二〇一四(平成二十六)年の法語カレンダーは、前年に続いて「智慧と慈悲」をテーマとしています。仏法に出遇い、真実の道を歩むということは、如来の真実の智慧に照らされ大慈悲のはたらきにつつまれてこそ、生まれてくるといえるでしょう。
とりわけ、現代は、科学技術のあまりにも急速な進歩、発展に浴して便利か生活を送ることができるようになり、人間の願いや欲望を大いに満喫しているように見えるのですが、それだけなお一層、人間の自己中心的な生き方が強くなり、かえって争いや葛藤が増大し、ますます混迷の渦が深まっているように思われます。
釈尊以来、「人生は苦なり」と説かれていますが、「生死」の姿、すなわち、生まれてきて必ず死んでいくのだということを知識としては知りつつも、この「生死の問題」を先へ先へと追いやって、「生死出づべき道」を求める心が希薄になっているのが、この私も含めて、現代人の姿であるように思われます。そのような愚かな存在として、真実に目覚められた釈尊のみ教え、あらゆる衆生を「生死出づべき道」に導き救い取ろうとしてくださっている如来の智慧と慈悲に照らされてこそ、仏法に出遇った本当の生き方ができることになる、そのようにうかがわれるのです。
このような意味から、本年の法語カレンダーのテーマを、前年に続いて「智慧と慈悲」とし、先人のおことばを法語にいただいて、真実の智慧と慈悲に照らされるご縁とさせていただきたいと願っております。
称名―み名を聞く
表紙に、足利浄圓師のおことばをいただきました。
称名とは、 み名を 聞くことであります
(『親鸞に出遇った人びと3』 」四九頁)
「称名」というのは、「称名念仏」といわれるように、直接には、阿弥陀さまの呼び名である名号を「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と称えることです。それは、『無量寿経』に説かれるように、「迷いのなかにあるあらゆる生きとし生けるものを真実の世界・浄土に救わずにはおかぬ」と誓われたご本願を完成されて、無量寿・無量光である阿弥陀如来となられ、いま現にはたらいてくださっています。その本願力につつまれて、報謝のこころから「南無阿弥陀仏」と称えることになる、ということであります。
親鸞聖人は、この「称名」について丁寧な説明を施しておられます、その意味をまずうかがうことにしましょう。聖人が八十五歳の時に書き記された『一念多念文意』に善導大師の『往生礼讃』のご文を引かれて、「称名」について説明されているのです。そのご文には、次のように記されています。
・・・・・「称」は御(み)なをとなふるとなり。また「称」ははかりといふこころなり。
はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声(とこえ)・一声(ひとこえ)、きくひと(名号のはたらきを聞く人)、疑ふこころ一念もなければ、実報土(じっぽうど)へ生(うま)ると申すこころなり。
(『註釈版聖典』六九四頁、カッコ内は筆者記入)
その現代語版には、このご文が次のように訳されています。
「称」は阿弥陀仏のみ名を称えるということである。また「称」の字には、「はかり」という意味もある。「はかり」というのは、ものごとの程度をそのままに定めることである。名号を称えることがわずか十声や一声のものや、ただ名号を聞いて信じるものであっても、少しも本願を疑う心がないので、真実の浄土へ生れるという意味である。
(二念多念文意(現代語版)』三九頁)
すなわち、「称名」とは、阿弥陀仏の名号を称えることである、その「称」には「はかり」という意味があり、ものの軽重を知る秤のように、ものの重さをそのままに定めるという意味があるといわれます。そのように説明されて、他力の称名が、「南無阿弥陀仏」という如来の名号のいわれの通りにそのままに、生きとし生ける衆生を往生成仏させる徳のあるものであることを示されるもので、衆生の往生成仏を定めるはたらきをもつものであることを意味しているとうかがわれます。また実際、「称」は、「称讃」とも言われるように、本来「たたえる」「ほめる」また「〔目方などを〕はかる」という意味であることが、国語辞典などにも示されています。聖人の説明は、まさに「称」の意味を踏まえて、「称名」を解説され、「名号を称える」という意義を明確に示してくださっているのです。名号の徳、そのおはたらきあることをそのとおりに受けとめて称えるのが「称名念仏」であり、この「私」の元では、したがって報恩のお念仏ということになる、と言い換えることができるでしょう。
「聞名」の宗教
さらに、足利浄圓師は、この称名の意義を深く受けとめられて、称名念仏することが、そのまま「み名を聞くことである」と示されたのです。浄圓師は、二十五歳で開教使としてアメリカにわたりカリフォルニアとハワイーホノルル本願寺で伝道に努められた後、帰国してからさらに宗学の研譜を積まれ、同朋舎を設立して仏教書の出版にも力を注ぎ、ついにはご自宅を法座「自照会」の会場に、さらに自照舎もご自宅に移して、仏法響流(こうる)に邁進された奇瑞の仏法者でありました。多く仏法愛楽のエッセー集を残されましたが、その一つに、「み名を聞くこと」について、その意味を、次のように述べておられます。
親鸞聖人の宗教は聞名(もんみょう)の宗教であります。称名はみ名を聞くことであります。念仏とはみ名を聞くことであります。称名念仏とは口を動かして懸命になって努力している心に価値があるのでなく、謹んでみ名において打ちあけられてある如来の御心を聞くことであります。称えるのでなく如来の真実の、自分を喚びさましてくださる御声を、そのまんま聞くところに浄土真宗の全体があり、親鸞聖人の宗教のありたけがあります。聖人の宗教は、この真実に自分を喚びさましてくださる御声を、み名において聞くだけであります。このほかに別に不思議も神秘もないのであります。
(「一樹の蔭」『親鸞に出遇った人びと3』 一四九頁)
ここに、親鸞聖人の示されたみ教えのかなめが「聞信」にあり「聞名」にあることが明確に示され、称名念仏もまた、報恩のこころの中に、如来のお心を聞かせていただくことがそのかなめとなっていることを示されているといただくことができるでしょう。
「私」にまで流れ出るお念仏
まさに「称名念仏」は、阿弥陀如来の本願のはたらきそのものであり、阿弥陀如来が私の口元にはたらいてくださっている、といただくことができるでしょう。そのお念仏のはたらきについて、浄圓師は、次のようなお言葉を示しておられます。
過ぎし過去の記憶をたどり、自分のこれまで歩んできた足跡を見つめて、危険な綱渡りに冷汗を覚ゆるようなことがある。また自分が現在やっていることで、よしそれを懸命になってやっていることでも、お浄土まで続くような価値のあるものでないことを見たとき、やるせなき果(はか)なさを感じる。そうした場合きっと私の口からお念仏が流れでる。私の生活においてあらゆる場合、その帰結としてお念仏が飛び出してくるのである。
私はよくこのお念仏は、何処から流れてきたものか、ということが思われるのである。一応考えると、私の育てられた家の中にお念仏申す習慣があったから、私は知らず識らずのうちに、こうした習慣になったのであるとも思われる。然し私の家のこの習慣は、何処から流れてきたかと、過去へ過去へとさかのぼって考えて行くと、私の申しているお念仏が、蓮如上人や親鸞聖人の申されたお念仏につながりをもっていることが思われる。またこのお念仏が法然聖人、源信僧都、善導大師、道緯禅師、曇鸞大師、天親菩薩、龍樹菩薩、大聖釈尊へとつながりをもっていることが思われる。もっと深く逆行して見ると阿弥陀如来の御心につながっているのである。
その御心から流れ出ている奇(く)しきお念仏は、また何処まで流れるのかと、そのゆくてをながむると、末ついに如来の御むねに流れこんでいるようである。人間の流れにむすぼれて如来の流れがあるのか、如来の流れにむすぼれて人間の流れがあるのか、この二つの流れが一如のお念仏となりて、人間の口から無限の生命として湧出している。そしてこれは、吾等をして無上仏の権威をもたせんために、如来のお心づくしから、真実土に通ずる唯一の道として開いてくださった、真実の流れであることが思われる。
(「一河の流」『親鸞に出遇った人びと3』 一五二頁)
「称名念仏する私」の口元に、阿弥陀如来の御心へのつながりがある、それは、「如来の願心は、われらの上に拝む手となり、称える口となり、憶念の心となりて、顕るるもの」(「続一樹の蔭」『親鸞に出遇った人びと3』 一五七頁)といわれる通りの、阿弥陀如来のおはたらきそのものであるということを、ここにお示しくださっているとうかがうのです。
(佐々木恵精)