お釈迦さまの譬えに、砂浜で手に砂をすくった時、砂浜全部の砂をすべての生物と考えた時、手の中の砂が人間に生まれることのできた者に相当し、さらに、その手の中の砂から、指の爪の上に乗るくらいの割合が、仏法に遭える者だと言われています。
この地球上だけでも想像もできないくらい無数の生物が存在しており、多くの生物の中から人間に生まれ得る確立は、きわめて小さいものと言えるでしょう。そして、その人間の中から仏法に遭える人もまた、さらに稀なものです。
蓮如上人も、『御文章』(大聖世尊の章)に、「まれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり」(『註釈版聖典』1140項)と言われ、「しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり」(『註釈版聖典』1140項)と、遭いがたい弘願の法に遭えたことがいかに稀であるかをおよろこびになっておられます。
客観的確率としても「遭いがたい」み教えなのですが、主観的意味においても、この他力のみ教えは「遭いがたい」のです。
それを『阿弥陀経』には「難信の法」と説かれています。お念仏のみ教えは、異行道とも言われていますから、「易行」なのに何故「難信」なのか、少しわかりにくいかもしれません。
「難信」とされる理由の一つは、「法の尊高をあらわすため」とされています。易かろう悪かろうと思われないように、法義が軽く見られないように「難信」というのです。
二番目の理由として、「自力をいましめるため」と言われています。つまり「他力だから難信なのだ」ということです。「他力」なら「易しい」はずではないのか。ますます訳が分からなくなるかもしれませんね。実は、これは方向性が逆ということです。
手前に引いて開く扉を、いくら力いっぱい押しても開きません。「他力」とは、如来さまから私たちに向って届けられる法義です。向こうからこちらに開いているのに、こちらから一生懸命押そうとしているのが「自力」です。方向性が逆ですから、これでは、いつまでたっても「他力」の法には遭えません。それが「難信の法」で、自力がいかに根深いかということです。その自力が捨たった所が、「遭いがたくして、いま、遭うことを得た」ということでしょう。
私たちは、自分の理性や感性に合ったものだけを受け入れる傾向にありますが、それは自力の土俵です。如来さまから届けられたよび声のままを受け入れるところが、他力の信なのです。