私の奉職する筑紫女学園大学には、週に一度、驚くべき時間があります。それは、講義が行われる期間の毎週水曜日のお昼休みに開催されている「礼拝アワー」という時間です。はじめに参加者全員で「重誓偈」をお勤めして、その後、教員や学生などさまざまな方が担当して十分程度の感話を行い、それを参加者全員で拝聴するという、全体で十五分足らずの時間です。驚くべきこととは、全くの自由参加であるにもかかわらず、必ず毎回、五十人以上、多い時には百人以上の学生さんや教職員の方々が参加してくださっているということです。奉職した年、「礼拝アワー」に出席するたびに、たくさんの学生や事務職員の方の姿を見ては、本当にこの大学は、仏教関係の講義を担当する人だけではなく、すべての教職員さんや学生さんまでも含めて、仏教・浄土真宗を大切にする空気があるのだなと感動したことを記憶しています。
私にとって「礼拝アワー」の時間は、貴重な学びの時間でもあります。さまざまなジャンルの専門家の先生方や学生さん方が、それぞれ日頃考えていらっしゃることなどをお話ししてくださるのです。毎回毎回、知らないことばかりで目からうろこが落ちるような話や、思索の深さに驚かされたりと、新鮮な気持ちを取り戻せる時間です。
ある日、福祉を専門とされている先生がされたお話の中で、愛知県にある児童養護施設、暁学園のことを、「この学園で実践されている願いが、仏教・浄土真宗の教えを基礎とした筑紫女学園大学での学びの根底にもあるべき考え方だと思います」と言って紹介されました。
暁学園は、最後の節談(ふしだん)説教師といわれる真宗大谷派の僧侶、祖父江省念(そぶえしょうねん)師の次男、祖父江文宏師によって設立されました。祖父江文宏師は、「子ども」を尊重して「小さい人」と呼び、人生をかけて虐待や差別などの暴力から子どもたちを保護されました。その姿勢が子どもたちにも伝わり、「園長すけ」と愛着をもって呼ばれていたそうです。
あなたのなかの ほとけさまが
わたしのなかの ほとけさまに
微笑みかける
いのちはいつも
愛としてはたらく (『詩集 残された時間』六三頁)
と詠まれた一篇の詩からも、仏教・浄土真宗の教えをペースとした、祖父江師の子どもへの深い愛情と慈しみのまなざしを知ることができます。さらに、祖父江師が生涯をかけて携われていた児童養護施設、暁学園のホームページ冒頭には、こうした言葉が掲載されています。
いま 忘れてはならないこと
食べている君の後に 餓えている六人の小さい人が笑っている君の後に 病んでいる六人の小さい人が
君が生きる一分の間に 死んで往く二十五人の小さい人がある戦争のための道具一口分で 世界中の小さい人が学校に行けるという事実だ
イマージュを世界に放て 想いを人間に馳せろ
君が創る時代は 弱い人が、とりわけ小さい人が
社会のてっぺんで 人間らしく生きられる時代だ
(社会福祉法人積善会 児童養護施設暁学園 ホームページ)
尊くも生まれてきた子どもたちであるにもかかわらず、「暁学園の七十五パーセントの小さい人たちは大人からの暴力を受け、その傷に苦しんでいることを悲しみ、さらには「暴力を振るってしまった大人もまた、受けた暴力から立ち直れない人たち」だと想像し慈しむ祖父江師の姿勢に、仏教徒・念仏者としての社会へのまなざしのあり方を学ばせていただくような気がします。
「慈しみの心を持つ」ということは、他の存在への思いやりの心や愛情として、さまざまな宗教で説かれています。その中で仏教の大きな特徴は、その慈しみの心が単に人間同士だけではなく、あらゆる生きとし生けるものへと想像をひろげている点にあると考えられます。『南伝大蔵経(なんでんだいぞうきょう)』の中に収められている『スッタニパータ』という経典には、
いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも強剛(きょうごう)なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大(そだい)なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
(中村元訳『ブッダのことばIスッタニパーター』、岩波文庫三七頁)
と説かれ、お釈迦さまが、すべてのいのちとのつながりに目覚める智慧のまなこに立って、できる限りの慈悲の心をひろげ、あらゆるいのちあるものが幸せであることを願おうとされる姿がしるされています。この経典から、すべてのいのちのつながりに目覚め智慧をえたものは、必ず慈悲心をおこし実践することを学ぶことができるのです。
願作仏心 度衆生心
今月のご法語は、『正像末和讃』の第三十四番目のご和讃、
釈迦(しゃか)・弥陀(みだ)の慈悲(じひ)よりぞ
願作仏心(がんさぶっしん)はえしめたる
信心(しんこん)の智慧(ちえ)にいりてこそ
仏恩報(ぶっとんほう)ずる身(み)とはなれ (『註釈版聖典』六〇六頁)
から引用されています。『三帖和讃(現代語版)』では、
釈尊と阿弥陀仏の慈悲により、仏になろうと願う心すなわち願作仏心を得させていただいた。信心の智慧を得ることで、はじめて阿弥陀仏のご恩に報いる身となるのである。 二五〇頁)
と訳されています。先ほど紹介した、お釈迦さまの説かれる慈悲の心が私たちに弥陀法として回向されることで、本来、仏になってすべてのいのちを救いたいなどとは願わないはずの私たちが、願作仏心をえることで信心の智慧があたえられ、仏の恩に報いる生き方があらたに始まる、とおっしゃられているのです。願作仏心については、同じ『正像末和讃』で、
浄土(じょうど)の大菩提心(だいぼだいしん)は
願作仏心(がんさぶっしん)をすすめしむ
すなはち願作仏心(がんさぶっしん)を
度衆生心(どしゅうしょうしん)となづけたり (『註釈版聖典』六〇三頁)(浄土門では大いなるさとりを求める心を説いて、仏になろうと願う心すなわち願作仏心を勧めている。この心はそのまま、あらゆるものを救おうとする心すなわち度衆生心ともいわれている。『三帖和讃(現代語版)』 一四三頁)
と説かれ、願作仏心はそもそも浄土の大菩提心であり、その心は願作仏という側面と、度衆生という側面を持っているのだと示しておられます。
親鸞聖人はこの願作仏心について、
他力の菩提心なり。極楽に生れて仏にならんと願へとすすめたまへるこころなり
弥陀の悲願をふかく信じて仏にならんとねがふこころを菩提心とまうすなり
(『註釈版聖典』六〇四頁)
と、阿弥陀さまの法にうなづくことで、私たちが煩悩の身でありながらも、仏となりたいと願う願作仏心のことを菩提心というと、左訓をふって解説していらっしゃいます。
次に願作仏の心のもう一つの側面、度衆生の心については
よろづの有情(うじょう)を仏になさんとおもふこころなりとしるべし (同頁)
と、すべての生きとし生けるものを仏にしたいと願う心であると、左訓で紹介されています。自らが仏になりたいと願う心は、他の存在を救いたいと願う心でもあると教えておられるのです。つまり、阿弥陀さまよりたまわる大菩提心は、私たちが仏になりたいと願う心(願作仏心)であり、すべてのいのちを救いたいと願う心(度衆生心)でもあるということなのです。
いのちのつながりに目覚める智慧
こうしたことを踏まえて、再度今月のご法語、
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ
をいただいてみましょう。
親鸞聖人は、阿弥陀さまやお釈迦さまの慈悲心によって、大菩提心である願作仏心をたまわった人間は、すべての生きとし生けるものを仏にしたいと願う信心の智慧を同時にたまわるのだから、本当に仏の恩に報いる生き方がどのようなものかを知ることができる、とおっしゃりたかったのでしょう。別の表現をすれば、これまで救いのうちにありながらも、そのことに気付かなかった私たちが、あらためて救われることが決まっている尊い存在としての自覚を持ち、すべての生きとし生けるものとともに生きている事実に目覚める智慧をいただく身となるならば、これまで恩に報いることを考えなかった存在が、恩に報いる生き方を考えるようになるということでもあります。
ここで説かれる智慧の内容を、先はどの『スッタニパータ』の言葉と照らし合わせて考えてみたいと思います。お釈迦さまは「一切の生きとし生けるものは幸せであれ」と、自らとともに生きているさまざまないのちのつながりに目覚め、その幸せを願うようになることが仏法に目覚めた智慧あるものの願いだ、と説かれていました。つまり、智慧を得るとは、他のすべての生命に共感する力を得るということだといえるでしょう。他のすべての生命へ共感する力は、他のすべてのいのちの悲しみへの想像力を前提とします。悲しみへの想像力は、自分だけがよい思いをしていればよいといった欲望を満たすことばかり考えている生き方からは生まれてはきません。仏法に出遇えば、自己中心的な自分から生まれてくるはずがない、他のすべてのいのちの悲しみへの想像力が生まれてくる経験をするというのです。
これを親鸞聖人のお言葉で考えるならば、そもそも自分にはないはずの智慧にもとづいた慈悲心が、阿弥陀さまからあたえられてそなわる経験、回向された信心の智慧だといいかえることができるでしょう。だから、救われているという自覚が仏の恩を知ることにつながりますから、「仏恩報ずる身」としてその恩に報いていく生き方がはじまるということなのです。
先に紹介した祖父江文宏師の活動は、まさに「信心の智慧」をいただくことで「仏恩報ずる身」となられた結果だったといただくことができます。最後に、暴力と長年向き合ってこられた祖父江師の言葉を、ご紹介させていただきます。
人が暴力に頼るのは、人間関係の持ち方の良し悪しではなく、人間関係を求めざるを得ない人間の存在自体に、理知でしか生きられないという、暴力を生む芽があるのです。芽が暴力という表現に育ってしまうかどうかは、その人が育ってきた道筋、環境、現在の人間関係等が複合的に絡み合ってのことです。ことはいつも、人でない特別な人が起こすのではなく、私もまた、起こすかもしれないものであるということなのでしょう。(中略)だからこそ弱者に身を添わす、傷ついた者の支援者になるということです。
(『悲しみに身を添わせて』 一〇六頁)
自分の都合に左右されがちな私たちですが、この祖父江師の弱者の立場に立ち続けようとする姿勢に学ぶべき部分が少なからずあるのではないでしょうか。そのことが、私自身が「信心の智慧」をいただき、「仏恩報ずる身」となることの入口の一つに立つことのように感じられるのです。