下関歴史散歩
宗門手形 身分の証しに
細江町1丁目の日和山のすそにある光明寺(浄土真宗本願寺派)は江戸時代に「宗門(しゅうもん)改め」が行われた寺です。
宗門改めとは、江戸幕府がキリシタン禁圧のため、民衆を何らかの仏教宗派に所属させ、証明させた制度です。光明寺では毎年7月26日にあり、それに先だって4、5月ごろ、町政を担っていた大年寄、小年寄が町民から誓紙血判を取りまとめ、幕府役人の検分を得ていたようです。
家ごとに家族の名前と年齢を記し、キリシタンではない証明として寺の印が押されるのが一般的でした。発行された宗門手形は住民の行動を保証し、身分の証しとなる何より大切なものでした。
また光明寺には幕末、高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と呼ばれた久坂玄瑞(くさかげんずい)率いる「光明寺党」の本営が置かれました。
光明寺党は有志党とも呼ばれ、50~60人ほどいたようです。1863(文久3)年、米国の商船ペンブローク号が来航した際、長州藩の軍艦・庚申丸(こうしんまる)で砲撃。第一次下関攘夷戦の火ぶたを切ったことで有名です。
下関は太平洋戦争の空襲で市街地の大部分が焼失しましたが、光明寺は戦火を逃れました。戦災直後の写真には寺の大屋根が姿をとどめています。
境内には明治期に私塾を開いた広井良図(りょうと)の顕彰碑、大洋漁業関係者の慰霊塔もあり、歴史散策を楽しめるスポットです。
下関市立中央図書館長・安冨静夫