2014年7月 本当の相になる これが 仏の教えの目的である 法語カレンダー解説

201407hougo今月のことばは、暁烏敏(あけがらすはや)師の言葉です。一九三四(昭和九)年、師が五十七歳の時に「教行信証講話」で述べられた言葉です。

暁烏師は一八七七(明治十)年に石川県の真宗大谷派の明達寺に生を受けられ、二十六歳の特に、終生の師となる清沢満之(きよざわまんし)師に遇うことを得て、ともに浩々洞(こうこうどう)を開設し、七十四歳の時には、真宗大谷派の宗務総長の重責を引き受けられました。

私たちが普段用いる言葉使いで「本当の相(すがた)になる」と聞くと、「私の本来のすがた、素直で純真無垢なすがたになること」と思ってしまいそうです。

仏の教えの目的が私の本来のすがた、素直で純真無垢なすがたになることと理解してしまえば、親鸞聖人が開顕された浄土真宗とは大きく異なります。

今月のことばに続けて、

 

本当の道に入らしむるというのが仏の教えの要である。「実相に帰せしめんとなり」、これはよほど味わいがある。

(『魂(いのち)萌ゆ』九〇頁)

 

と暁烏師は述べられています。

 

仏の教えの目的である「本当の相になる」というのは、「本当の道に入らしめる」「実相に帰せしめん」ことと明言されています。

暁烏師の言葉をご縁に、師が仰がれた親鸞聖人のお心をうかがってまいりましょう。

 

 

実相に帰せしめんとなり

 

「実相に帰せしめんとなり」というお言葉は、親鸞聖人の著された『顕浄土教行証文類』「行文類」六字釈の引文に法照禅師の『五会法事讃(ごえほうじさん)』を引いて、

 

それ如来、教を設けたまふに、広略、根(こん)に随(したが)ふ。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙(むじょうじんみょう)の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって、焉(ここ)に仏、願力を事として衆生を度したまふ。

(『註釈版聖典』一七〇~一七一頁、傍線筆者)

 

とあります。現代語でうかがいますと、

 

そもそも、如来が教えを説かれるときには、その相手に応じて、詳細に説かれたり簡略に説かれたりする。

それは、まことのさとりにたどりつかせるためであり、不生不滅の真実のさとりを得たものに、これらの教えを与える必要はない。この念仏三昧は、真実でこの上なく奥深い法門である。阿弥陀仏の四十八願成就の名号をもって、その本願のはたらきにより衆生を救われるのである。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』七六~七七頁、傍線筆者)

 

となっています。「実相に帰せしめん」というお言葉は「まことのさとりにたどりつかせる」ということです。

「実相」という言葉は、信心の念仏者が得る真実の証果について「滅度」「常楽(じょうらく)」「畢竟寂滅(ひきょうじゃくめつ)」「無上涅槃(むじょうねはん)」「無為法身(むいほっしん)」「法性(ほっしょう)」「真如(しんにょ)」「一如(いちにょ)」等とさまざまな名称をもって「証文類」(『註釈版聖典』三〇七頁)に示されています。『唯信紗文意』にも同様に、

 

大涅槃と申すに、その名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。

(『註釈版聖典』七〇九頁)

 

と述べさまざまな名称を並べて、

 

いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。

(『同』七〇九~七一○頁)

 

と示されています。

このように親鸞聖人のお言葉をうかがうと、「実相」とは「真実の証果」「涅槃」のことと説かれています。私たち凡夫の知識や能力では到底理解できない、「無色無形言亡慮絶(ごんもうりょうぜつ)(色もなく、形もなく、言葉も亡じ、慮りも絶えた)」の悟りそのものを指しています。「ことばもたえたり」という悟りを言葉で示そうとするのですから、とても一言で悟りの全てを言い表すことなどできません。ですから、さまざまな名称を並べ挙げることで、語ることのできない悟りの内実を少しでも顕らかにしようとされているのだと言えるでしょう。

「実相に帰せしめん」とは、まことの悟りにたどりつかせる、つまりこの私を悟らしめるということです。親鸞聖人は法性禅師のお言葉を引用されて、この救いは本願名号によると、示してくださったのです。

 

 

真実のない私に如来の真実が

 

浄土真宗という救いは、阿弥陀如来がその本願名号(南無阿弥陀仏)によって、私をこの上ない悟りに入らしめるという救いです。

阿弥陀如来の本願名号は、あらゆるものにこの救いを聞き受けさせ、信ぜしめようということまで成就されています。

この願力によって信ぜしめられたのが浄土真宗のご信心です。これこそ私が悟れるか、迷い続けるかの大きな分岐点なのです。

親鸞聖人が「信文類」を著して真実の信心を開顕してくださったのは、浄土真宗において信心が最も肝要だからでしょう。

親鸞聖人がご信心を明らかにされたなかに、

 

一切の群生海、無始(むし)よりこのかた乃至(ないし)今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心なし、虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし。

(『註釈版聖典』二三一頁』

 

すべての衆生は、はかり知れない昔から今目この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりヘつらうばかりでまことの心がない。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一九六頁)

 

とあります。元来、私のなかには清浄な心、真実な心など一切なかったと明らかにしてくださいました。それと同時に、このような私であることを見通された阿弥陀如来が、

 

如来の至心をもって、諸有の一切煩悩悪業邪智(じゃち)の群生海に回施(えせ)したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。

(『註釈版聖典』二三一~二三二頁)

 

如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。この至心は如来より与えられた真実心をあらわすのである。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一九七頁)

 

と示して、真実の心など持ち合わせていなかった私に、阿弥陀如来の真実の心を施し与えられたのだと示されているのです。

阿弥陀如来の本願名号によって、実相に帰せしめるということは、真実のなかったこの私に真実を与え、必ずこの上ない悟りの仏に成らしめるということとうかがえます。

真実がない私に真実が与えられる。それはいま迷いのなかにありながら、迷いになど何も気づくこともなく、このまま迷いを続け、さらに深い苦しみへと向かう以外になかった私に、自らが迷いの存在であることを決定的に知らしめられることです。そして、同時にそんな私を必ず悟らしめるという、阿弥陀如来の本願名号が届いていることを決定的に知らしめられることです。

 

 

安心の迷子

 

娘を遊園地に連れて行った時のことです。多くの人で混雑するなか、娘は楽しいことに目を奪われて、あっという間に親とはぐれて迷子になりました。

迷子になって泣きじゃくっている娘をなんとか見つけたして「迷子になったらお土産物屋さんにいなさい。お父さんとお母さんが必ず見つけてあげるから」そう言ってなだめました。

その後は一日楽しく遊んで、そろそろ帰る時間が迫ってきます。娘はまだまだ遊びたくて元気にはしゃいでいます。すると、また迷子になってしまいました。

帰る時に親とはぐれたら、家に連れて帰れなくなるかも……と心配して探し回りました。

いました! どこにいたと思います?

また泣きじゃくっているのかと思ったら、お店で、どれを買ってもらおうかと目を輝かして、お土産を選んでいたんです。

「迷子になってはぐれてしまって、心配してたのに、何してるの!」

ちょっと叱るように言うと娘は、

「迷子になったから、お土産見てた」

二コ二コ笑いながら言うのです。

最初に迷子になった時は泣きじゃくるしかありませんでした。しかし、「迷子になったらお店でお土産を見てなさい。かならずお父さん、お母さんが見つけ出して連れて帰ってあげるから」と既に聞いていた娘は、自分が迷子であることを知っていながら、何の心配もなく、二コ二コと楽しんでいたのです。

迷子は迷子でも安心の迷子だったのです。

阿弥陀如来の本願名号、その救いを聞き信じる念仏者は、自身が迷いの存在であることを決定的に信知せしめられています。しかし同時に、阿弥陀如来の本願は、この私を必ず命終に浄土に往生させ、この上ない悟りに至らせるということを、決定的に信知せしめられています。

本願名号によって実相に帰せしめられる。そこには、迷いの中に、迷いの存在であることを知らされつつ、何か起ころうとも、どのようなことになろうとも、もはや何ものにも揺るがされない大きな安心が与えられていたのです。

(葛野洋明)

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