2018年3月 本願をききて 疑うこころなきを 聞というなり

本願を聞く

三月の法語は、親鸞聖人が、法然門下の先輩である隆寛律師の『一念多念分別事』を註釈された、二念多念文意』からの一文です。二念多念文意』は、専修念仏(せんしゅうねんぶつ)は称名念仏の数、一念・多念という念仏の数に偏執しない念仏往生義であることを明らかにされた書物です。今月の法語は、その念仏往生の誓願である第十八願が成就した、第十八願成就文を解釈された一文です。まず、その文と現代語訳をうかがいましょう。

本願をききて疑ふこころなきを「聞(もん)」といふなり。 (『註釈版聖典』六七八頁)
(如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「聞」というのである。『一念多念文意(現代語版)』五頁)

と、この文は阿弥陀さまの根本の誓願の救いを疑いなく、二心なく聞く、「聞」の大切さを示された一文です。
浄土真宗では聞法・聴聞を大切にしますが、一般に仏教においては、発心・修行ということを犬切にします。自らさとりを求めようという真心を発し、自らが造作しさとりに向かう修行をしていくことを意味します。浄土教の伝統においても、真実清浄に建立された阿弥陀さまの浄土に往生を願うわけですから、浄土に往生しようとする者の信(心)や行け、本来は真実清浄な心で行じられなければなりません。
しかしながら、私たちが自ら十分に真を至して発したという信(心)や行け、真実清浄であるとはいえません。親鸞聖人は、悪の本性はいかんともしがたく、心は蛇や歎(さそり)といった毒虫と少しも変わりがないとも吐露されています。善い行いをしても、心のどこかで褒めてもらいたいとか、良く見てもらいたいといったはからいの心、すなわち煩悩の毒が混じっています。それは、世間でいう善行やさとりへ向かう善根功徳の行であろうともです。少しでも汚れた心持ちで修行の徳を振り向けて、土へ往生を願ったとしても、これは必ず不可でしかないのです。
また、自らが正しく清らかに行じたと思っていても、それが迷いの因果に基づいた行いであるならば、これもまた不可なのです。私たちの身・口・意の三業は、雑毒の善、虚仮の行で、真実の業とは名づけられず、このような業によって浄土往生を求めてもかなえられないのです。
ところが逆に、阿弥陀さまがそのような衆生を哀れんで、法蔵菩薩としてご修行された際の身・口・意の三業は、すべて真実清浄になされ、一念一刹那も真実清浄でなかったことはない、といわれます。そして、真実なる願いを完成され、真実心で修められた功徳のすべてを名号として、衆生に施されていたのです。阿弥陀さまの本願成就のところに、衆生の信ずる心も、行ずる行も、さとりに至るはたらきも、完成し用意されていたのです。
その救いの誓願の根本中心は第十八願です。この願の内容には、第十一・十二・十三・十七・十八願の阿弥陀さまの五つの願いの心が込められています。すなわち、真実の教(『仏説無量寿経』言行(南無阿弥陀仏土信(無疑の信心土証(滅度言宣(仏・真土の六法が納まっており、『教行信証』にはそれらの救いの法が体系的に述べられています。衆生往生の因果のすべてが阿弥陀さまから与えられて救われる、本願力回向の仏道にほかならないことが明らかにされています。

「ただ念仏」と「ただ信心」

私たち凡夫の現実は、臨終の瞬間まで貪欲・緋恚・愚痴の三毒の煩悩にまみれた状態です。もし無明煩悩の病原を治さなければ、迷いの世界にとどまることになります。したがって、自力のさかしい智恵しか持ちえない私たちには、無明の毒を滅するはたらきをもつ薬が必要となります。
その救いの法薬は、阿弥陀さまが、苦悩の衆生をいのちをかけて救わずにはおられぬと、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い時間、絶えず真実清浄なる心でご修行され、説きつくすこともできない智慧や慈悲の徳を成就された結果、仕上がりました。それは、功徳をおさめた如来の名号、本願が衆生のものにまでなってくださった、本願成就の名号です。「南無阿弥陀仏」として衆生に施し与えられ、諸仏がたの讃嘆称名される音声(おんじょう)を通じて、十方世界に届けられていたのです。その救いの真実を、親鸞聖人が「よきひと」と仰がれた法然聖人は、

ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし
(『歎異抄』第二条、『註釈版聖典』八二二頁)

と勧められ、親鸞聖人が歩まれた仏道の大きな転機となりました。

では、第十八願に誓われた真に救うのお心は、どのようにして衆生のものとなるのでしょう。それは、衆生においては、与えられた薬の飲み方といえます。『仏説無量寿経』巻下の第十八願成就文には、服薬の方法が語られています。お釈迦さまによるこの説明書には、

諸有衆生(しょうしゅじょう) 聞其名号(もんごみょうごう) 信心歓喜(しんじんかんぎ) 乃至一念(ないしいちねん)
『一念多念文意』、『註釈版聖典』六七七~六七八頁)
(諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん『註釈版聖典』二三六頁)

と語られ、この文を親鸞聖人は、「本願信心(ほんがんしんじん)の願(第十八願)成就の文」(『同』二三五頁)として重視されます。諸仏に讃えられ届けられた名号は、「聞く」というかたちで服薬せよといわれます。聖人は、それをより詳細に、

仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心(ぎしん)あることなし
(『教行信証』「信文類」、『註釈版聖典』二五一頁)

と述べられて、何をどのように聞くのかという聞き方をお示しです。阿弥陀さまが本願を起こされた理由(生起)と、その本願の因果(本末)を疑心なく聞くということです。
服薬した衆生においては、「信楽」の受持という真実信心一つが、如来の救いが私たち衆生のところではたらく要となります。その信相は、真白意味で仏に導かれることがなく、無始から未来においても迷い続ける現実の自身のいつわらざる姿を深く信知せしめられた「機の深信」と、本願真実の救いにまかせ、間違いなく浄土往生させていただけると深く信知せしめられた「法の深信」という、二種一具の信相です。また、本願にまかせて自力心を捨てた即座に、「ひとたびとりて永く捨て」(『浄土和讃』左訓)ずという摂取不捨の利益が恵まれるのです。
「本願力回向の信心」(『教行信証』「信文類士、「如来よりたまはらせたまひだる信心なり」(『歎異抄』後序)とは、このような味わいの中のお言葉となります。よきひとの「ただ念仏せよ」のお言葉を「ただ信心」といただかれ、念仏申されたのが親鸞聖人でした。

聞即信

親鸞聖人は、本願を聞くということを「聞名」として解釈されて、

「聞(もん)」といふは如来のちかひの御(み)なを信ずと申すなり。
(『尊号真傀銘文』、『註釈版聖典』六四五頁)

と、「聞」を解釈されるのに名号を信ずるという「信」をもって示されます。これは、第十八願成就文の「聞其名号」のご解釈と同じです。「名号」を「聞く」ということが「信心」であるということは、浄土真宗の信心の特質です。
古来「聞名」に三種の意義があるといわれます。一つには、名号を聞信するという凡夫に相応の「信」であるということ。二つには、「聞名」は「称名」に対する言葉で、聞名による真実信心は、私たちの称名の「行」に先立ち信前行後といわれます。逆に、第十七願によって讃嘆された「称名」を聞くという次第からすると、行が信に先立つこととなります。称名が称えものでありながら聞きものであるといわれる由縁です。三つには、「聞名」が凡夫自力の信心ではなく、名号のはたらきによって信心が発起するという如実の信心をあらわしています。
このように、本願に誓われた名号を念仏して助けてもらうのではなく、助かってくれと拝まれている阿弥陀さまの御名を「聞名」し信心を獲るのが、本願の救いの要であります。
(武田 晋)

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