2014年9月 お念仏は 讃嘆であり 懺悔である 法語カレンダー解説

201409今月のことばは、金子大榮(だいえい)師のことばです。

 

一八八一(明治十四)年に新潟に生まれられた金子大榮師は、真宗大谷派の最高の学階である講師で、大谷大学の名誉教授です。金子師の初めての対話集である『金子大榮対話集』に、金子先生と東京大学名誉教授の武藤義一先生との対談が「悲しみの心・喜びの心」と題して収録されています。

 

その中で「お念仏は讃嘆(さんだん)であり、懺悔(さんげ)であるということがあります」と語られ、その内容を、

 

久遠劫来迷うてきた、いま初めての迷いではないというようなことはみな懺悔の言葉である。そして弥陀の本願というものがあって、それに遇うことができたという喜びが讃嘆になっている。そういうふうな立体的なものである。

(『金子大榮対話集』二六六頁)

 

と述べられています。

 

お念仏が讃嘆であり懺悔であるという意を示すお言葉が、親鸞聖人のお聖教のなかにあります。

 

親鸞聖人のお言葉をうかがってまいりましょう。

 

 

親鸞聖人のお言葉

 

『尊号真像銘文』に、

 

「称仏六字(しょうぶつろくじ)」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏(そくたんぶつ)」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり。

また「即懺悔(そくさんげ)」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始(むし)よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。

(『註釈版聖典』六五五頁)

 

とあります。

 

阿弥陀如来の本願の救いを聞き受けた、信心の念仏者が一声称える称名念仏は、阿弥陀如来の全ての徳を実の如くに讃嘆することになるといい、久しく遠い昔からの自らの造ってきた迷いの因である罪を懺悔していることになるというのです。

 

ここに述べられている「ほめたてまつるになるとなり」「懺悔するになる」という表現に大きな意味があります。

 

 

讃嘆のこころ

 

「讃嘆」は「ほめるたたえる」ということです。 『仏説無量寿経』(『大経』)に説かれた「諸仏称名の願」と呼ばれる第十七願の成就文に、

 

十方恒沙(じっぽうごうじゃ)の諸仏如来(しょぶつにょらい)は、みなともに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の威神功徳(いじんくどく)の不可思議なるを讃歎したまふ。

 (『註釈版聖典』四一頁)

 

とあって、諸仏が阿弥陀如来のはかり知ることができないすぐれた功徳をほめたたえると説かれています。

 

「ほめる」というのは、簡単なことのようですが、実はとても難しいことです。なぜなら、本当にほめることができるのは、阿弥陀如来の威神功徳不可思議なることを、その通りに知らなければなりません。

 

相手を知らずにほめるならば、ほめ足りないか、もしくはほめ過ぎてただの「お世辞」「おべんちゃら」となってしまいます。

 

阿弥陀如来の功徳を如実に知って、その通り讃嘆できるのは、悟りを開いた仏陀でなければ成し得ないのです。ですからこの第十七願では悟りを開いた諸仏が、阿弥陀如来を讃嘆すると誓われてあるのです。

 

さて、天親菩薩は『浄土論』において阿弥陀如来の浄土に往生するための行として説いた「五念門(ごねんもん)」の一つとして「讃嘆」を挙げています。

 

五念門とは「礼拝」「讃嘆」「作願(さがん)」「観察(かんざつ)」「回向(えこう)」の五つで、身に阿弥陀如来を礼拝し、口に阿弥陀如来の名を称えてその功徳を讃嘆し、心に阿弥陀如来の浄土への往生を願い、阿弥陀如来の浄土と仏・菩薩を思い浮かべ、自ら得た功徳を他の衆生に回し向けるということです。前の四つは自らを利益する自利を、最後の一つは他を利する利他を成就し、五念門をもって自利利他成就して悟りを開くと説かれていました。

 

これを承けた曇鸞大師は、五念門を修して速やかに悟りを得ることができるのは、阿弥陀如来の本願力、つまり他力によるからであると明らかにしました。

 

親鸞聖人は天親菩薩、曇鸞大師の教えを通して、これらの五種の修行は、浄土に往生し悟りを得ようとする念仏者が修めるのではなく、阿弥陀如来が自ら修したことと説かれました。

 

親鸞聖人の『入出二門偈頌(にゅうしゅつにもんげじゅ)』というお聖教には「願力成就を五念と名づく」(『註釈版聖典』五四八頁)と示して、阿弥陀如来の本願力が成就したことを、この五念門というと明らかにされています。

 

 

信心と五念門

 

もともと五念門を説かれた天親菩薩は、その著『浄土論』の冒頭に、

 

世尊(せそん)、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。

(『註釈版聖典(七祖編)』二九頁)

 

と示して、疑い心なく、二心なく「一心」に阿弥陀如来の浄土に往生することを願うと説き、それは五念門を修することで阿弥陀如来の浄土に往生することができると説いたのです。

 

これを承けた親鸞聖人は、信心を「証大涅槃の真因」(『同』二一一頁)と示し、自利利他成就した大涅槃を証する真の因であると説かれました。それは、阿弥陀如来が本願の救いを疑い心なく二心なく一心に信受せしめた信心に、阿弥陀如来が行じた五念門の功徳が具わっており、五念門によって得る自利利他の功徳が具わっているからでした。

 

このように「一心」といわれる信心に「五念」の徳が具わっているのですから、その信心を獲得した念仏者の相に、五念門の一つひとつが発(おこ)ってくる可能性があるのです。

 

このことは親鸞聖人が「真実の信心はかならず名号を具す」(『註釈版聖典』二四五頁)と示して、真実の信心には必ず名号を称えるという称名を伴うと明らかにされていることからもうかがえます。

 

もちろん信心を獲得した時に往生成仏に正しく定まった「正定聚」の身と成ったといっても、悟りの一分も開いていない凡夫であり続けることは事実です。その有り様はさまざまですから、画一的な相が発るというわけではありません。

 

しかし本来ならば、阿弥陀如来を私を救う仏とも思わず、千を合わせて礼拝することもしなかった私。まして口にお念仏を称えて、そのはたらきをほめたたえることかとするはずもなかった私が、今、阿弥陀如来を礼拝し、称名念仏しているのです。これは阿弥陀如来によって、五念門の徳が具わったご信心を賜ったからと言わずにおれません。

 

まさに阿弥陀如来が本願を信ぜしめ、念仏を称えせしめたのです。その信心の念仏者の称名念仏は、釈尊が『大経』を説いて阿弥陀如来の功徳を如実に讃嘆したのと等しいと言ってもいいのです。

 

凡夫の私が称えたことが等しいのではありません。信ぜしめられ、称えせしめられた念仏ですから、阿弥陀如来を如実に讃嘆したことになっていると、信心の利益として説かれているのです。

 

『尊号真像銘文』の「ほめたてまつるになるとなり」という表現はまさにそのことを示していたのです。

 

 

懺悔のこころ

 

『尊号真像銘文』に「懺悔するになる」と説かれたのはどのような深い意があるのでしょうか。

 

お説教をお聴聞させていただくと、「煩悩成就の凡夫」であるとか「罪悪深重」などと耳にすることが多くあります。

 

  まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷むべしと。

(『註釈版聖典』二六六頁)

 

という親鸞聖人のご述懐のお言葉はまさに厳しいお言葉とお聞きします。悲しいことに、深い欲に沈み、名誉欲や利益を貪る心に惑い迷わされ、往生・成仏が定まった聚(なかす)に入り、さとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥ずかしく、嘆かわしいことと述懐されています。

 

ここで「悲しきかな」「恥ずべし、傷むべし」と述懐されていますが、これは単に卑下して述べられた言葉ではありません。この一文は、本願を信ぜしめられるところには、「真の仏弟子」となり、釈尊からは泥に染まらない白い蓮「分陀利華」と名付けられ、それを承けた善導大師は、念仏を相続する人をきわめてまれな尊い人「妙好人」であると説かれていると、自らが救われたよろこびを詳しく述べた後に続いて、記されているのです。

 

つまりここで悲しいと述懐されているのは、阿弥陀如来の救いに出遇うことができた上での述懐ということです。自らが「煩悩成就の凡夫」という迷いの存在であることは、自らが省みて見えるものではありません。

 

自己反省は、自分で自分を省みることです。いくら深く自己反省をしても、省みている自己白身は誰にも省みられていないのです。

 

親鸞聖人が「悲しい」と述懐されたお言葉は、阿弥陀如来の救いの光に照らされて、自己白身の影が初めてありありと知らされたから、言い得たお言葉なのです。

 

夕陽を背にして家路につくとき、目の前には黒々とした大きな影が現れます。自分より大きく、真っ黒な影がありありと見えています。しかしその影が見えているということは、夕陽に同時に照らされているのです。

 

いまここで「悲しきかな」と言い得ているということは、阿弥陀如来の本願に出遇い、その救いの光に照らされているから言い得た、よろこびの言葉でもあったのです。

 

懺悔する心、それは私の中からはでてきません。阿弥陀如来の救いに照らされ、本願を信ぜしめられ、自らの本性が知らしめられ、懺悔することになるのです。

 

阿弥陀如来を讃嘆することも、自らの至らなさ愚かさを懺悔することも、ともに阿弥陀如来の救いの利益によるものだったのです。

(葛野洋明)

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