二〇一八(平成三十)年の法語カレンダーでは、和語聖教を中心に、ともに味わうご縁とさせていただくこととなりました。
親鸞聖人のご書物には、漢文体で論述された『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』などと通称します)のほかに、一般にも親しみやすい平仮名や片仮名交じりで書き下された文体の和語聖教があります。
たとえば、法然聖人門下の先輩の書物である聖覚法印(せいかくほうぃん)の『唯信紗(ゆいしんしょう)』や隆寛律師(りゅうかんりつし)の『一念多念分別事』、これらをやさしく註釈された書物としては、『唯信紗文意』や『一念多念文意』など、数々の和語聖教が存在します。『一念多念文意(いちねんたねんぶんべつのこと)』の文末には、
都から遠く離れたところに住む人々は、仏教の言葉の意味もわからず、教えについてもまったく無知なのである。だから、そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、同じことを繰り返し繰り返し書ぶつけたのである。ものの道理をわきまえている人は、おかしく思うだろうし、あざけり笑うこともあるだろう。しかし、そのような人からそしられることも気にかけず、ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、書き記したのである。 (二念多念文意(現代語版)』四○~四一頁)
と、記されています。仏教の難しい言葉や意味をやさしく理解してもらおうと、同じことが繰り返し繰り返し書かれています。
そこには、親鸞聖人による読み手への数々のご配慮がなされています。その特徴をいくつか挙げますと、まず解釈されている経典や論書などの漢文には、読み方を示す振り仮名がつけられています。また、それをどのように読み下し訓読するのかが示されて、語句の一つ一つの意味が詳細に註釈されています。そして最後に、全体がまとめられるという構文となっています。そのほか、読み間違いや意味の取り間違いがないように、文章が区切られながら書かれており、その間に朱筆で区切りも示されています。漢字の語句の左には、その語句の意味などが記されており(左訓)、解釈の上でも重要な手掛かりとなります。このように、関東のご門弟などに宛てて送られた和語聖教は、聖教の読み方とその意味を取り間違わないように、数々の配慮がなされ、今日の私たちが親鸞聖人のご解釈をうかがう上でも助けとなるものです。まさに懇切丁寧な文書伝道であります。
極楽は無為涅槃の界なり
それでは、法語カレンダーの月々のことばを通して、和語聖教を味わわせていた
阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなり (『註釈版聖典』七一〇頁)
表紙に挙げるこの言葉は、『唯信紗文意』の中で、七高僧のお一人、中国の善導大師(ぜんどうだいし)の『法事讃(ほうじさん)』巻下の供頌(げじゅ)の一部、
極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい) 随縁雑善恐難生(ずいえんぞうぜんくなんしょう)
故使如来選要法(こしにょらいせんようぽう) 教念弥陀専復専(きょうねんみだせんぶせん) (『註釈版聖典聖典』七〇九頁極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆえに如来、要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり 『唯信抄文意(現代語版)』ニー百)
という文を解釈された一文です。冒頭の句である「極楽無為涅槃界」を解釈された最後に、「しかれば、阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」と教示されたお言葉です。聖人はこの文を重要視されたようで、『教行信証』「真仏上文類(しんぶつごもんるい)」と「化身上文類(けしんどもんるい)」に引用されており、お浄土の世界や仏身に関する重要な文であることがうかがえます。
「極楽」とは、『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』を翻訳された鳩摩羅什(くまらじゅう)以後の訳出語でありますが、阿弥陀仏の安楽浄土で楽しみが絶えることなく、苦しみがまじわらない国を意味します。曇鸞大師(どんらんだいし)は「安養(あんにょう)」、天親菩薩(てんじんぼさつ)(世親菩薩)は「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」「無為(むい)」ともいわれています。また、煩悩の迷いを転じてこの上ない涅槃のさとりを開く世界ですので、「涅槃界」ともいわれます。
そのほかに、「涅槃」はまた煩悩の滅したさとりの境地から「滅度」、常に変わることのない真実で「無為」、さとりの大楽で「安楽」、常住の大楽で「常楽」、真実のありさまで「実相」、真理としての仏陀で「法身」、あらゆるものの本性で「法性」、ありのままの真理で「真如」、唯一絶対の真理で「一如」、仏陀の本庄で「仏性」ともいわれ、その真理に到達し真理のさとりの世界から迷いの境界に来たれるもので、「如来」ともいわれます。
一如の世界から形をあらわす
ところで、仏教では私たち衆生には、仏になる種(仏種性)があるとし、『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」と、すべての生きとし生けるものに仏になる可能性があるとします。
しかしながら、親鸞聖人は衆生の自力成仏の可能性について、
安養浄刹(あんにょうじょうせつ)は真の報土(ほうど)なることを顕(あらわ)す。惑染(わくぜん)の衆生(しゅじょう)、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。
(『教行信証』「真仏土文類」、『註釈版聖典』三七〇圭二七一頁)
と、衆生が仏性を開顕するために、戒律や禅定によりこの世で成仏を求めることを否定されます。阿弥陀さまのはたらきに依るなかに、私たちの往生成仏の可能性をみていかれます。
本来は、色もなく形もない、真実・無為・法身ともいわれるさとりの世界は、迷いの境界を抜け出せない衆生を見抜かれて、さとりの智慧が深い大慈悲に催されてはたらきだします。このさとりの世界から形をあらわして、方便のすがたを示して法蔵菩薩と名のられ、微塵世界に満ちみちる一切の迷いの存在を救わんがために誓願を建立されて、仏と成られたのが阿弥陀さまです。
阿弥陀仏の智慧と光明
「阿弥陀仏」は梵語のアミターバ(Amitabba、光明無量)、あるいはアミターユス(amitayus`、寿命無量}の音写語で、どちらの語もその語源であるといわれています。阿弥陀さまの誓願の第十二願にもとづく光明無量は、仏のさとりの智慧が光明として限りなくはたらく有り様を意味し、第十三願にもとづく寿命無量は、そのおさとりの寿命が限りないという、救いの慈悲の本質を意味しています。
親鸞聖人は、阿弥陀さまとお浄土を表現される時に、そのはたらきの側面を重視されています。阿弥陀さまを、天親菩薩の理解にもとづいて「帰命尽十方無優光如来(ききょうじんじっぽうむげこうにょらい)」、曇鸞大師の理解にもとづいて「南無不可思議光仏(なもふかしぎこうぶつ)」と名づけられ、その浄土を異訳の大経である『平等覚経(びょうどうがくきょう)』に草づいて「無量光明土」と示されています。
さとりの世界である涅槃の境界は、煩悩に眼をさえぎられている衆生には到底認知できる世界ではありませんが、逆にさとりの智慧は、救いのはたらきをなす時に「光明」という形となって、衆生にはたらきかけます。それはけっしてさとりの智慧と別ものではありません。『浄土和讃』「大経讃」には、
無擬光仏のひかりには
清浄・歓喜・智慧光
その徳不可思議にして
十方諸有を利益せり (『註釈版聖典』五六六百)
と、そのお徳を讃えられるように、「かさばり・いがり・おろかさ」という三毒の煩悩にまみれた衆生を救わんとする手だてとして、智慧は光明としてはたらいているのです。
しかもそのはたらきは、私たちの認識できる形としては、救いのはたらきを名とされた仏さま、すなわち「名号」として、さとりの智慧を離れずしておはたらきになっているのです。
(武田 晋)