2017年12月 弥陀の回向の御名なれば 功徳は卜方にみちたまう

無惨無愧のこの身IMG_20171130_0002

今月のご法語は「悲嘆述懐讃」の中にあります。『正像末和讃』の中に「悲嘆述懐讃」は十六首あり、はじめの六首は末法の時代や人間のあり方を深く悲嘆され、仏法に帰すべきであることを示される和讃が説かれています。そして、今月のおことばをいただいたご和讃からの三首は、親鸞聖人ご自身に真実がないことを告白され、不真実の身であるからこそ、本願の教えに帰すべきであることが強調される内容になっています。その三首のはじめで、

無漸無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ             (『註釈版聖典』六一七頁)

(罪を恥じる心がないこの身には、まことの心などないけれども、阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、その功徳はすべての世界に満ちわたっている。「三帖和讃(現代語版)」 一八三頁)

と示されており、親鸞聖人が、ご自身に罪を感じる心や真実の心がないことを告白されながらも、実は真実心がないことに気付けたこと自体が、阿弥陀さまによって回向された名号の功徳がすべての世界に満ちわたっているあかしであるという感動をうたわれたものと、味わってもよいのではないかと思います。
冒頭の「無慟無愧」について、「涅槃経」では、

慟(ざん)はみづから罪を作らず、傀(き)は他を教へてなさしめず。慟(ざん)はうちにみづから羞
恥(しゅうち)す、愧(き)は発露(はつろ)して人に向かふ。慟(ざん)は人に羞(は)づ、愧(き)は天に羞(は)づ。
(「教行信証」「信文類」引文、「註釈版聖典」二七五頁)

と説かれています。これまでたくさんの解釈が示されてきているのですが、「漸」は、自らを省みて恥ずかしく思う心であり、「愧」は、他に対して恥ずかしく思う心のことだと考えられています。親鸞聖人は、「漸」と「愧」の二つともが備わっていないということで「無漸無愧」とおっしゃっているのですから、よほど強い思いで自らを徹底した反省ができない存在だと自覚しておられたのでしょう。 親鸞聖人は、ご自身が「無傷無愧」であることの理由について、その著書のいたるところに、「愚僑慢の悪衆生」「機悪の含識」といった自己中心的にしかものを考えない愚悪を抱えた存在だからであるとの表現を多くされています。
同じ『正像末和讃』の冒頭では、

浄土真宗に帰すれども
真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
清浄の心もさらになし             (「註釈版聖典」六一七頁)

(浄土の真実の教えに帰依しているけれども、このわたしがまことの心をもつことなどあり得ない。嘘いつわりばかりのわが身であり、清らかな心などあるはずもない。「三帖和讃(現代語版)」 一八二頁)

とおっしゃっておられるように、真実の教えに帰依すればするほど、わが身の不真実な部分が見えてきて、自分の生まれ持ったものとしての清らかな心がまったくないことを告白されています。そのような人間の姿を「一念多念文意(いちねんたねんもんい)」の中では、

「凡夫(びんぶ)」といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念(いちねん)にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず        (「註釈版聖典」六九三頁)

(「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない「一念多念文意(現代語版)」三七頁)

とお示しになり、人間の内面を深く考えていけば、自己中心的な思いを根源として、怒りや腹立ちの心、他と比較してそねみやねたましく思う心が、命が終わるその一瞬まで消えずに次々とわきおこってくるので凡夫というのだ、とおっしゃられています。 親鸞聖人にとって、仏教の教えに出遇うということは、ご白身の悪性をその極みまで思い知らされるといった経験を必ず伴うものであったということができるでしょう。まさに親鸞聖人が歩まれた人生は、生身の人間が具体的現実を仏法にもとづいて、常に自らの欲望を省みながら生きる仏道そのものであったということを、雄弁に物語っているといえます。しかし、親鸞聖人における煩悩にまみれた存在であるといった凡夫の自覚は、ただ単に人間を悪なる存在だとして認識するだけにとどまるものではありません、。

反省と救いの体験

親鸞聖人は信心の内容を解説する中で、二腫深財(にしゅじんしん)について、

〈深心〉といふは、すなはちこれ深信(じんしん)の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、礦劫(こうごう)よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離(しゅつり)の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願(しじゅうはちがん)は衆生(しゅじょう)を摂受(しょうじゅ)して、疑(うたがい)なく慮(おもんばか)りなく、かの願力(がんりき)に乗じて、さだめて往生を得と信ず。    (「註釈版聖典」ニー七~二一八頁)

(深心というのは、すなわち深く信じる心である。これにまた二種がある。一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。「顕浄上真実教行証文類(現代語版)」 一七二~一七三頁)

といわれています。ここでは、自らの悪性が強く迷いの世界から離れがたい身であることを自覚すればするほど、同時に阿弥陀さまの救いのうちにあり、往生が定まった身であることが自覚されてくるということを説いていらっしゃいます。つまり、親鸞聖人の説かれる信心には、わが身の悪性を深く反省するという経験と、悪性に気付かなかった自分が阿弥陀さまのはたらきにより悪性に気付ける身とならせていただいたという救いの経験という、二つの側面が備わっているということがわかります。

往生ねがふしるし 世をいとふしるし

親鸞聖人は、晩年に関東の門弟の方々に対して書かれたお手紙の中で、こうした信心を得てお念仏の教えにもとづいて生きるようになった人には「しるし」があらわれてくる、と説かれています。

としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ。よくよく御こころえ候ふべし。                 (「親鸞聖人御消息」「註釈版聖典」七四二頁)

(長年の間念仏して往生を願うすがたとは、かつての自らの悪い心をあらためて、同じ念仏の仲間とも互いに親しむ思いを持つようになることです。これが迷いの世界を厭うすがたであろうと思います。十分にお心得ください。「親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)」 一四頁)

このように、お念仏の教えに生きるようになった人には、これまでの自己中心的な生き方を深く反省して、ともに念仏の教えに生きようとする方々を大切にし合おうとする新たな生き方がはじまり、「往生ねがふしるし」があらわれると説かれています。さらに、「往生ねがふしるし」は「世をいとふしるし」でもあるとおっしゃられています。「世をいとふしるし」について、「親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)」では、「迷いの世界を厭うすがた」と訳されています。

念仏の教えに出遇い往生を願いながら生きる人には、わが身を深く顧みて自己中心的な発想からつくりだされているものを、悪性として反省するようになる「しるし」があらわれます。つまり、人間の自己中心的な悪性が積み重ねられることでっくりあげられている、現実社会での差別や戦争などを社会的悪と見ぬき、現実が「迷いの世界」であることを自覚して、その「迷いの世界」にどっぷりとつかりきった生き方からどうにか抜け出そうとする生き方が、「世をいとふしるし」としてあらわれてくるとおっしゃられているのです。
今月のお言葉では、

弥陀の回向の御名なれば
功徳は卜方にみちたまう

と説かれていました。このお言葉の前には、「無傷無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」という前置きのお言葉がありました。つまり、今月のお言葉は、弥陀回向のみ名である名号が回施されることで、すでに功徳が十方に満ちている結果として、真実の方向に向くはずもなかった私の人生が、百八十度ひっくり返って真実の方向をむかって歩みをはじめたことで、「無傷無愧」である我が存在の不真実さをしり、「迷いの世界」を抜け出し、弥陀の願いに生きようとしはじめる二つの「しるし」があらわれてきたことをよろこばれたお言葉だと考えることができます。

智慧と慈悲

かつて龍谷大学の学長をされていた二葉憲香先生は、子どもたちに向けて宗教全般についての話をされる中で、

人間はだれでも、自分中心に考え、行動する性質をもっています。それは自分を防衛する本能というようなものでしょう。(中略)
人は、他人に親切にすると、ほめられたくなったり、むくいをもとめたりします。よいことをすると、うぬぼれます。親切にしてやったのに恩知らずだといって、非難します。それはやはり、自分中心の考えかたのあらわれで、親切にするのも自分のためなのです。(中略)

このような、人間の自己中心的な考えや行動をあらためていくためには、人間自身をよくみきわめる知恵と、それにもとづいた、人をいつくしむ心がなければなりません。そのためにあらわれたのが、人格をつくりなおすための宗教なのです。

人間の自己中心のとらわれからはなれ、正しい知恵と慈悲の人格をつくりあげること、つまり仏(真理をさとった人)になることを教えるのが仏教です          (「宗教のはなし」『二葉憲香著作集』第七巻、六七~六八頁)

と話をされています
このお話と合わせて今月のお言葉を味わいますと、親鸞聖人が、弥陀回向の名号のはたらきが満ち満ちていることで人間自身をよくみきわめる智慧を授かり、「無漸無愧」で自己中心的な自分の悪性にであい、その自己中心的な生き方を転回させて、念仏の仲間とも互いに親しむ思いを持つ慈悲心をもった生き方を願うようになることを、功徳として慶ばれていることがわかります。 このご和讃をいただく時、阿弥陀さまの功徳がすでにI万に満ち満ちていることで、離れがたき悪性を厭う人間の生き方が誕生することを示され、この念仏者の具体的な生き方を功徳として示してくださった尊いお言葉だと、感謝せずにはおられない気持ちになります。

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