1998(平成10)年10月2日 サンデー下関掲載

20131002

ご存知ですか

光明寺の甍

日和山公園ふもとの「光明寺」とその境内に建つ「広井良図顕彰碑」は、既に清水唯夫さんが平成8年1月26日と2月23日の紙面で紹介済みだが、この寺院の美しい反りを持つ大甍が修復されたので重複を恐れずに書いてみよう。

 

周旋直前の二度にわたる焼夷弾爆撃で廃墟と化した下関の中心部に、遠くからでもそれと判った建造物といえば、山陽ホテルと下関警察署、山陽百貨店と光明寺の聳えたつ大屋根くらいのものであった。幸いにも要塞司令部による厳戒態勢の白昼、官憲の目を恐れつつ決死の覚悟で焼土を撮りまくった上垣内茂夫さんの貴重な戦災写真の何枚かに、光明寺の大屋根がはっきりと写し出されている。

 

その頃から復興の槌音が更に大きく響きはじめたころ、光明寺の境内に立つと海峡は米軍投下の機雷で沈められた船舶の数々が舳先(へさき)を波間に突き出して天を仰ぎ、さながら「船の墓場」であった。それでも、海峡の女王と呼ばれた白亜の関門連絡船や外輪を回しながら波を漕ぐ貨車航送船などが映画に見るような水柱を唐突に噴きあげた。ユニークな水上警察署ビルの手前には貨物専用引込み線の「跳ね橋」が手持ち無沙汰そうにいつも空を見あげていた。そして、門前の石段を見おろすと、焼夷弾にいぶされた煙痕が赤黒く、あるいは茶褐色ににぶっていた。

 

いま、境内に立っても海は殆ど見えず、屹立するビルの上には海峡ゆめタワーがヌッと顔を出していて、灼熱の苦しみに耐えた石段は除去されて触れることは出来ない。しかし、見事に修復された甍は正面から見あげても壮観だが、入江側から眺めると更に美しい。

 

11月1日から慶讃法要が営まれるという。

 

文・都美多ギコ 写真・吉岡一生

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