2017年2月 如来すなわち 涅槃なり 涅槃を仏性と なづけたり

さとりの表現IMG_20170203_0017
二月の法語は、『浄土和讃』の第九十三首前半の二句ですが、まずはこの和讃の全四句とその現代語訳をうかがいましょう。

如来(にょらい)すなはち涅槃(ねはん)なり
涅槃を仏性(ぶっしょう)となづけたり
几地(ぼんじ)にしてはさとられず
安養(あんにょう)にいたりて証(しょう)すべし (『註釈版聖典』五七三頁)

(如来はすなわち涅槃である。この涅槃を仏性と申しあげる。凡夫には、これをさとることができない。浄土に至ってはじめてさとることができる。『三帖和讃(現代語版)』五六頁)

前半の二句に、「如来」「涅槃」「仏性」という言葉があり、これが二月の法語のかなめとなっていますが、その意味からうかがっていきたいと思います。このご和讃においては、いずれも「さとり」(正覚)の内容を表す言葉ですが、その元になる言葉の成り立ちを見てみましょう。
まず「如来」とは、「阿弥陀如来」「釈迦如来」などといわれるように、さとり(正覚)に至られたお方のことで、「仏」ともいいます。もともとインドの原語(サンスクリット語)では「tathagata」といわれ、その訳語が「如来」となりました。この語の解釈として、「tatha」は「その通りの」「その通りに」という意味の語で、「あるがままの真理」を意味し、「如」「然(しかり)」とか「真」などと訳されます。そこで、「tathagata」は「如(tathaに至った(gara))」、あるいは「如(tatha)から来った(agata)」という解釈から、「如去」「如来」などと漢訳されたのですが、やがて「如来」が一般的な訳語に定着しました。
それは、「如」なる真理(あるいは真理の体得者)が、この迷いの世界に来られてはたらいておられるという意味で、「如来」とはさとりを得られた仏がはたらき出ている真理の活動体である、と受け止められたからです。すなわち、「さとりの真理が、生きとし生けるものを(迷いの世界からさとりへと)救うはたらきが、如来であり仏である」ということになります。まさにあるがままの真理の活動体が、仏であり如来であるということです。
次に「涅槃」とは、やはりインドの原語(サンスクリット語)からくる言葉で、原語「nirvana」の音写語「涅槃」が漢訳語として定着したものです。元の「吹き消す」という意味の言葉から、この迷いの世を離れること、つまり自己中心的な欲望の活動である「煩悩」を吹き消し滅尽して煩悩の世界から解放されるという、煩悩の滅を意味する言葉として使われました。こうして、「涅槃」とは「解脱」を意味する語として用いられたのです。また「滅度」がその意訳語で、「煩悩悪業を滅して苦の果を度る」という意味であるとされます。「涅槃寂静」などといわれるように、煩悩の炎が吹き消された静かな境地を意味し、さとり(正覚)を意味するものとして古くから使用されてきた語です。
さらに「仏性」とは、まさに、さとり(正覚)を得られた仏の本性ということですが、これもインドの原語(サンスクリット語)の「buddhata」(仏の本性)「buddha‐dhatu」(仏の界・仏の本性)「buddha-gotra」(仏の種性)などの訳とされ、さとりそのものの性質を意味する言葉です。『涅槃経(ねはんぎょう)』には、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶしょう)」(生きとし生けるものはすべて仏となる本性を有している)といわれ、あらゆるものが本来さとりを得る本性を持っていると説かれています。確かに煩悩を離脱しさとりを得ることが仏道の根本ですが、現実には煩悩に覆われ苦悩の中にある私たちですから、その中から離脱を求めることは難中の難といわざるをえません。
真理としての如来
それでは、このご和讃にはどのような意味が示されているのでしょうか。
親鸞聖人の著述によって、『涅槃経』のご文に従ってこのご和讃が詠われているとうかがうことができます。『涅槃経』には、さとり(正覚)を別の語で解説して、さとりの何たるかを示すところがあり、その一節を聖人は『教行信証』の第五巻である「真仏上文類」に引用されています。そこには、

真解脱(しんげだつ)はすなはちこれ如来(にょらい)なり。至乃 如来はすなはちこれ涅槃(ねはん)なり、涅槃はすなはちこれ無尽(むじん)なり、無尽はすなはちこれ仏性(ぶっしょう)なり、仏性はすなはちこれ決定(けつじょう)なり、決定はすなはちこれ阿桁多羅三貌三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)なり(『註釈版聖典』三四二圭二四三頁)

真実のさとりはすなわち如来である。(中略)如来はすなわち涅槃である。涅槃は尽きることのないものである。尽きることのないものはすなわち仏性である。仏性はすなわち決定である。決定はすなわちこの上ないさとりである『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』三九二頁)

と示されています。
また、このご和讃の古写本に左訓が付けられていて、そこには、

如来と申すは即ち涅槃と申すみ言(こと)なり、涅槃と申すは即ち真(まこと)の法身(ほっしん)と申す仏性なり、知るべし。この凡夫はこの世界にしてさとらず候へば、他力をたのみまいらせて安楽浄土にしてさとるべしとなり(「顕智本」『浄土真宗聖典全書』第二巻〈宗祖篇上〉三八五頁・原片仮名)

とあります。
ここでは、「真解脱が如来である」「如来とは涅槃という言葉〔と同じ〕である」といわれているように、何ものにもとらわれることのないもの(無凝(むげ)、無尽のもの)である真理(如なる真理、真如法性(しんにょほっしょう))を如来ということが示され、また、この真理が仏を仏たらしめている本性であり、それを「仏性」と呼ぶといわれています。この真理に到達する(真理を体得する)ことによって、煩悩の苦悩から離脱し、「涅槃」(さとりそのもの)に至ることができるのです。
親鸞聖人は、『涅槃経』などを引用され、言葉を尽くして、如来は真理そのものであり、それが具現化してはたらき出るものであることをお示しくださっていますが、このご和讃の前半二句にもその意味が端的に詠われています。
真理が体得できない凡央
そして、後半の二句で、

しかし、煩悩の苦悩の中にある凡夫には、この真理の体得(さとり)を達成することはできない、安養浄土に至ってこそ達成できる。

と詠われているといただくことができます。

このように、煩悩の世界にどっぷり浸かっている私どもには、とても仏・如来の境界、さとりの境界を知ることも感じることもできません。阿弥陀さまの犬慈悲のはたらきをいただいてこそ、浄土への道を歩ませていただくことができ、「安養」(極楽浄土)に往生してさとり(正覚)を得ることができるのである、と知らせていただくのです。(佐々木恵精)

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