2011年2月 遭いがたくして いま遭うことを得たり 法語カレンダー解説

 お釈迦さまの譬えに、砂浜で手に砂をすくった時、砂浜全部の砂をすべての生物と考えた時、手の中の砂が人間に生まれることのできた者に相当し、さらに、その手の中の砂から、指の爪の上に乗るくらいの割合が、仏法に遭える者だと言われています。

 この地球上だけでも想像もできないくらい無数の生物が存在しており、多くの生物の中から人間に生まれ得る確立は、きわめて小さいものと言えるでしょう。そして、その人間の中から仏法に遭える人もまた、さらに稀なものです。

 蓮如上人も、『御文章』(大聖世尊の章)に、「まれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり」(『註釈版聖典』1140項)と言われ、「しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり」(『註釈版聖典』1140項)と、遭いがたい弘願の法に遭えたことがいかに稀であるかをおよろこびになっておられます。

 客観的確率としても「遭いがたい」み教えなのですが、主観的意味においても、この他力のみ教えは「遭いがたい」のです。

 それを『阿弥陀経』には「難信の法」と説かれています。お念仏のみ教えは、異行道とも言われていますから、「易行」なのに何故「難信」なのか、少しわかりにくいかもしれません。

 「難信」とされる理由の一つは、「法の尊高をあらわすため」とされています。易かろう悪かろうと思われないように、法義が軽く見られないように「難信」というのです。

 二番目の理由として、「自力をいましめるため」と言われています。つまり「他力だから難信なのだ」ということです。「他力」なら「易しい」はずではないのか。ますます訳が分からなくなるかもしれませんね。実は、これは方向性が逆ということです。

 手前に引いて開く扉を、いくら力いっぱい押しても開きません。「他力」とは、如来さまから私たちに向って届けられる法義です。向こうからこちらに開いているのに、こちらから一生懸命押そうとしているのが「自力」です。方向性が逆ですから、これでは、いつまでたっても「他力」の法には遭えません。それが「難信の法」で、自力がいかに根深いかということです。その自力が捨たった所が、「遭いがたくして、いま、遭うことを得た」ということでしょう。

 私たちは、自分の理性や感性に合ったものだけを受け入れる傾向にありますが、それは自力の土俵です。如来さまから届けられたよび声のままを受け入れるところが、他力の信なのです。

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2011年1月 聞思して 遅慮することなかれ 法語カレンダー解説

 ご本願に出遭った時に、私たちがどう対応するかは、素直に信順するか、拒絶するかのどちらかです。無関心なままというのも拒絶の一種です。

 ここで「聞思」と言われるのは、ご本願のおいわれを聞かせていただいて、そのまま受け入れることです。「思」とあっても、自分で「思う」ことではなく、この「思」は次の「慮」に対する言葉です。「遅慮」とは、ただちに受け入れる「聞思」でなく、ああでもない、こうでもない、と時分で考えをめぐらせながら、もたもたと時間を消費したままの状態を言います。そういう自分の判断でためらうのではなく、そのまま信受することを「聞思」と述べられています。

 私たちは、仏様がお説きくださったことを、本当にそうだろうかと、すぐに疑ってかかります。お浄土なんて本当にあるのだろうか。お念仏hひとつでさとりをひらくなんてことが本当にできるのだろうか。私たちは、仏さまのお言葉を、私たち凡夫の理性で判断しようとしますが、これは最初からボタンをかけ違えています。「お浄土」も「お念仏」も、仏さまの領域の言葉ですから、仏さまの世界のことを、凡夫の論理で心配しても、まったくナンセンスです。仏さまの世界のことは、仏さまの論理で窺わねばなりません。

 このことに徹底されたのが中国の善導大師です。大師は、当時中国の唐の時代にあって、お念仏のみ教えが正しく理解されていないことを歎かれました。

 天台大師知顗(ちぎ)のような高僧方も、あるいは天親菩薩(てんじんぼさつ)の兄である無着菩薩(むじゃくぼさつ)の書かれた「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を根拠にする摂論学派の人たちも、お念仏くらいで往生できる浄土なら大したところではないと言ったり、浄土がすばらしい世界ならお念仏ひとつで往生できるような虫のいい話はないというような、易かろう悪かろうの凡夫の論理で推し量っていたのです。

 これらに対し、仏さまの世界のことは、仏さまの論理で判断すべきことを明らかにしてくださったのが善導大師です。それを「正信偈」に「善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)」と讃えられています。

 善導大師がお書きくださった「散善義(さんぜんぎ)」というお聖教に、何故お念仏ひとつで往生できるのかについて、「順彼仏願故(じゅんぴぶつがんこ)」(彼の仏の願に順ずるが故に)と、阿弥陀さまのご本願に誓ってあるからだと、その根拠を明確にしてくださっています。

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金子みすず『天人』と光明寺とのご縁

光明寺の本堂の奥へ進み、見上げると金色に輝く天人様の彫刻が目に入ります。

これは、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人、金子 みすゞが『天人』という詩を綴るに当ってインスパイアされたものだと云われています。

畳に座り、ふと見上げるとこちらを優しく見つめる天人-

みすゞは何を感じ、詩を思い浮かべたのでしょうか。

お参りの折にはぜひ、ご覧下さい。

   

『天人』

 

ひとり日暮れの草山で、

夕やけ雲をみてゐれば、

いつか参った寺のなか

暗い欄間の彩雲に、

笛を吹いてた天人の、

やさしい眉をおもひ出す

   

きっと、私の母さんも

あんなきれいな雲のうへ、

うすい衣着て舞ひながら、

いま、笛吹いてゐるのだろ。

   

夕やけ雲をみてゐれば

なんだか笛の音がする

かすかに遠い音がする

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親鸞展 親鸞聖人750回忌 真宗教団連合40周年記念

平成22(2010)年から平成24(2012)年にかけて、浄土真宗を開いた親鸞聖人の750回忌を各派本山で迎えます。
阿弥陀如来の力がすべての人々を救うという親鸞聖人の教えは、苦しみや 悩みを抱えた多くの人々に光明をもたらしてきました。浄土真宗は、今も国内最多の門信徒数を誇っています。

物質が豊かになった現代社会では、ともすれば心の問題が置き去りにされ、命の大切さが忘れ去られる風潮がうかがえます。親鸞聖人750回忌を機に、改めて聖人の足跡をたどり、今に残る多くの資料、法宝物を紹介する展観(親鸞展)を京都市美術館にて開催します。
親鸞展を通じて聖人の教え、人となりを改めて浮かび上がらせ、混迷の現代、さらには将来への指針としたいと思います。

なお、2011(平成23)年10月25日(火)~12月4日(日)、東京国立博物館において、真宗教団連合、浄宗会共同で「法然と親鸞ゆかりの名宝(仮称)」を開催する予定です。


「親鸞展」―親鸞聖人750回忌 真宗教団連合40周年記念

開催日時:2011年3月17日(木)~5月29日(日)

開催場所:京都市美術館

開館時間:午前9時~午後5時(ただし入場は4時30分まで)

休館日:月曜休館(3月21日は開館)

主催:京都市美術館、真宗教団連合、朝日新聞社

展示内容:第1章 親鸞聖人の教えと生涯 、第2章 浄土真宗のひろがり 、第3章 伝来の名宝と美術

HP:http://www.asahi.com/shinran/

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2011年表紙 遠く 宿縁を慶べ 法語カレンダー解説

本年は、親鸞聖人七百五十回大遠忌にあたります。まさしく「宿縁を慶ぶ」、尊い年を迎えました。いつも以上に、お念仏に心をかけた一年でありたいものです。

さて、「宿縁」の「宿」とは、「以前の」「以前からの」といった意味です。たとえば「宿題」とは、「以前からの課題」という意味ですね。

したがって、「宿縁」とは、今こうしてご本願に出遭うことのできた、この時点より以前すべてを含めての仏縁ということです。

み教えをよろこぶ身になれたのには、人それぞれ、様々な理由や事情があったことでしょう。浄土真宗の家庭に生まれたことで仏法を聴く身になれた人もあるでしょうし、あるいは、愛しい人やかけがえのない人との死別によって、その悲しみ自体はいつまでも変ることはないでしょうが、あとから振り返ったとき、あの人のおかげで仏さまに手を合わす身になれた、そういうご縁もあるでしょう。順縁・逆縁どちらもご縁となるのが、仏縁の尊いところです。私自身を振り返った時も、順縁・逆縁さまざまに思い当たります。

そしてさらには、自分中心の見方しかせずに、理屈ばかり言って素直に言うことを聞かない私が、今こうして、お念仏のみ教えに出遭い、ご信心よろこぶ身となれたのは、遠い遠い遥か昔から、この私に注がれた、阿弥陀さまの尊いお育てのご縁があればこそでした。

私たち一人ひとりは、みな性格も違えば、抱えてきた人生も異なります。言われたことを素直に聞く人もいれば、私のように理屈をこねて、なかなか素直に聞かない人間もいます。そのような、異なった人たちそれぞれに見合ったオーダーメイドのお救いを届けてくださるのが、阿弥陀さまのお慈悲のあり方です。

スーツを買うときも、既製服より、オーダーメイドの方がぴったり合います。この阿弥陀さまのオーダーメイドこそが「宿縁」であり、また「選択本願(せんじゃくほんがん)」でもあります。

阿弥陀さまが「選択」されたからこそ確かなのであって、私たちの「選択」は素人療法にすぎません。うっかり転んで、肩をしたたか打ったとき、肩をグルグル回してみて、これなら大丈夫だろうと思っていても、翌日になっても痛みがおさまらないので病院に行ってみると、お医者さんから「肩の骨が折れてますよ。肩を回したりしてはいけません」と叱られることになります。

こんな素人療法などではなく、阿弥陀さまの「選択」にまかせることが大切です。阿弥陀さまの「選択本願」が、私に対してはたらきかけてくださったすべての歴史の集積が「宿縁」なのであり、この如来さまのお手回しを思えば、ただただ慶ばせていただくばかりです。

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