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2011年9月 如来一切のためにつねに慈父母となりたまえり 法語カレンダー解説
王舎城の悲劇
今月の法語は、『教行信証』信文類の『涅槃経』の長い長い引用のなかの一文です。
お釈迦さまの最晩年、インドで最も栄えたマガダ国に一大悲劇が起こりました。皇太子である阿闍世(あじゃせ)が、お釈迦さまの弟子の提婆達多(だいばだった)にそそのかされて、父の頻婆娑羅(びんばしゃら)王を殺し、王位を奪ったのです。しかしその後、阿闍世は猛烈な後悔に襲われ、激しく苦しむのです。やがて、お釈迦さまによって阿闍世は救われます。阿闍世は救われた喜びを詩にして、お釈迦さまを讃えます。その詩のなかの一節が、今月の法語です。
そんなわけで、この法語は阿闍世王がお釈迦さまを讃える言葉なのです。
しかし、親鸞聖人は阿闍世王が救われたこの事実を、すべての凡夫のため、すべての五逆罪を犯す者のためのことであり、迷えるすべての衆生の救いを表すものと考えられました。『涅槃経』も、またそのような意味で説かれています。ですから、私たちも今月の法語をそのように味わいたいと思います。
親鸞聖人は、悪縁に遇えば親殺しもしかねない私たちの姿を阿闍世王の上にご覧になり、このような悪人こそ第十八願の救いの目当てであると考えられたのです。この悲劇の展開と救いこそ、釈迦・弥陀の種々の巧みな手だてによる我々の救いに他ならないと、親鸞聖人は考えられました。
『高僧和讃』に、
釈迦(しゃか)・弥陀(みだ)は慈悲の父母(ぶも)
種々(しゅじゅ)に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり(『註釈版聖典』五九一頁)
(お釈迦さまと阿弥陀如来は慈悲においての父母である。様々に真実巧みな手立てをなされ、私たちにこの上もない信心を、起こさせてくださったのである。
北塔光昇著 『聖典セミナー 高僧和讃』二二三頁)
とあり、『浄土和讃』に、
弥陀・釈迦方便して
阿難(あなん)・目連(もくれん)・富楼那(ふるな)・韋提(いだい)
達多(だった)・闍王(じゃおう)・頻婆娑羅(びんばしゃら)
耆婆(ぎば)・月光(がっこう)・行雨等(ぎょううとう)(『註釈版聖典』五七〇頁)
(『観経』『涅槃経』は、阿弥陀如来と釈迦如来が私たちを救う手だてとして説かれた経典である。如来の救いの手だて、方便として浄土から現れてくださった方々は、阿難尊者、目連尊者、富楼那尊者、韋提希夫人、提婆達多、阿闍世王、頻婆娑羅王、耆婆大臣、月光大臣、行雨大臣等である。
黒田覚忍著『聖典セミナー 浄土和讃』二九〇頁)
大聖(だいしょう)おのおのもろともに
凡愚底下(ぼんぐていげ)のつみびとを
逆悪(ぎゃくあく)もらさぬ誓願(せいがん)に
方便引人(ほうべんいんにゅう)せしめけり(『同』)
(韋提希夫人や阿闍世王のほか、阿難や月光、行雨等、王舎城の悲劇に関係した人びとは、本来、皆浄土の大聖者であった。その聖者方がおのおの善人となり悪人となり、王となり妃となり、一緒になって愚かな凡夫、生死の大海の底に沈んでいる悪人を、十悪、五逆の罪人ももらさずお助けくださる第十八願に導き入れてくださった。
『同』二九三頁)
と讃嘆されています。
この王舎城(おうしゃじょう)の悲劇をもとに、『観経』では韋提希夫人の救いが説かれています。経典は異なりますが、ともに凡夫、悪人の救いがテーマです。
慚愧の心
『涅槃経』に説かれる阿闍世の救いで、特に心に留まる言葉が二つあります。一つは、阿闍世は慚愧(ざんぎ)の心をいだいているとあることです。もう一つは、阿闍世が救われたことを無根の信を得たと表現されていることです。
慚愧という言葉は、当時、お釈迦さまの信者で名医と言われた耆婆大臣が、阿闍世の次のような告白に対して言った言葉です。
〈耆婆よ、わたしは今重い病にかかっている。正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。どのような名医も良薬も呪術も行き届いた看病も、この病を治すことはできない。なぜなら、わたしの父は王として正しく国を治めており、まったく罪はなかったのに、非道にも殺害してしまったからである。(中略)わたしは昔、智慧ある人が次のように教えを説かれるのを聞いた。
《身・口・意の三業が清浄でないなら、この人は必ず地獄に堕ちるのである》
と。わたしもまたそうなるのである。これがどうして安らかに眠ることができようか。どのようにすぐれた医者でも、今のわたしを治すことはできない。病を治す薬となる教えを説いてわたしの苦しみを除くことはできないのである〉と。
(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』二七五~二七六頁)
という言葉に対して、耆婆大臣は王に、
善いことを仰せになりました。王さまは罪をつくりましたが、深く後悔して慚愧の心をいだいておられます。(中略)今王さまが十分に慚愧の心をいだいておられるのは、実に善いことです。
(『同』二七六~二七七頁)
と、王の深い後悔の心のすばらしいことをほめ、お釈迦さまは必ず王の心の病を治してくださるから、お釈迦さまのもとへ行くように強く勧めます。しかし、王はなかなかためらって決心がつきません。そして王は耆婆に対して、「如来は、わたしのような者にも会ってくださり、心をかけてくだざるのであろうか」と尋ねます。王は、自分の犯した悪業にとらわれて、自分のような者に如来は会ってくださらないだろう、自分のような悪人に心をかけてくださらないだろう、と考えていたのです。
その王に対して、者婆大臣は次のように答えます。
たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけではありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。放逸のものに如来は慈しみの心をかけてくださるのであり、(中略)王さま、仏がたはあらゆる衆生に対して、その生れや老若や貧富の違い、また、生まれた日の善し悪しなどを見られるのでもなく、(中略)たとえば王さまのおこされた慚愧の心のように、善の心ある衆生を、ただご覧になるのです。そして、もし善の心があるなら、慈しみの心をかけてくださるのであります。
(『同』二八三~八三四頁)
無根の信
耆婆大臣は、このように仏の慈悲の大きいことを繰り返し繰り返し説きますが、王は過去の罪にとらわれて、自分を責め卑下し、お釈迦さまに会いに行くことをためらいます。しかし、どうにか耆婆に連れられて、お釈迦さまに会いに行くことになりました、この光景は『教行信証』には引用されていませんが、たいへん重要です。概略は次のようです。
二人は、お釈迦さま入滅の地、沙羅双樹のお釈迦さまの所に来ました。そこにたくさんの人が集まっています。そのとき、お釈迦さまは”大王”と呼びかけられました。王は、自分のような罪深い悪人が、「大王」と呼ばれるはずがないと思い、あたりを見まわしました。すると今度は、「阿闍世王」と呼ばれたのです。この言葉を聞いて、王は自分のような者を「大王」と呼んでくださった仏の慈悲を、全身に感じたのです。
「真に如来が、諸(もろもろ)の衆生に於(おい)て、大悲憐愍(れんみん)して、差別無きを知る」(『大般涅槃経』『国訳一切経』涅槃部一・三八八~三八九頁)と言い、お釈迦さまに対するゆるぎない心が生じ、王の過去の罪に対するかたくなな心がとけ、説法を聞くことになります。
こうして、阿闍世に信心の心が開けてくるのです。王は、次のように述べています。
〈世尊、世間では、伊蘭(いらん)の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀(せんだん)の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝(ほうぼう)や僧宝(そうぼう)を信じたこともなかったので、それを無根というのであります。世尊、わたしは、もし世尊にお遇い しなかったなら、はかり知れない長い間地獄に堕ちて、限りない苦しみを受けなければならなかったでしょう。わたしは今、仏を見たてまつりました。そこで仏が得られた功徳を見たてまつって、衆生の煩悩を断ち悪い心を破りたいと思います〉と。
(中略)
〈世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れない長い間、あらゆる人びとのために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません〉と。(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』二九五~二九六頁)
と救われた喜びを述べています。
如来さまからの喚びかけ
今月の法語は、始めにも述べましたが、救われた喜びからお釈迦さまを讃える詩のなかの一説です。長い詩ですが、その中心は「如来一切(にょらいいっさい)のために、つねに慈父母(じぶも)となりたまへり」(『註釈版聖典』二八八頁)です。
如来に救われた喜びから過去をふり返ったとき、仏法から逃げまわっていた自分の姿に気づかされたのです。自分が殺した父が仏のもとに行けと命じても、耆婆がどれほど誘っても、自分の犯した罪にとらわれて仏のもとに行くことができませんでした。仏のもとに赴いたことも、説法を聞く心が起こったことも、私の力ではありませんでした。この罪深い者、自分の犯した罪にとらわれている自分に向かって「大王よ」と呼びかけ、聞く心を起こしてくださったのです。
もっと過去から考えますと、この世に生まれる前から私たちの苦悩の現実をお見通しになって、如来は私を思い続けていてくださったのです。
(黒田覚忍)
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2011年8月 真理の一言は悪業を転じて善業と成す 法語カレンダー解説
煩悩を断ぜずして涅槃を得
「真理の一言は、悪業を転じて善業と成す」とは、『教行信証』行文類「一乗海釈」の文です。
『楽邦文類』にいはく、「宗暁禅師(しゅうぎょうぜんじ)のいはく、〈還丹(かんたん)の一粒(いちりゅう)は鉄を変じて金と成す。真理の一言は、悪業を転じて善業と成す〉」と。
(『註釈版聖典』一九九頁)
(宗暁が『楽邦文類』にいっている。「還丹という薬はたった一粒で鉄を金に変える。
真実の道理である如来の名号は、悪い行いの罪を転じて善い行いの功徳とする」『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一三一頁)
とある文の一節です。
この八月の法語は、七月の法語「煩悩の氷解けて功徳の水となる」と表現は違いますが、同じ内容が述べられているのです。
如来の智慧の眼から見れば、煩悩と覚り、悪業と善業とは、氷と水のように本性は同じで違いはないと、仏教では言います。しかし、悪業と善業、煩悩と覚り、迷いと涅槃とが、本性は同じだといくら聞かされても、私たちはどうしてもそれを覚ることはできません。その智慧のない私たちに、如来の真理の一言である南無阿弥陀仏の名号を与えて、仏の覚りの智慧を与えてくだざるのです。
「正信偈」に、
能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん) よく一念喜愛の心を発すれば、
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん) 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
(『註釈版聖典』二〇三頁)
(信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一四四~一四五頁)
などと、親鸞聖人は讃嘆されています。
聖人のお心を考えるとき、そのもとになっているのは曇鸞大師(どんらんだいし)の教えです。大師は『往生論註(おうじょうろんちゅう))に、
荘厳清浄功徳成就(しょうごんしょうじょうくどくじょうじゅ)とは、偈に「観彼世界相(かんひせかいそう) 勝過三界道(しょうかさんがいどう)」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。几夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業(けごう)、畢竟(ひっきょう)じて牽(ひ)かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや。
(『註釈版聖典(七祖篇)』 一一一頁)
と述べられています。
曇鸞大師の意は、次のような意味でしょう。天親菩薩は「阿弥陀如来のお浄土を思い見ると、迷いの世界である三界の因果を超え勝れている」と言われている。これがどうして不思議であるかというと、几夫のわれわれは、煩悩づくめの生き方をしているが、このわれわれが浄土に往生できれば、この世界で作った煩悩の行為の果を引くことなく覚りに到ることができるのである。このことをすなわち煩悩を断ぜずして涅槃を得というのである。不思議ではないかということです。
この曇鸞大師の教えを、親鸞聖人は受けつがれました。「真理の一言は、悪業を転じて善業と成す」の「真理の一言」とは、われわれのところに南無阿弥陀仏となってはたらいてくださる阿弥陀如来の名号のはたらきです。その名号のはたらきが、われわれの悪業を転じ変えて覚りと成す。すなわち、われわれに浄土の覚りをあたえてくださるというのです。
また、煩悩の氷解けて功徳の水とならなければ、われわれは苦悩から出ることはできません。我執煩悩のために角を立て他と対立し、苦海を出ることはできません。その煩悩の氷を解かすのはわれわれの力ではなく、阿弥陀如来のわれわれをお救いくださるおはたらきなのです。
われわれの悪業を転じてくださるのも、煩悩の氷を解かしてくださるのも、阿弥陀如来のおはたらきでした。ですから、私たちの側で煩悩を断ずる必要はないのです。いや、断ずる力がわれわれにないからこそ、仏力、他力によって断じてくだざるのです。
信心の利益
自力の仏教では、一般に煩悩を断じて涅槃の真理を悟るという意味で、「断惑証理(だんわくしょうり)」という言葉が用いられます。しかし、他力の教えでは仏力、他力によって覚りに到ると考えるのです。
なお、ここで注意しておきたいのは、「煩悩の氷解けて功徳の水となる」のも「悪業を転じて善業と成す」のも、あるいは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということも、すべて浄土で得る利益、すなわち覚りのことです。この世で覚りを得られたら、浄土往生は必要ありません。
「悪業を転じて善業と成す」のも、「(悪業)煩悩の氷とけて(善業)功徳の水となる」のも、ともに浄土に往生してから後に得る利益であるのなら、この世で得る利益はないのでしょうか。
真理の一言である南無阿弥陀仏の名号のはたらきを身に受けている信心の行者は、将来浄土に往生して必ず覚りを開く徳を身にいただいている、正定聚(しょうじょうじゅ)の人です。
正定聚の人がこの世で得る利益は、種々に表現されます。『教行信証』では、信心の行者がこの世で得る利益を十種の観点、側面から表されています。そのなかで、「心光常護(じんこうじょうご)の益(やく)」(『註釈版聖典』二五一頁)に注目したいと思います。心光常護とは、信心の人は常に阿弥陀如来の心光に護られているということです。このことをまた聖人はお手紙に、
真実信心の行人は、摂取不捨(せっしゅふしゃ)のゆえに正定聚の位に住す。
(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七三五頁)
とも述べられています。摂取不捨とは、阿弥陀如来の心光に摂取されてお捨てにならないということです。信心の人は、如来の光明のなかに生きる人だとも言われています。信心をいただいた人の人生は、それまでの人生が煩悩海、苦海であったものが、その人の人生すべてを通して、如来の光明のはたらきのなかに生かされていると感じられる人生に変わるのです。
如来の光明のなかに生かされる信心の人は、「転悪成善の益」を得るとも言います。
私の身近な人たちで、よく聴聞なさる方々は、「歳を取るといいことは何もないという人もあるけれども、歳をとったおかげでわからせていただいたことがたくさんある。病気を通しても、体が弱ったことを通しても、気づかせていただくことがたくさんあります。本当におかげさまで有り難いことです」と言われます。
「転悪成善の益」とは、浄土に往生して覚りを開くという意味もあります。しかし、信心の人がこの世で得る利益とも考えたいものです。歳を取ることも、病気になることも、体が弱ることも、いやなことです。一般的には避けたいことです。しかし、避けられないいやなこと、不幸なことが、それはそれとして人生の意味を持つ、あるいは意義が与えられることも、「転悪成善の益」と味わいたいものです。
感謝の生活
私のよく存じあげている、ある篤信の年配女性のことです。娘時代のことですが、その方の言葉によると次のように話されました。
私のお父さんは、お医者さんから治らぬ病と告げられていました。そのとき、私は十八歳で、妹や弟もいました。一番下は小学校三年生でした。私は、お母さんを助けて妹や弟を一人前に育てなければと思っていました。
戦争も激しさを加えていたある日、出征兵士を村はずれまで送って行きました。その日を最後に帰らぬ人となる人も多かったので、日本中、どこでも戦場に向かう兵士を見送ったものでした。
家に帰ってみると、お母さんが土間で倒れていました。お母さんは数日後に亡くなってしまいました。それまで、お父さんが亡くなるとは思っていました。しかし、お母さんが亡くなるとは夢にも思わなかったことです。そのお母さんが亡くなったのです。天と地がひっくり返ったような驚きでした。人間は何をたよりに生きていったらよいのか、そのときの気持ちはうまく言い表すことはできません。そのとき以来、お寺の釣鐘が鳴ると、家にじっとしておれませんでした。私か聴聞を始めたのは十八歳のときからでした。
このように、この方は当時をふり返って申されたことがあります。
この方にとって、お母さんとの別れ、両親との別れという事実に、お念仏の教えに遇うことを通して、新しい意味が与えられたのです。あのお母さんとの別れがあったればこそ、お念仏の教えに遇わせていただいたと、感謝の生活をされています。
最近も八十数年の生涯をふり返って、若いときには乳呑み児を連れおむつを持って聴聞に出かけた。夫もそれを許してくれた。聴聞を続けることができたのは、こんな愚かな者を捨てられないという如来のお慈悲のおかげであったと、喜んでおられます。
両親と若くして別れるという事実はけっしてなくなりません。しかし、如来さまのお力によって、そのような出来事があったればこそと、力強く生きぬくことができるようになるのです。そのことが、この世において悪業を転じて善業と成すという味わいでしょう。
(黒田覚忍)
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2011年7月 煩悩の氷解けて 功徳の水となる 法語カレンダー解説
煩悩の水を転じる
七月の法語は、『教行信証』行文類「一乗海釈」の一文です。
「一乗海釈」には、
「一乗海」といふは、一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三貌三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得るなり。(中略)一乗はすなはち第一義乗(だいいちぎじょう)なり。ただこれ誓願一仏乗(せいがにちぶつじょう)なり。
『註釈版聖典』 一九五頁)
(一乗海というのは、「一乗」とは大乗であり、大乗とはこの上ない仏のさとりを得
る教えである。一乗の法を得るものはこの上ないさとりを得るのである。(中略)一乗の教えは最上の教えである。それは如来の本願のはたらきにより、あらゆるものに仏のさとりを開かせるただ一つの教えにほかならない。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一二四~一二五頁)
とあります。
その意味を要約しますと、本願念仏は、すべての人びとに、すみやかに最高の仏のさとりを開かせる、唯一無二の教えであることを明らかにされるのです。仏教諸宗のなかには、すべての人びとが、すみやかに、仏の最高の覚りに到ることを主張する教えはいくつもあります。しかし、理論的にはそうであるかもしれませんが、現実的に、すべての人びとが、平等にすみやかに、みな仏の最高の覚りに到ることは不可能です。本願他力念仏こそが、すべての人びとが平等にすみやかに、阿弥陀如来と同じ覚りに到ることのできる教えであることを明らかにされるのです。
「一乗海釈」は、さらに続きます。
「海」といふは、久遠(くおん)よりこのかた、几聖所修(ぼんしょうしょしゅ)の雑修雑善(ざっしゅぞうぜん)の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明(ぎゃくおうせんだいごうじゃむみょう)の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳(ほんがんだいひちえしんじつごうじゃまんどく)の大宝海水となる。
これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。
(『註釈版聖典』 一九七頁)
(「海」というのは、はかり知れない昔からこれまで、凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の善や、五逆・謗法・一闡提(いっせんだい)などの限りない煩悩の水が転じられて、本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水となることである。これを海のようであるとたとえる。
これによってまことに知ることができた。経に「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれている通りである。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一二七~一二八頁)
この意を要約すると、次のようになります。親鸞聖人は、「本願海」と弥陀の本願を海にたとえられました。弥陀の本願が広く深いことを海にたとえられたものです。
太平洋は、黄河の水も長江の水もメコン川の水も淀川の水も利根川の水もみな受け入れ、みな同じ塩味に変えてしまいます。そのように、「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず」(『歎異抄』第一条 『註釈版聖典』八三一項)と言われます。
几夫であろうと聖者であろうと、親殺しなどの五逆罪を犯した者であろうと、仏法を誇る謗法の重い罪を犯した者であろうと、受け入れてくださいます。人間のどのような善も、如来の救いの助けにはなりません。また、人間のどのような悪でも、如来の救いの障礙にはなりません。如来は、人間のどのような善もどのような悪をも超えて、同じ信心の味わいを与えてくだざるのです。
一味の世界
『歎異抄』後序には、
「源空(げんくう)が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房(ぜんしんぼう)の信心も、如来よりた
まはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」(『註釈版聖典』八五二頁)
(「この源空の信心も如来からいただいた信心です。善信房の信心も如来からいただかれた信心です。だからまったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空が往生する浄土には、まさか往生なさることはありますまい」
『歎異抄(現代語版)』四六~四七頁)
と、四十三歳で本願念仏に帰入され、七十歳を越えられた法然聖人の信心も、念仏に帰入されて五年もたっていない善信房(親鸞聖人)の信心も、まったく同じだと語られるのです。
法然聖人のお言葉に、法然の念仏と弟子の念仏は同じだという語録があります(「聖光房(しょうこうぼう)に示されける御詞(おことば)」『昭和新修法然上人全集』七四四~七四五頁)。「阿波介(あわのすけ)」という一文不知の陰陽師が申す念仏と源空が申す念仏と、「全くをなじことなり」と仰ったそうです。阿波介という男は、七人の妻を持つお金持ちで、貪欲・非道・放逸邪見(ほういつじゃけん)で、妻たちを柱に縛り杖で打ちたたくことを楽しみにしていました。ところが、ふとしたことから道心を起こし、法然聖人の弟子になったと言われています。本願念仏に生きる人は、如来の本願海に入った人です。同じ信心の味わいに生きる人です。
「正信偈」に、
凡聖逆謗斉回入(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう)
凡聖・逆謗斉(ひと)しく回入すれば
如衆水入海一味(にょしゅしいにゅうかいいちみ)
衆水(しゅすい)海に入りて一味なるがごとし。
(『註釈版聖典』二〇三頁)
(凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。
『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一四五頁)
と讃嘆されているのも、同じ味わいを表されるのでしょう。
転治の法
さて、私たちは、煩悩や苦悩を自分の力で解決することができません。解決する力を持たずに苦を重ねている私たちに、如来のお慈悲がかけられているのです。
如来の私たちをお救いくださるはたらきを、医師の病気治療にたとえることがあります。如来の衆生救済の方法には、「対治の法」と「転治の法」があると言われています。対治の法というのは、たとえば風邪には風邪の治療法、腹痛には腹痛の治療法があるように、布施の行は施しを嫌うけちな根性を治療する方法であり、持戒は気ままな心を治療する方法です。また、人間は非難されたり批判されたりすると冷静になれず、しっぺ返しをしたくなりますが、その心を治療するのが忍辱(にんにく)の行だと言われます。このように対治の法は、総じて種々諸々の行を修めさせて苦から救う方法です。
しかし、対治の法では、すべての人びとが平等に救われることはありません。そこで如来は私たち衆生に、悪を善に転じ変える智力、煩悩を功徳に転じ変える智慧を与えて、お救いくださるのです。智慧の念仏、信心の智慧を与え、悪を善に、煩悩を功徳に転変する力を、与えてお救いくださるのです。本願名号、本願念仏、信心の智慧こそが、転治の法です。
『教行信証』行文類に、
〈還丹(かんたん)の一粒(いちりゅう)は鉄(くろがね)を変じて金(こがね)と成す。真理の一言(いちごん)は悪業(あくごう)を転じて善業と成す〉
(『註釈版聖典』 一九九頁)
(「還丹という薬はたった一粒で鉄を金に変える。真実の道理である如来の名号は、悪い行いの罪を転じて善い行いの功徳とする」
『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一三一頁)
とあるのも、同じ心を表されたものでしょう。
私たちは、自分の煩悩の深さに思い到るとき、この煩悩の身なればこそ、この煩悩があったればこそ、如来の本願に遇うことができたと、本願を仰ぐことができるのでしょう。
大悲の温もり
浅原才市さんは、
あさましや
さいちゃ 十悪
さいちゃ 五逆 人殺す
これを 親に(註・如来さま)とられて
南無阿弥陀仏と 変えてもろうたよ。
(高木雪雄著『才市同行 -才市の生涯と周縁の人々-』九六頁)
と詠っておられます。
菊藤明道氏によると、才市さんは事情により、幼少の頃より両親と離ればなれで成長されたそうです。その淋しさを少年時代の才市さんは親のせいだと思って、親を恨んだことがあったそうです。
ゆうも ゆわんもなく 親が死ぬればよいと 思いました。なして わしが親は 死なんで あろうかと 思いました(中略)この悪業 大罪人が いまヽで よこれで(よくも) こんにちまで 大地が さけんこをに(裂けずに) をりました
(菊藤明道著『妙好人の氷』五五頁)
と、親を恨んだことを述懐しています。
「親が死ぬればよい」。死んでくれていたらよいと親を恨んだことが、才市さんの心に「この悪業、大罪人」「十悪・五逆、人殺す」として生涯残り、この悲しみを縁として、本願念仏の世界に入られたのです。煩悩の氷解け、功徳の水となったのです。私たちには煩悩の氷を解かす力はありません。その私たちに、如来が如来の大悲の智慧の念仏を与えてくださり、大悲の温もりをいただいて、煩悩の氷が解かされるのです。
私たちは、命のある限り、煩悩をなくすことはできません。しかし、その煩悩悪業にそって、如来の大悲がかけられているのです。そして、如来の大悲の温もりが感じられるとき、この煩悩があったればこそと、本願を仰ぐ人生を歩ませてもらえるのです。こうして、私たちは「煩悩の氷解けて 功徳の水となる」如来のはたらきのなかに生かされるのです。
(黒田覚忍)
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寿命 くらしの仏教語辞典
日本人の平均寿命の高さは世界一位を続けています。
死亡率も低く、100歳以上の老人の数も増え続け、日本は世界一の長寿国です。
おめでたいことです。
しかし、その反面、少子高齢化が進み、年金問題や介護問題などの諸難題が起こっています。
仏教では、生命のことを「寿命」とか「命根(みょうこん)」といいます。この世に生まれてから死ぬまでのあいだ持続し、体温(煖=なん)と意識(識)とを維持するものです。
寿は煖・識を維持し、煖・識はまた寿を維持し、両者は相依の関係で、死ぬときには、この寿・煖・識が肉体から去ると説明しています。
その寿命の長さを寿量といいますが、時代と自然とによって、人の寿命には長短の差があるといいます。
『阿弥陀経』に「かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫(あそうぎこう)なり。ゆえに阿弥陀と名づく」とあり、阿弥陀仏の寿命は限りなく、無量寿なのです。
日本は世界一の長寿国ですが、お年寄りが世界一生きがいの持てる国にしたいものですね。
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もったいない くらしの仏教語辞典
世界中に広がるMOTTAINAI
ノーベル科学賞(2002年)を受賞した田中耕一氏は、「私の発見は、失敗後も<捨てるのはもったいない>と実験を続けたことから生まれた」と話し、「もったいない」が一躍有名になりました。
ノーベル平和賞(2004年)を受賞したケニア副環境相(当時)のワンダリ・マータイさんは、「もったいない」に共鳴してキャンペーンの名誉会長に就任し、国連や全米記者クラブの講演などで世界に発信しました。
「もったいない」は仏教専門用語ではなく、室町時代に一般化した言葉を蓮如聖人(れんにょしょうにん)が取り入れて、浄土真宗の法味を的確に表現する言葉となったようで、多くの念仏者が口にしてきました。
蓮如上人が廊下に落ちている紙切れを拾い上げ、「一枚の紙もこれみな仏法領のもの(仏より恵まれたもの)、もったいない」と押し頂かれた話は有名です。
「もったいない」は、単に「無駄にしない」「節約する」だけでなく、「かたじけない」と感謝する心ではないでしょうか。
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親鸞が「いま」語りかけるもの
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