たまたま」という意味があります。つまり、「本願力に遇う」とは、単に「本願力に会う」のではなく、「たまたま偶然あわせていただく」という意味であり、それはまた「本願力を信じる(疑いなく受け容れる)」ということを意味するのです。
次に、後半の「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」についてです。親鸞聖人は、「功徳」という言葉について『一念多念文意』の中で、
「功徳」と申すは名号なり。 (『註釈版聖典』六九二頁)
と、「功徳」とは南無阿弥陀仏の名号である、と解説してくださっています。一般的に「功徳」とは、善い結果をもたらすもととなる善行(「功徳を積む」)、または、善行の結果として与えられる果報(「功徳がある」)の意味でとらえますが、基本的には、すぐれたはたらき(性質)という意味です。つまり、「功徳の宝海」とは、南無阿弥陀仏の名号のすぐれたはたらき(性質)が果てしなく広く大きいことを、海に喩えているのです。海は、どんなに汚れた川の水が流れ込んでも、それを同化して一味にします。それと同じように、南無阿弥陀仏の名号のはたらきが私に満ち満ちて、煩悩と同化して分け隔てがないというのです。
煩悩と分け隔てがないというということは、煩悩が往生の妨げにならないということを意味します。南無阿弥陀仏の名号のはたらきは、煩悩に妨げられることなく、私たちを浄土に往生させてくださるのです。
親鸞聖人は、このような阿弥陀さまの無磯の救いを、尽十方無傷光如来というみ名のうえで味わっておられます。尽十方無磯光如来とは阿弥陀さまの徳を表す名で、智慧の光をもって十方世界を照らし、さわりなく衆生を救う如来、という意味です。
浄土に向かう人生
『親鸞聖人御消息』では、
第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無磯光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。(『註釈版聖典』七四七頁)
(第十八願を成就したことにより阿弥陀仏となられ、思いはかることのできない利益が極まりないというそのお姿を、天親菩薩は尽十方無傷光如来と表されています。ですから、善人や悪人を区別することなく、煩悩に汚れた心を分け隔てすることなく、必ず往生すると知らなければなりません。)
と述べられています。
「煩悩に妨げられることなく浄土に往生させていただく」ということは、「煩悩だらけのこの私か、南無阿弥陀仏の名号のはたらきによって、今、ここで、浄土に向かう人生を歩ませていただく」ということなのです。浄土に往生させていただくのは、この世のいのちを終える時ですが、往生浄土の道を歩ませていただくのは「今、ここ」なのです。ある先生が、「名号は阿弥陀さまの智慧と慈悲の結晶である」といわれました。阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきが、南無阿弥陀仏の名号として私に届き、煩悩に振り回されて生きている私を、正しい方向に導いてくださるのです。そして、空しい人生を空しくない人生へと転換してくださるのです。
親鸞聖人は、その状態を「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と讃嘆されたのです。 (小池秀章)