2018年4月 回心というは自力の心をひるがえし、すつるをいふなり。

人生のターニングポイント

今月のことぼは、親鸞聖人の著作『唯信鈔文意』の一節です。 「回心」という言葉は、一般的には「かいしん」と読み、これまでの誤った心を改めることをいい、「改心」と同じ意味で用いることもあります。キリスト教などでは、過去の罪の心や生活を悔い改めて、神の正しい信仰寸心を向けることを「回心」というようです。仏教ではこれを「えしん」と読み、もともとの心をあらためて正しい仏道に向かうことをいいますが、浄土真宗では、今月のことばのように、自力の心をすてて他力に帰することを「回心」というのです。 いずれにしても「回心」という言葉は、これまで自分の持っていた価値観が崩れ、まったく新しい価値観が誕生することによって、人格の内面が変化することであるといえます。その意味で「回心」とは、「自分白身が生まれ変わった」というべき信体験をすることで、『歎異抄』第十六条には、

一向専修(いっこうせんじゅ)のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。 (『註釈版聖典』八四八頁)

といわれているように、人生におけるただ}度の「夕ーニングポイント」というべき重大な出来事なのです。 私は鹿児島県のお寺の三男として生まれたのですが、中学・高校の頃には、浄土真宗の教えやお寺のことについてそれほど関心を持っていませんでした。まして「お坊さんになろう」などとはまったく考えていませんでした。大学に進学する頃には、すでに長兄がお寺を継ぐ決心をしていたということもあって、自分かやりたいことをやろうと地元の大学の理学部に進学しました。 ところが、学生時代に思いがけない挫折を経験したことや、また将来に不安を抱えながらの学生生活の中で、さますまな仏縁をいただく機会に恵まれていくうちに、次第に浄土真宗の教えに関心を持つようになっていきました。今にして思えば、これは阿弥陀さまのおはからいだったのでしょうか。 大学卒業年次の夏、ある先生に出遇ったことが、私の人生を大きく変えることになったのです。これが私の人生のターニングポイントでした。大学卒業を機に、生まれ故郷の鹿児島を離れ、先生のおられる大阪府高槻市の行信教校というお坊さんの専門学校に入学し、本格的に浄土真宗の教えを学ぶことにしました。そして、行信教校卒業後、ご縁があって滋賀県のお寺に人寺させていただき、それから三十年の時を経て今日に至っています。 さて、「回心」ということについて、人それぞれ道筋は異なると思いますが、宗教体験あるいは信仰体験ということでいえば、無宗教から信仰に入るという場合や、ある宗教から別の宗教へと移っていく場合、また人によっては、逆に信仰から無宗教へと移行するという場合があるかもしれません。いずれにしても、心のありようが完全に転回していくことを「回心」というのです。

親鸞聖人の回心

それでは、『唯信紗文意』の著者である親鸞聖人にとって、「回心」とはいったいどのようなことだったのでしょうか。親鸞聖人は著述やお手紙の中で、自身のことについてはほとんど語っておられないのですが、ただ「回心」ということについては、はっきりと述べておられているのです。 一つには『教行信証』「化身上文類」の後序に、

しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。 (『註釈版聖典』四七二頁)

とあるように、「愚禿釈の鸞」と自らの名を名のり、「建仁辛酉の暦」とその時も示して、「雑行を棄てて本願に帰す」と自らの回心について記されています。この時、九つの時から二十年もの間、学問修行されてきた比叡山に別れを告げ、吉水の法然聖人のもとに行く決意をされた、というのです。このことは、伴侶である恵信尼さまが末娘の覚信尼宛てに書かれた『恵信尼消息』の中で、

山を出(い)でて、六角堂に百日龍らせたまひて、後世(ごせ)をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現(じげん)にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のだすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて (『註釈版聖典』八}一頁)

等と書かれているものとも符合します。ちなみに、ここに「山」とあるのは「比叡山」のことを指しています。親鸞聖人は回心されて後、比叡山での学問修行を「雑行」といわれ、汪然聖人によって出遇った念仏往生の教えのことを「本願」といわれたのです。 三願真仮の思想 ここで『教行信証』「化身上文類」後序の文に、「雑行を棄てて本願に帰す」といわれていることに注目しておきたいと思います。「雑行」に対する言葉は「正行」ですから、親鸞聖人の「回心」が「依るべき行を転換した」ということであるならば本来ここでは「雑行を棄てて正行に帰す」、あるいは「諸行を棄てて念仏に帰す」というべきでしょう。しかしこの文は、親鸞聖人の回心が、「依るべき行を諸行から念仏に転換された」というだけではなく、「本願他力の心に帰する」ということであったということをあらわしている、ということになるでしょう。今月のことばの、

「回心」というは自力の心をひるがえし、すつるをいふなり。 (『註釈版聖典』七〇七頁)

というのも、そのことをあらわしていました。 このような回心体験は、その後、阿弥陀さまの本願の上に真実と方便とがあるという「三願真仮の思想」を確立されることによって、より明確な形であらわされることなります。それが、いわゆる「三願転入」と呼ばれるお言葉でした。 「化身上文類」には、要門釈(諸行往生を誓われた第十九願の法門を「要門」という)に続いて、真門釈(自力念仏往生を誓われた第二十願の法門のことを「真門」という)がありますが、その真門釈の結びに、

ここをもって愚禿釈の鸞、論主(ろんじゅ)の解義(げぎ)を仰ぎ、宗師(しゅうし)の勧化(かんげ)によりて、久しく万行諸善(まんぎょうしょぜん)の仮門(けもん)を出でて、永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る。善本徳本(ぜんぽんとくほん)の真門に回入(えにゅう)して、ひとへに難思往生(なんじおうじょう)の心を発(おこ)しき。(第十九願から第二十願への転換)しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転人せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂ぽんと欲す。(第二十願から第十八願への)果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。(『註釈版聖典』四一三頁)

という言葉で語られています。ここで親鸞聖人は、聖道門から要門へ、要門から真門へ、そしていま弘願(第十八願)に帰すことができたのは、ひとえに阿弥陀さまのお育てによるものであったと、お救いのはたらきに深く感謝されています。 「ふたつならぶことをきらふ」 さて、親鸞聖人は兄弟子であった聖覚法印の書かれた『唯信鈔』をとても大切にされ、関東の門弟たちにもたびたび書写して伝授されていますが、その『唯信鈔』に出ている文について釈されたのが、『唯信鈔文意』という書物です。 親鸞聖人は『唯信鈔文意』のはじめのところに、「唯信鈔」という題について解釈されて、

「唯信鈔」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり。虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。 (『註釈版聖典』六九九頁)

等といわれています。ここに「唯」ということばを解釈されて、「ただこのことひとつという、ふたつならぶことをきらうことばなり」といわれ、また「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを『唯信』という」とか、「『唯信』はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり」(同頁)といわれています。 「自力他力」ということについては、六月のことばで詳しく解説しますが、親鸞聖人にとって、「他力」とは「自力」をはなれることであり、本願他力のほかに、ほかのことを並べないことであったことがわかります。つまり「自力・他力」とは、一般に理解されているように「自の力・他の力」という意味でもなく、「自力と他力とがあいまって、仏さまの救いを受ける」というものでもなかったのです。 『領解文(りょうげもん)』には、

もろもろの雑行雑修自力(ぞうぎょうざっしゅじりき)のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。 (『註釈版聖典』 コーニ七百)

とあります。阿弥陀さまのお救いにあずかるとは、これまで迷い続けてきたもとである自己への執われ、すなわち「凡夫自力のはからい」を捨てて、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらき、すなわち「本願他力」にまかせることによって、必ず浄土へ生まれて真実のさとりを開くことに決定した身(これを「正定聚」といいます)にしていただき、今、ここから、さとりへの道を歩いていく、ということだったのです。 (藤潭信照)

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