「召喚」とは、如来さまから招き、よび続けてくださっていること。そして「勅命」とは、逃げ場のない教命ということです。
「帰命」とは、「正信偈」に「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい=無量寿如来に帰命し)」とあるように、本来、私たち衆生の側の持ち分のはずです。
「帰命」の持ち場は衆生の側ですが、その根源をたずねてみると、実は、如来さまからのよび声であったと気付かれたのが、親鸞聖人の画期的発見です。
阿弥陀さまは、私たちに直接接してくださるに当たって、よび声の仏さまとなられました。
生まれて数ヶ月たって、今まで言葉が喋れなかった赤ちゃんが、お母さんに向かって「マーマ」とよべるようになったのは、それまで何度も何度も、お母さんの方から、その赤ちゃんに「私がママよ」と、よび続けていたからです。
今、私が「南無阿弥陀仏」と、お念仏申すことができたのは、それまで、ずっと阿弥陀さまが、よび続けてくださっていたからにほかなりません。
普通、私たちがよびかける時は、相手の名前でよびかけますが、阿弥陀さまは、ご自身の名前でよびかけてくださいます。それには大きな意味があるように思います。
ある小さい子どもさんが急な病気になりました。それまで元気そうに見えていたのに、頭が痛いかお腹が痛いか、体の不調を訴えたのでしょう。病院に行くと、すぐ入院するよう言われたので、ともかく入院させ、お父さんは毎日、仕事の帰りにその子のお見舞いに寄っていました。まだ元気そうに見えていたころは、「太郎君、早く元気になって帰ろうね」「太郎君、頑張れよ」と声をかけていましたが、日に日にやつれ、見る影もなくやせ細った太郎君には、「太郎君、頑張れよ」とは言えませんでした。「お父さんが、ここにいるよ」としか言えなかったそうです。
あらゆる諸仏法から、「この泥凡夫だけは、どうしようもない」と見放された私たちに、阿弥陀さまは、「私が、いつもここにいますよ」と、「南無阿弥陀仏」とご自身の名前でよびかけてくださっているのです。まさしく親さまの名告りです。
声の仏さまとなられたのは、他力の法義のお手立てということでもあります。
親鸞聖人は、「信心正因(しんじんしょういん)」の法義を明らかにしてくださいましたが、信心は心に起こるものです。心に起こるものに、心のはたらきをさせたら自力になります。心に起こることなのに、心のはたらきをさせない。それが、聞くままが信心となるあり方です。聞くという行為は、先手のよび声があて初めて成立します。これが、他力の信の構造で、阿弥陀さまが、よび声の仏さまとなられた理由です。