仏教文化交流会 6月11日開催

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親鸞聖人750回大遠忌・下関組仏教婦人会連盟50周年を同時に迎えられることができますことは、大変に慶ばしいことでございます。混沌とした現代に仏教になじみのない多くの方々にも、ぜひ仏教文化を身近に触れていただきたく、この記念行事を企画いたしました。

ぜひ家族揃ってご参加下さい。

【開催日】2011年6月11日(土)

【場所】下関生涯学習プラザ(ドリームシップ) 海のホール(大ホール)

入場無料!
※但し、入場されるにはチケットが必要です。

【主催】下関組仏教婦人会連盟

お問い合わせ、チケットのお申込は、仏教文化交流会事務局(080-3876-5753)または所属する浄土真宗寺院まで

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山口新聞に浄土真宗本願寺派門主の大谷光真さんが掲載されました。

2011年2月20日の山口新聞『ひとストーリー』に浄土真宗本願寺派門主の大谷光真さんが紹介されました。

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今、ここに生きる仏教 書籍紹介

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●今、ここに生きる仏教 

【定価】1,260円(本体1,200円+税)

?浄土真宗本願寺派ご門主と、「仏教ルネサンス」を説く文化人類学者が危機感と可能性を共有し、深く語り合った。現代においてこそ日本仏教の果たすべき使命がある。目覚めよ、伝統仏教!

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み教えの情報誌 大乗(だいじょう) 機関紙紹介

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●み教えの情報誌 大乗(だいじょう)

年間購読料 4,500円(税込・送料共)
1部 375円(税込・送料共)
割引 20部以上 12% 50部以上 20% 300部以上 28%

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 装いも新たに。世界的切り絵画家の久保修さんがさまざまな角度の本願寺を表紙絵に描きます。また「御影堂物語―平成大修復の素顔」では、10年間の大修復工事を終えた御影堂細部にわたって紹介。ほかにも、仏教漫画の第一人者のひじみえさんが絵とことばで綴る「絵ばなしの小みち」や、各界で活躍する方々が親鸞聖人への想いや自らの信仰について語るインタビュー「私と親鸞聖人」。読み応えのある内容となっておりますので、ぜひお買い求めください。

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2011年お彼岸-春- 書籍紹介

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●春彼岸(2011年施本)

 

【定価】105円(本体100円+税)

2011年春のお彼岸用施本。3名の著者がそれぞれ味わいを綴る共著。●「春のお彼岸に寄せて」(佐々木惠精/京都女子大学元教授)●「絵念仏」(臂美恵/仏教漫画家)●「さよならのむこうがわ」(宏林晃信/浄土真宗本願寺派布教使)

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本願寺新報 機関紙紹介

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●旬刊 本願寺新報

【年間購読料】 4,080円(税込・送料共)

1部 120円(税込・送料共)

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割引 50部以上 10% 100部以上 20% 500部以上 30%
発刊以来100余年の歴史を持つ「本願寺新報」は門信徒の方々の新聞です。宗門の動き、社会問題、やさしい法話、童話のページなど新しい情報が紙面いっぱい。1日・10日・20日と月3回発行で、1面と最終面はカラー写真を豊富に使ったカラフルな紙面づくりを行っています。一家に一紙、ご購読をお勧めします。

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光といのち、生きるとは 書籍紹介

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● 光といのち(大谷 光真 著)

【定価】¥210(本体¥200+税)

大谷光真ご門主が、浄土真宗本願寺派第24代門主にご就任される直前に書き下ろされた十二の短編法話を収録。時を超えて響く真実のみ教えが、今再び私たちの心をふるわせる。

   

● 生きるとは(大谷 光真 著)

【定価】¥210(本体¥200+税)

大谷光真ご門主が、浄土真宗本願寺派第24代門主にご就任される直前に書き下ろされた十二の短編法話を収録。遷り変わる世に、変わらない真実を。

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Q.お骨はどのように安置したらよいのでしょうか?

A. 葬儀社さんが紙製の「壇」を設置してくださることが多いのですが、そうでない場合でも特別なものはいりません。お仏壇の横にお骨を置く壇を作ればいいのです。

◆あくまでお仏壇が中心ですので、そちらがおろそかにならないように。

◆お骨や法名の前にお菓子とかお水とかのお供えはしません。(お水はどこにも供えません。)

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2011年3月 帰命は 本願召喚の勅命なり 法語カレンダー解説

 「召喚」とは、如来さまから招き、よび続けてくださっていること。そして「勅命」とは、逃げ場のない教命ということです。

 「帰命」とは、「正信偈」に「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい=無量寿如来に帰命し)」とあるように、本来、私たち衆生の側の持ち分のはずです。

 「帰命」の持ち場は衆生の側ですが、その根源をたずねてみると、実は、如来さまからのよび声であったと気付かれたのが、親鸞聖人の画期的発見です。

 阿弥陀さまは、私たちに直接接してくださるに当たって、よび声の仏さまとなられました。

 生まれて数ヶ月たって、今まで言葉が喋れなかった赤ちゃんが、お母さんに向かって「マーマ」とよべるようになったのは、それまで何度も何度も、お母さんの方から、その赤ちゃんに「私がママよ」と、よび続けていたからです。

 今、私が「南無阿弥陀仏」と、お念仏申すことができたのは、それまで、ずっと阿弥陀さまが、よび続けてくださっていたからにほかなりません。

 普通、私たちがよびかける時は、相手の名前でよびかけますが、阿弥陀さまは、ご自身の名前でよびかけてくださいます。それには大きな意味があるように思います。

 ある小さい子どもさんが急な病気になりました。それまで元気そうに見えていたのに、頭が痛いかお腹が痛いか、体の不調を訴えたのでしょう。病院に行くと、すぐ入院するよう言われたので、ともかく入院させ、お父さんは毎日、仕事の帰りにその子のお見舞いに寄っていました。まだ元気そうに見えていたころは、「太郎君、早く元気になって帰ろうね」「太郎君、頑張れよ」と声をかけていましたが、日に日にやつれ、見る影もなくやせ細った太郎君には、「太郎君、頑張れよ」とは言えませんでした。「お父さんが、ここにいるよ」としか言えなかったそうです。

 あらゆる諸仏法から、「この泥凡夫だけは、どうしようもない」と見放された私たちに、阿弥陀さまは、「私が、いつもここにいますよ」と、「南無阿弥陀仏」とご自身の名前でよびかけてくださっているのです。まさしく親さまの名告りです。

 声の仏さまとなられたのは、他力の法義のお手立てということでもあります。

 親鸞聖人は、「信心正因(しんじんしょういん)」の法義を明らかにしてくださいましたが、信心は心に起こるものです。心に起こるものに、心のはたらきをさせたら自力になります。心に起こることなのに、心のはたらきをさせない。それが、聞くままが信心となるあり方です。聞くという行為は、先手のよび声があて初めて成立します。これが、他力の信の構造で、阿弥陀さまが、よび声の仏さまとなられた理由です。

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2011年2月 遭いがたくして いま遭うことを得たり 法語カレンダー解説

 お釈迦さまの譬えに、砂浜で手に砂をすくった時、砂浜全部の砂をすべての生物と考えた時、手の中の砂が人間に生まれることのできた者に相当し、さらに、その手の中の砂から、指の爪の上に乗るくらいの割合が、仏法に遭える者だと言われています。

 この地球上だけでも想像もできないくらい無数の生物が存在しており、多くの生物の中から人間に生まれ得る確立は、きわめて小さいものと言えるでしょう。そして、その人間の中から仏法に遭える人もまた、さらに稀なものです。

 蓮如上人も、『御文章』(大聖世尊の章)に、「まれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり」(『註釈版聖典』1140項)と言われ、「しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり」(『註釈版聖典』1140項)と、遭いがたい弘願の法に遭えたことがいかに稀であるかをおよろこびになっておられます。

 客観的確率としても「遭いがたい」み教えなのですが、主観的意味においても、この他力のみ教えは「遭いがたい」のです。

 それを『阿弥陀経』には「難信の法」と説かれています。お念仏のみ教えは、異行道とも言われていますから、「易行」なのに何故「難信」なのか、少しわかりにくいかもしれません。

 「難信」とされる理由の一つは、「法の尊高をあらわすため」とされています。易かろう悪かろうと思われないように、法義が軽く見られないように「難信」というのです。

 二番目の理由として、「自力をいましめるため」と言われています。つまり「他力だから難信なのだ」ということです。「他力」なら「易しい」はずではないのか。ますます訳が分からなくなるかもしれませんね。実は、これは方向性が逆ということです。

 手前に引いて開く扉を、いくら力いっぱい押しても開きません。「他力」とは、如来さまから私たちに向って届けられる法義です。向こうからこちらに開いているのに、こちらから一生懸命押そうとしているのが「自力」です。方向性が逆ですから、これでは、いつまでたっても「他力」の法には遭えません。それが「難信の法」で、自力がいかに根深いかということです。その自力が捨たった所が、「遭いがたくして、いま、遭うことを得た」ということでしょう。

 私たちは、自分の理性や感性に合ったものだけを受け入れる傾向にありますが、それは自力の土俵です。如来さまから届けられたよび声のままを受け入れるところが、他力の信なのです。

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