2018年7月 雑毒の善をもってかの浄土に回向する、これかならず不可なり。

布施の心

全国的には八月がお盆ですが、七月がお盆という地域もあると聞いています。日頃はなかなかお寺との付き合いが多くはなくとも、お盆には多くの方がお寺や僧侶と接点を持ちます。
お盆には多くの地域でお盆参りがあり、法事などの法要を除くと、一年のうちでお盆には必ずお参りをしていただかなくてはと考えておられるご門徒もいらっしやるでしょう。お参りをした際には、お勤めの後、お布施をいただきますが、お布施にはどのような意味があるかご存じでしょうか。
布施は『もともと仏教で説かれた六波羅蜜(ろくはらみつ)の行の一つです。波羅蜜(はらみつ)とは、迷いの岸(此岸)からさとりの岸(彼岸)に至るために修する行のことです。その一つが布施波羅蜜です。誰かに何かを施すということをいいます。一般的には、施すものは財産・金品だと考えられています。
では誰かに何かを施せば布施になるのかというとそれほど簡単ではありません。
大学からの出張やさまざまなご縁をいただき、いろいろなところに寄せていただくことがあります、食いしん坊の私は、その上地L地の美味しいものをいただくことが、楽しみの一つになっています。けれども、私だけ一人で楽しむのも少し気が引けるので、家族にもお土産を買って帰ります。はじめの頃は、お土産を探している時も、喜んでくれる顔を思い浮かべながら、楽しく探していました。家に帰り、買ってきたお土産を渡すと、満面、喜びの表情でした。しかし、同数が重なり、以前喜んでくれたものと同じものを買って帰ったりすると、少しずつ様子が変わってきました。「ただいま」の後、「はい、お上産」と渡すと、「はい」と当たり前のような返事が返ってくるようになりました。それで良いのでしょうが、なぜか、私の心の内に、もやもやあとした気持ちが残ってしまったのです。
その原因は明らかです。
せっかくお土産を買って帰ったのに、嬉しそうな表情もなければ、「ありがとう」の言葉もなかったことに対して、もやもやあとした気持ちが残ってしまったのです。
はじめの頃は、お上産を選びながら、喜んでくれる表情を思い浮かべながら買い物をすること、そのこと自体が楽しかったのですが、だんだんと途中からは、義務感のような想いに変わってしまったのです。それが、「買ってあげたのに」の「あげた」「のに」という言葉でしょう。「忙しい私が、わざわざ時間を割いて買ってきてあげたのに…」という想いがあるから、せめて、喜びの笑顔や感謝の言葉ぐらいは、返して欲しいという想いです。見返りを求める想いです。
布施が波羅蜜として、真実の行であるためには、このような見返りを求める想いが消えなければなりません。「私があげた」「あなたにあげた」「何をどれだけあげた」という、三つの事柄がすべて消えてなくなれば、布施波羅蜜といえるでしょう。清らかな心といえるでしょう。
逆に「私が」「あなたに」「何を」ということにいつまでもしつこく執着しているとすれば、それはまったく清らかではありません。
布施といっても、なかなか簡単ではなさそうです。

善を浄土に回向する

今月のことばは、「浄土文類聚紗(じょうどもんるいじゅしょう)」にあるご文です。

雑毒(ぞうごく)の善(ぜん)をもってかの浄土(じょうど)に回向(えこう)する、これかならず不可(ふか)なり。
(「註釈版聖典」四九二頁)

まず回向の語から考えてみましょう。「回」とはめぐらすこと、「向」とはさしむけることと説明されます。『浄土真宗辞典」(本願寺出版社刊)の「回向」の項には、

自己の善行の功徳を自身の菩提、または他にめぐらしさしむけること。

と説明されています。(五一頁)

自分自身がさとりを開くために、善行を積んでいくという考えが一つです。もう一つは、他者をさとらせるために、自分自身が善行を積んでいくという考えです。ともに、自分自身が善行を行って積んだ功徳を「回し向ける」という考え方です。
まず前者から考えてみましょう。浄土真宗に限らず、仏教は仏さまになることを教えています。仏教が成仏教であるといわれる点です。その仏教の中、浄土真宗は、阿弥陀仏という仏さまの浄土に往生して、浄上でさとりを開き仏さまとなるという仏教です。自身の菩提に回し向けるとは、阿弥陀さまの浄上に往生するために、善行を修し、功徳を積むということです。しっかりと善行をし、功徳を積み、それを阿弥陀さまに回向して、阿弥陀さまに認めてもらえれば、浄土に往生させてもらえるという考えでしょう。自分の頑張り・努力・精進の証を阿弥陀さまにアピールして、それを認めてもらえれば、浄土に往生して救われるという考え方です。わかりやすいといえばわかりやすい考え方です。
それは、私たちの口頃の生活がこのような考え方をしているからでしょう。小さな子どもは一生懸命頑張って、親や大人に褒めてもらえると人喜びします。親や大人に褒めてもらうために、一生懸(叩頑張っているようにも見えます。人人も似たようなところがありそうです。長年努力をしてきたことを評価されると、嬉しくなります。「長年の苦労が報われた」と感慨深げに思い返すこともあるでしょう。
阿弥陀さまに認めてもらい浄土に往生させてもらうために、善行を行い功徳を積むという考えが前者です。
後者は、私か浄土に往生するためではなく、他者を浄土に往生して成仏させるために善行を行うことです。その一つが追善供養・追善同向と呼ばれることがらです。先に亡くなられた方(故人)が、浄土に往生できずに迷っていると考えたりします。いまだ成仏できていないと案じることがあるかもしれません。このように、成仏できずに迷っている故人のために、故人に代わって善行を修行し、功徳を積み、それを回向して、故人を供養し成仏してもらおうとする考え方です。
前者・後者とも、親鸞聖人のお考えとは異なりますね。

雑毒の善

次に、雑毒とは、毒が雑(まじわ)るということです。毒とは、三毒の煩悩を指します。
お土産を買うという行為自体は、けっして悪いことではありません。むしろ美しい行為ということもできます。けれども、その行為をしている者の心を開いてみると、心の内には、「自分が」「私か」「俺が」という自己主張・自己中心な思いが、とぐろを巻いています。このことを「雑毒の善」とあらわされているのです、「正像末和讃」に次の一首があります。

悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる             (「註釈版聖典」六一七頁)

(悪い本性を抑えることなどできるはずもない。その心はまるで蛇や蝎のようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじっている。だからその行いはいつわりの行と呼ばれている。「三帖和讃(現代語版) 一八三頁)

悪い行為をしているのであれば、ことは簡単かもしれません。明らかに善行ではないからです。逆に、本人が善いい行為をしていると思っている時の方が、厄介ではないでしょうか。良いことをしているつもりでも、その心持ちが善=清浄でなければ、「雑毒の善」「虚仮の行」といわなければならないのです。厳しいですね。

お浄土に往生するには

阿弥陀さまのお浄土に往生する時に.私たちが何らかの善行を修し、積んだ功徳を回向することによって、はじめて往生が可能になるとすればどうでしょうか?
私たちには可能でしょうか?
答えは「N0!」ですね。
私たちがしていることは、浄土に回向して評価されるような普行・功徳ではありません。「雑毒の善」といわれるものでしかありません。この「雑毒の善」を回向するからといって、お浄土に往生させていただけるわけではありません。今月のことばの意味するところです。
では、お浄土に往生することを、どのように考えればよいのでしょうか?
答えは、阿弥陀さまの大きな広いお心です。
阿弥陀さまは、一部の人を救い、そのほかの人を救わないとはおっしゃいません。
特定の人を先に救い、そのほかの人は後同しという救い方でもありません。救いに、前後・後先などの順番を付けたりもなさりません。何十年も修行を続ける人も、まだ修行を始めて日の浅い人も、すべて等しく救いたいと順い、誓ってくださっています。
人間らしい考え方、人間っぽい見方をすれば、修行期問の長い者と短い者が同じように救われるというのは不思議な気がします。長年修行に励んでいる者が先に救われるだろうというのが、人間らしい考え方です。
けれども、阿弥陀さまの眼差しは、すべての軒が行っているすべての事柄は皆、浄土往生にとっては「雑毒の善」でしかないということです。だからこそ、すべての人を放っておくことができずに、常に寄り添い、必ず救うと願ってくださるのです。
最後にもう一言。「どんな人も救われる」という言い方をすることがあります。この言い方をする時に、「どんな人も」と話している当の本人(自分分自身)が、その中に含まれているでしょうか。自分の周囲にいる人を思い浮かべて、「こんな人も救われる」「あんな人も救われる」と考える、その巾に自分が入っていないとすれば、どんなに救いを語ってもなんにもなりません。「どんな人も」というだけではなく、「どんな自分も」「いつの私も」、阿弥陀さまは必ず救うと誓ってくださっているのです。
大きなお心の阿弥陀さまに、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただきま
しょう。
(玉木興慈)

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