お彼岸 秋 彼岸会

 「暑さ寒さも 彼岸まで」という先人のことばに、汗して働く生身の人間を感じるのは、私一人ではないと思います。

そうした人たちが、いつごろからか、こぞって墓参りをする習慣を身につけてきました。なぜなのかを、よく考えてみたいことです。

   

 ところで、”彼岸″とは、”此岸”に対することばです。彼岸とは、浄土の世界であり、涅槃・さとりの世界のことであります。

 此岸とは、この私たちの生きて娑婆世界で、煩悩のうずまく迷いの世界であることは、申すまでもないことでありましょう。

 この、”彼岸″インドの原語では、何の逆巻く濁流そのものを意味するそうです。そうすると、この”彼岸″と”此岸″でもって仏法は何を伝えようとしたのでしょうか。

 前述しましたように、実は”此岸″という”岸”は、岸とは名ばかりで怒涛さかまいている”流れ”そのものですから、此世には何一つとして、あてたよりになるものはないのだよと教えているのでしょう。しかも、さかまく濁流のなかにあって、その中洲(嶋)にたとえられるのが、”彼岸″ であります。`

 このことは、此岸にとどまって、ただ死に向かって、単に滅びへの道だけで終るのではなく、死んでしまいにならない彼岸の浄土だけが、あてたよりになるんだよという、阿弥陀如来の切実な願いが、込められているのでありましょう。

   

 それこそ、地位・名誉・財産……を、あてたよりにして、ついには、それらに溺れてしまい滅びに向うこの身に、彼岸からのはたらきかけてある「南無阿弥陀仏」の、お喚び声にゆり起こされて目覚め、その「南無阿弥陀仏」そのものが、迷いの凡夫(この私)の智慧となって、この此岸でのゆるぎない支えとなって下さっているのであります。

   

 こうしたみ教えに出遇ってくれることを、誰よりも願っていてくれるのは、ご先祖だったのであります。 だから、こうした亡き人たちの心に出通い、また、出通うべく墓参りをしたのが、浄土真宗のご門徒さん方だったのでありましょう。

 彼岸は遠く、向こうの岸と眺めているだけでなく、彼岸から私へのはたらきかけ、「南無阿弥陀仏」となって、喚びかけ目覚めさせ支えてくださってあるはたらきに気づかせていただいてこそ、なき人々の死が、無駄ではなかったと味わうこともできます。

 墓前に頭をたれ、掌を合わす、亡き人の声を心して聞きたいと思うことであります。

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