2014年8月 拝まない者もおがまれている 拝まないときもおがまれている 法語カレンダー解説

hougo201408今月のことばは、東井義雄(とういよしお)先生の言葉です。自由詩というスタイルには、東井先生が感じられ味わっていらっしゃった思いを、その時々のライブ感をもって綴られています。ですから、読むもの聞くもののこころにありありと伝わってくるのでしょう。

この言葉が収載された『東井義雄詩集』の「あとがき」に、大きな手術を終えて「恐らくこれが私の最後の本ということになるだろう」(『同』二九九頁)とありました。そんな詩集に『「老」いを生きる詩』が綴られています。そのなかの「墓そうじ」と題した三編の詩に出てくる言葉です。

 

墓そうじ

毎年/半日で済ませた墓そうじであるのに/きょうはこれで 二日目/
十時を過ぎると/おてんとうさまも 燃えてこられる/
「無理をしないで/もう下りてきてください」/
屋敷の草とりをしてくれている腰の曲がった老妻が/見上げていてくれる/
憶わぬさきから/憶われていた 私/
拝まない者も/おがまれている/
拝まないときも/おがまれている/
すみません/南無阿彌陀佛

(『東井義雄詩集』 一六六~一六七頁)

 

とあります。

東井先生が「白分のいのちのひとかけら」と大切にされたこの詩を、一面的な味わいで紹介などするべきではないでしょう。この詩を目にした一人ひとりが、それぞれに味わうべきこと思います。

先生の感じていらっしゃった深いお心を、全て味わうことができなくても、ここには、日頃とはかけ離れた、正反対のまなざしがあることは一目瞭然、誰もが感じるのではないでしょうか。

 

 

阿弥陀如来のまなざし

 

日頃とかけ離れた正反対のまなざし。それは単に、その時その時の出来事を、奇をてらって、他人が持ち得なかったまなざしで語ったというようなものではありません。

この『「老」いを生きる詩』には、六十七編の詩が綴られていて、その多くが「南無阿彌陀佛」と結ばれています。

日頃とかけ離れた正反対のまなざしとは、私たちが日頃は思いもしない、阿弥陀如来のまなざしだったのではないでしょうか。東井先生の言葉をご縁として、「阿弥陀如来のまなざし」ということを味わってみたいと思います。

 

 

阿弥陀如来の「誓願」

 

阿弥陀如来は、迷いの私を救おうと、願いを発(おこ)されたと『仏説無量寿経』(『大経』)に説かれています。

「願い」という言葉を、私たちのレベルで考えると、「○○したい」「お願いします」という希望や欲求と一緒に感じてしまいそうです。

阿弥陀如来の願いは、私たちが普段よく使う「お願い」などとは、まったく違います。

浄土真宗でよくお勤めされる「正信偈」に、

 

建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん) 超発希有大弘誓(ちょうほつけうだいぐぜい)

(無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)を建立(こんりゅう)し、希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。 『註釈版聖典』二〇三頁)

 

この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一四三頁)

 

とあります。

「無上殊勝の願」とは、「この上なくすぐれた願」とありますが、続いての「希有の大弘誓」とは、「世にもまれな大いなる誓い」と訳してあります。

阿弥陀さまのご本願は、単なる願いではなく「誓い」であるのです。このことは本願文の英訳からもうかがうことができます。

阿弥陀如来が建てられた四十八の誓願は、全て「設我得仏(せつがとくぶつ)」から始まります。この四字は「たといわれ仏を得たらんに」と読みますが、これは単に「もし私が仏になれたら……」という仮定の話ではありません。『浄土三部経(現代語版)には「私が仏になるとき」。『英訳親鸞聖人著作集』では「If,when attain Buddhahood,(もし私が仏陀の境地に至るとき)」と訳されています。いずれも「もし仏になれたら……」という単なる仮定の話などとはしていないのです。

阿弥陀如来は「私が仏になるとき」と始めて、必ず救う、もし浄土に往生させることができないならば、決して仏に成らないと誓われたのです。

 

 

誓いの目当て

 

阿弥陀如来の誓いを示した本願文には「十方衆生(じっぽうしゅじょう)」とあり、その誓いが成就したことを明示する本願成就文には「諸有衆生(しょうしゅじょう)」とあります。「衆生」とは多くの縁によって生をいただいているもの(衆縁所生)、また多くの生死をくりかえしている迷いのもの(衆多生死)の意です。

つまり阿弥陀如来の誓いは、いのちある迷いのもの全てを救うと誓われたのです。

しかし、本願文にもその本願が成就されたと明示する本願成就文のどちらにも、「唯除五逆誹誇正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」というお言葉があります。

五逆といわれる大きな罪を作ったり、正法を誹謗する「誹謗のもの」は救いから除くと誓われています。

あらゆる迷いのいのちを救うと誓われた阿弥陀如来の本願に、救いから除外されるものがあるというのです。この「唯除」の一文は、抑止と摂取の二つの見方で解釈されてきた誓いの目当てが味わえる箇所です。「唯除」に込められた阿弥陀如来の心を聞くと、正に醍醐味を味わうことができるのです。

 

 

誓いの正(まさ)しき目当て

 

親鸞聖人は、この「唯除」の一文を『尊号真像銘文』に釈されて、その深い仏意を明かしてくださいました。

 

「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

(『註釈版聖典』六四四頁)

 

  「唯除」というのは「ただ除く」という言葉であり、五逆の罪を犯す人を嫌い、仏法を謗(そし)る罪の重いことを知らせようとしているのである。この二つの罪の重いことを示して、すべての世界のあらゆるものがみなもれることなく往生できるということを知らせようとしているのである。

(『尊号真像銘文(現代語版)』六頁)

 

阿弥陀如来の本願成就文にある「唯除」という一文は、逆誇のものを救いから除くという意味で、除くということによって、あらゆるものが往生できることを知らせていると釈されています。

「除く」は「救う」ことを知らせるというのです。

 

 

通り抜け禁止

 

川柳に「通り抜け無用で通り抜けが知れ」というのがあるそうです。

「通り抜け禁止」と明示することでかえって、ここは通り抜けられると教えているという句です。

除くと示すことで、救う道がここにあることを明らかにするのと、通じるところがあるような気がします。

しかし、川柳と阿弥陀如来の誓いは全く同じということではありません。

確かに除くということで救いを明らかにすることは川柳とも通じるようですが、救いの道があるからといって逆謗のままで良いとは決してならないのです。

誹謗正法のものとは、正法を誹謗するものです。しかし、仏法を誹謗中傷するようなことだけではありません。「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」(『註釈版聖典』二九八頁)と考えるもののことです。仏などいやしない。仏法なんてない。菩薩も菩薩の法もないと考えるもののことです。

 

 

謗法のものとは私のこと

 

謗法のものとは誰のことを言っているのでしょうか。

これは私自身のことです。

さまざまな仏縁がありながら、阿弥陀如来やその救いが、本当にこの私を救う法であることなどとは、ちっとも思わずに生きてきました。

この私は現在、悟りの一分も開いていない迷いの存在です。いや迷いであることも知らずに生きてきた本当の迷いの存在です。現在、私か迷いの存在であるということは、あらゆるものを救うと誓った阿弥陀如来でしたが、その救いから、実際に除かれてきた証拠です。

では阿弥陀如来は謗法である私を救わずに知らん顔していたのでしょうか。いや、「謗法である限り、迷いから出て離れることはできない、また苦悩を深めていくだけだ、正法を謗ることはしてはならない」と抑え止めてくださっていたのです。

「謗法のものは除く」という誓いの言葉は、単なる抑え止めるというだけではありません。迷っていることにも気づかずにそのまま謗法を続けている私に、正法を誹謗しているということを知らしめているのです。そして「謗法の心を翻(ひるがえ)し、阿弥陀如来の誓いを自らの救いと聞き受けて、回心せよ。必ず救う」と、強烈に回心を迫り、信心獲得によって皆往生できることを明確に示す仏意が込められていたのです。

 

 

強く大きなおはたらき

 

阿弥陀如来は、単なる願いではなく誓いを建てられました。「救う用意は全て調えた。必ず救う南無阿弥陀仏と成就した。なのに生まれてきたそのまま、阿弥陀如来の本願名号を自らの救いと聞き受けなければ、また救いから除かれてしまう。必ず必ず回心せしめてみせる」と、永らく謗法を続けてきたこの私に、強烈に回心を迫り続けてきました。

その甲斐あって、いまこの阿弥陀如来の誓いを、私の救いと聞きよろこぶことができたのです。

如来のまなざしは、誠に強く大きなおはたらきでした。

(葛野洋明)

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