信心一異の論争
十月のことばは、『教行信証』信文類(『註釈版聖典』二五一頁)からの一文です。
親鸞聖人の教えの特色として真っ先にあげられるのは、他力回向の教えです。聖
人において、回向とは『一念多念文意』に、
「回向(えこう)」は本願(ほんがん)の名号(みょうごう)をもって十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)にあたへたまふ御(み)のりなり。
(『一念多念文意』、『註釈版聖典』六七八頁)
と述べられるように、阿弥陀仏が本願力をもって、その功徳のすべてをあらゆる衆
生にふり向け与えられることを意味します。親鸞聖人の教えのなか、最も大切な信
心についても、「本願力回向の信心」と表現されるように、信心は私たちがおこすも
のでなく、阿弥陀さまの本願の力・はたらきによって与えられるものであるといわれています。
これについて、『歎異抄』後序(ごじょ)に記される信心一異(しんじんいちい)の論争に、親鸞聖人の信心理解
を見ることができます。信心一異と申しますのは、親鸞聖人の信心と師匠である法
然聖人の信心は同一か、それとも異なっているのか、という論争です。
故聖人(こしょうにん)(親鸞)の御物語(おんものがたり)に、法然聖人(ほうねんしょうにん)の御時(おんどき)、御弟子(おんでし)そのかずおはしけるなか
に、おなじく御信心(ごしんじん)のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋(おんどうぼう)の御中(おんなか)にして御相論(ごそうろん)のこと候(そうら)ひけり。そのゆゑは、「善信(ぜんしん)(親鸞)が信心(しんじん)も、聖人(法然) の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房(せいかんぼう)・念仏房(ねんぶつぼう)なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧(おんちえ)・才覚ひろくおはしますに一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心においては、まったく異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難(ぎなん)ありければ、詮(せん)ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、「源空(げんくう)か信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば当時の一向専修(いっこうせんじゅ)のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候
ふらんとおぼえ候ふ。 (『註釈版聖典』八五一-八五二頁)
法然聖人がご在世のとき、数多い弟子の回で親鸞聖人と同一の信心の人は少なか
ったと見え、親鸞聖人があるとき、「自分の信心も師匠である法然聖人の信心も、同
一であって変わることはない」と言われたところ、勢観房や念仏房などの同門の人
だちから、「どうして師匠の法然聖人と四十歳年下の弟子である善信(親鸞聖人)の
信心が同一であろうか」という、異論が出たのです。
この文では、親鸞聖人のことを「善信」といわれています。「緯空(しゃくくう)」から「善信」に名を改められたのが親鸞聖人三十四歳のときで、三十五歳のとき流罪になられましたのでこの論争があったのはおそらく親鸞聖人三十四歳のときであろうといわ
れています。
法然聖人のお弟子
またこの文には、法然聖人の門弟として勢観房と念仏房の二人の名前があげられ
ています。勢観房という方は法名を源智といい、幼いときから法然聖人の弟子とな
り、聖人の衣鉢(いはつ)、すなわち師匠と弟(えんどんかい)子の法の伝授を受け継ぐほど、最も信頼を得ていた方です。法然聖人から天台の円頓戒(円満で頓ちにさとりに至る戒という意味で、
天台の大乗戒を指す)を受戒して、戒律を厳守しか生涯を送り、親鸞聖人より十一歳
年下です。法然聖人の絶筆となった「一枚起請文」を要請し、聖人の臨終のときに
は、枕元に仕えていた弟子の一人です。
もう一人の念仏房という方は、念阿弥陀仏(ねんあみだぶつ)という呼び方をされ、もとは天台の学僧でした。法然聖人五十四歳のとき、のちに天台の座主となる顕真の懇請によって、大原二一千院の隣にある勝林院というお寺で、大原問答あるいは大原談義ともいわれる、各宗の学匠の集会が催されました。東大寺の重源、三論宗の明遍、法相宗
の貞慶、天台宗の智海や証真など、当時の鈴々たる学匠が二十数人集まるなかで、
念仏房は、比叡山を代表する問者に選ばれるほどの抜き出た秀才であったといわれ
る方で、親鸞聖人より十六歳年長です。
大原問答で、法然聖人は、なぜ念仏が勝れているのか、念仏一つで往生できるの
か、ということを懇々と語っていかれたといわれます。そして、さまざまな宗派の
教えがあるけれども、その教えはいずれも優れているとして、ほかの教えを決して
低めず、自分のような愚かな者には道緯禅師や善導大師が説かれた念仏の教えし
かないということを、累々主張していかれたのです。その主張に感銘を受けた一人
が念仏房であり、のちに法然聖人の門下となられたのです。
もう一人の念仏房という方は、念阿弥陀仏(ねんあみだぶつ)という呼び方をされ、もとは天台の学僧でした。法然聖人五十四歳のとき、のちに天台の座主となる顕真の懇請によって、大原二一千院の隣にある勝林院というお寺で、大原問答あるいは大原談義ともいわれる、各宗の学匠の集会が催されました。東大寺の重源、三論宗の明遍、法相宗の貞慶、天台宗の智海や証真など、当時の鈴々たる学匠が二十数人集まるなかで、念仏房は、比叡山を代表する問者に選ばれるほどの抜き出た秀才であったといわれる方で、親鸞聖人より十六歳年長です。
大原問答で、法然聖人は、なぜ念仏が勝れているのか、念仏一つで往生できるの
か、ということを懇々と語っていかれたといわれます。そして、さまざまな宗派の
教えがあるけれども、その教えはいずれも優れているとして、ほかの教えを決して
低めず、自分のような愚かな者には道緯禅師や善導大師が説かれた念仏の教えし
かないということを、累々主張していかれたのです。その主張に感銘を受けた一人
が念仏房であり、のちに法然聖人の門下となられたのです。
作り上げるものではなく、阿弥陀如来から賜った他力回向の信心であるということ
が、法然聖人の言葉に示されているのです。従来は、法然聖人は他力ということは
強調されたけれども、親鸞聖人のように他力回向までは主張されなかったといわれ
てきました。しかし、「如来よりたまはらせたまひだる信心」という表現には、他力
回向という意味が明らかに見受けられるのです。
如来より与えられた信心
では、阿弥陀如来より賜った、与えられた信心とは、具体的にどういうことでし
ょうか。
私事ではありますが、二〇一六(平成二十八)年三月に中央仏教学院を退任し、自
坊(広島県三原市)を拠点とした新たな生活が始まりました。ただ退任するまでの約
十年間は、京都と自坊との間を新幹線で年間約五十往復してきましたので、久しぶ
りに帰省したという感覚はありませんでしたが、長年住み慣れた京都を離れる寂しさは感じました。
そうしたなか、初めてマツダスタジアムにプロ野球の観戦に行きました。「カ≒フ
女子」という名前が全国的に広まっていますが、女性だけではなく老若男女を問わ
ず、上昇チームである広島カープの人気は高く、地元球場での観戦チケットを入手
するのは非常にむずかしいのが現状です。したがって、半ば観戦を諦めていた矢先、
たまたま親戚から貴重なチケットを二枚いただきましたので、坊守と一緒に観戦に
行きました。宣]つ赤に染まった球場の様子をテレビで見ていましたので、入場前に
二人そろって赤いユニホームを購入し、それを着用してファン一丸となって一喜一
憂しながら応援しました。
野球の応援には、声援あり、拍手あり、ウェーブありの、さまざまな行動があり
ますが、その元は広島カープというチームの活躍があるからにほかなりません。広
島カープの活躍によって、多くのファンが熱心に応援するのです。応援するすがた
を見れば自ら力を振り絞っているのですが、カープというチーム、そしてその活躍がなければ、球場に足を運ぶことも、一丸となって応援することもあり得ません。
そうしたことを考えれば、ファンの応援はカープというチームから与えられたもの
であるといってもよいでしょう。
本願力回向といわれる信心も、阿弥陀さまのあらゆるものを必ず救うという本願
の力・はたらきがあったからこそ、そのはたらきにすべてをまかせるという信心が
おこるのです。そういう意味で、信心は阿弥陀さまの本願のはたらきによって与え
られるものであるといえましょう。
(白川 晴顕)