末法という時代
九月から十二月の法語は、『正像末和讃』からのお言葉です。「今の世の中は末法だ」とか「世も末だ」といった言葉を耳にすることがありますが、こうした表現の下地となった末法という時代の捉え方を背景にお書きになられたご和讃です。ですので、時代背景なども考慮しながら味わわせていただくためにも、この「正像未」という言葉について、ご紹介させていただきます。
仏教における歴史の見方に、時代を正法・像法・末法の三つに分ける三時思想というものがあります。お釈迦さまが亡くなられて五百年間は、お釈迦さまの説かれた正しい教え(教)と正しい行い(行)があることで、さとりにいたる人があらわれる(証)ことから、正法の時代とされます。その後の千年間は、正しい教え(教)と正しい行い(行)はあるけれども、さとりにいたる人があらわれてこない像法の時代と考えられていました。正法の時代と像法の時代を合計した千五百年が過ぎた後は、正しい教えはあるがそれを理解できる人がいなくなり、行も証もすたれてしまうと考えられ、末法の時代が一万年続くと考えられていました。このように、お釈迦さまが亡くなられてから時代が過ぎるとともに仏教が衰微していく状況を、正・像・末の三時代に分けて考えていたのです。
親鸞聖人が幼年期から青年期を過ごされた時代は、貴族がみやびやかに政治を行っていた平安の世から、源頼朝などの武士が台頭してきて戦乱にあけくれる世の中へと、歴史状況が大きく変化していった時代です。
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響あり。娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりをあらはす。奢(おご)れる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。
『平家物語』巻第一 「祇園精舎」、岩波文庫一四頁)
これは、たいへん有名な『平家物語』の一節です。武家政権として、一時は平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」というほどに圧倒的な勢力を誇っていた平家一門ですが、時の流れの中で「奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」といわれるほどの末路をたどり、空しくも滅亡していったのです。こうした『平家物語』で描かれる世の中のほかなさや空しさを、多くの人たちが実感をもって受けとめていた時代だったことがわかります。現実社会で栄枯盛衰する出来事と仏教での末法という時代認識とがぴったりと重なり、僧侶だけではなく、広く一般の人々までもが、「すでに末法に入っているから、さとりをひらいて救ってくれる存在はいないのだ」といった意識を持ち、末法という仏教的な時代認識がひろく共有されていたと考えられています。
正像末という時代の変わり目についての計算方法については、千五百年説、二千年説などいくつか立場があるのですが、親鸞聖人は末法に入った時期について、
正法・像法・末法の三つの時代が説かれた教えについて考えると、釈尊の入滅された年代は、周の第五代穆王の五十三年にあたっている。その年からわが国の元仁元年に至るまで二千百七十三年を経ている。また『賢劫経』『仁王経』『涅槃経』などの説によると、すでに末法の時代に入ってから六百七十三年を経ているのである。 (『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』五三七~五三八頁)
と述べられており、紀元前九四九年をお釈迦さまが亡くなられた年として計算されたうえで、正法五百年、像法千年の説を主に使用されていたようです。この『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)で年代計算の基準として書がれている元仁元年が西暦コーニ四年ですから、お釈迦さまが亡くなられてから二千百七十三年たち、すでに末法の世に入ってから六百七十三年たっていると書かれていますので、親鸞聖人は西暦五五二年に末法の世に入ったと考えていらっしゃったことがわかります。
こうした出口が見つからないほどの混迷を極めた時代だといった実感とともに、ひろく一般の人々にも末法思想が共有されていた時代状況の中で、親鸞聖人は末法の時代に最もふさわしい教えとして浄土真宗をお説きくださったのです。その中で、とくに末法の世における仏教者のあり方をお示しくださっているのが『正像末和讃』です。
唯一の救われる道
今月のご法語は、『正像末和讃』第五十四番目の、
弥陀大悲(みだだいひ)の誓願(せいがん)を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)をとなふべし (『註釈版聖典』六〇九頁)
から引用されています。現代語訳では、
阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を深く信じる人は、みなともに寝ても覚めても変りなく南無阿弥陀仏の名号を称えるがよい。 (『三帖和讃(現代語版)』 一六〇頁)
とされています。
親鸞聖人ご自身も、末法の時代だと肌身をもって実感しておられたことでしょう。『正像末和讃』の「悲嘆述懐讃」では、
五濁増(ごじょくそう)のしるしには
この世の道俗(どうぞく)ことごとく
外儀(げぎ)は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり (『註釈版聖典』六一八頁)(さまざまな濁りに満ちた時代の中で、この世の出家のものも在家のものもみな、仏教を信じるものであるかのように振る舞いながら、内にはそれ以外の教えを敬い信じている。『三帖和讃(現代語版)』 一八五頁)
と、現実での宗教状況を悲しまれています。ここで聖人は、人間のエゴイスティック(自己中心的)な煩悩を反省する宗教としての仏教がすたれてしまい、煩悩がドンドンと肥大化していると述べられています。そしてこのような時代にあっては、飢饉や戦争などが増大する時代の汚れや、邪悪な思想がはびこるなどの思想の乱れが進み、人間の資質が低下し、悪を思うままに行うようになるといった五濁がますます増えている「しるし」があると説かれています。その「しるし」とは、僧侶も一般の人も誰しもが、仏像を拝んだりして一見すると仏教を信奉しているようだけれども、その信奉している中身はまったくエゴイズムを反省する仏教的なものではなく、内心にあるエゴイズムの満足ばかりを〈仏のような神〉に祈る外道に帰敬している姿のことだ、と説かれているのです。
うした当時の社会において、仏教が正当に理解されていない事実に対する親鸞聖人の悲しみが、同じ「悲嘆述懐讃」の中で、
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀(いぎ)をもととして
天地の鬼神(きじん)を尊敬(そんきょう)す (『註釈版聖典』六一八頁)(何と悲しいことであろう。近頃の日本の出家のものや在家のものは、みな仏教を信じるものであるかのように振る舞いながら、天地の鬼神を尊び敬っている。『三帖和讃(現代語版)』 一八七頁)
と示されているのです。
ひたすら仏教者としての正しい生き方を求めて生きておられた聖人を、何度も何度も、時の権力者などとも強いつながりのあった既成仏教教団の偉い僧侶たちが中心となって、弾圧をしてくるのです。その理由は、親鸞聖人が、
仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ
(『教行信証』『註釈版聖典』四二九頁)(仏に帰依するなら、決してその他のさまざまな天の神々に帰依してはならない『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』五六二頁)
と、神を拝むことに疑問をもたない生き方と仏の願いに生かされる生き方との違いを明確に意識しておられ、仏教に帰依したあかしとして、神を拝まない生き方が始まることを生活の中で実践されていたからです。親鸞聖人にとっての末法という時代認識は、多くの人たちに「仏教が仏教として理解されていない」といった、ご自身が生きておられる生身の人生の中で実感されていたものであったと考えることができます。
こうした仏教が正当に理解されていない時代状況の中で、「真の仏弟子」としての歩みを止められなかった理由を、親鸞聖人は「弥陀大悲の誓願が回向されて、私白身に信としていたりとどいているからだ」と考えていらっしゃったのでしょう。人間自身の力では到底さとりになどいたることのできない「末法の世」でありながらも、それでも人間が真実に向かって生きていく道標として「弥陀の誓願」が説かれ、名号として回向されることで、末法における唯一の救いの道として浄土真宗の教えがある、と考えておられたのだとうかがえます。
ですから今回のご法語で説かれるように、「弥陀の誓願」として経典に説かれた仏の願いが、人間にとっての真実の道を示すものである、ということに目覚めさせていただいた人間は、寝ても覚めてもいつでも、そのことに気付かせてくださった阿弥陀さまの喚び声に耳を傾け続け、聞きつづけなければならないと、ご教示くださっていらっしやるのでしょう。ここに、親鸞聖人にとっての、弥陀の誓願に救われたことへの報恩行としての称名念仏の意味を、学ばせていただくことができるように感じます。
自灯明 法灯明
『長阿含経』の「遊行経」には、お釈迦さまが涅槃にいたるまでの様子が描かれています。八十歳になられたお釈迦さまは、弟子の阿難尊者を伴って旅を続けられる途中、病気にかかり自らの死が近いことを自覚されます。阿難尊者をはじめ多くのお弟子さまたちにとって、お釈迦さまこそが人生の灯火であり、依りどころとなっていました。そのお釈迦さまが亡くなったら、自分たちは何を頼りにして生きていけばいいのかと戸惑っているさなか、お釈迦さまは最後の教えとしてこの言葉を説かれます。
弟子だちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。 (仏教伝道協会編『和文仏教聖典』 一〇頁)
私たちは、何か絶対的に頼りにできるものがあればそこによりかかり、自分で物事の判断をすることなく生きてしまいがちです。しかし、お釈迦さまは「自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない」と説かれます。これは決して自分勝手に生きよということではありません。自らに届いた「法を灯火とし、よりどころとせよ」と説かれているのです。常にエゴイスティックな自分を反省し、真実の道を示す灯火として仏法を自らの生き方の中心において生きていきなさい、という教えなのでしょう。
まさに親鸞聖人にとってのお念仏も、この「法を灯火とし、よりどころ」とする生き方を、称名念仏として自らの口を通して出遇わせていただく弥陀の誓願に耳を傾けることで、自らの生き方全体を阿弥陀さまのはたらきの中にゆだねる行為として、考えていらっしゃったように感じられるのです。
末法の世に生きる私たちは、唯一、寝ても覚めても称える名号を、「一人で生きているのではない。すべてのいのちのつながりの中で生きていることを忘れるな」という阿弥陀さまの喚び声と聞かせ続けていただくことで、真実の道を歩むことができます。そこに、親鸞聖人が浄土真宗をお説きくださった尊さをひしひしと感じます。
(宇治和貴)