南無阿弥陀仏の喚び声
九月といえばお彼岸です。日中はまだまだきびしく照りつける太陽も、夕刻にはやわらかな光となって、真西に静かに沈んでいきます。先人たちも壮年期には、まるで日中の太陽のごとく精力的に時代をなしていかれましたが、晩年には夕日のようなやわらかさをたたえて、真西の方角にあるお浄土へと旅立っていかれました。
そして私たちもやがてそこに生まれさせていただきます。私たちにとってお彼岸とは、真西のお浄土を仰いでいく大切な時間なのです。
さて今月の言葉は、真宗大谷派の正親含英氏の言葉です。浄土真宗の真髄を伝える素晴らしい言葉であり、また氏のご法義に対する真剣な迫力を感じさせる言葉でもあります。なるほど、氏の仰せの通りですね。阿弥陀さまはお浄土にいて、私たちが来るのをただ待っている如来さまではありません。私を心配して立ち上がり、私の所にやってこられたのです。そしてどれはどの時間がかかろうとも私を念仏する者へと育て上げ、煩悩を抱えたまま浄土へと導いてくださる方です。そのことを告げるのが「南無阿弥陀仏」の喚び声なのです。
「南無阿弥陀仏」とは、一般的には「阿弥陀仏に南無します」、すなわち「阿弥陀さまにおまかせします」という意味で理解します。しかしそれが喚び声だというのなら、「阿弥陀仏に南無せよ」と聞こえてきます。それは「私(阿弥陀仏)にまかせなさい(南無)」と聞こえているのです。親鸞さまはその声こそ、私の人生すべてを包み込むあたたかい如来さまの名告りなのであり、その名告りがあったからこそ、私は「阿弥陀さまにおまかせしまず」とお念仏するように育てられたのであると教えてくださいました。
愛に二つあり
ところで愛という言葉があります。ちまたでは「愛しています」「愛がないね」などと、とにかく愛という言葉が溢れかえっています。私も実は、そういう言葉を言ったことがないわけではありません。しかしながら仏教では「愛」と言っても、「渇愛」と「慈愛」との二つに分けて考えます。つまり愛なら何でもいいというわけではない、というのです。この辺が仏教のおもしろいところです。
この「渇愛」とは、あたかも喉が渇けば水を求めていくように、自分で勝手に好きと嫌いを描き出し、「ああなりたい」「こうしてほしい」などと、常に相手に渇望し続けるような在り方であり、これは執着と同じ意味です。つまり愛とは言ってもいつも自分が中心なのであり、いわば愛という名の煩悩だといえます。
一方で「慈愛」とは「慈」を「いつくしむ」と訓むように、相手を思いやり大切にする愛情のことで、こちらの場合はどこまでも相手が中心なのであり、これはさとりの慈悲のことです。では私たちが起こす愛情はどちらでしょうか、と尋ねられれば、お察しの通り、ほとんどが渇愛です。相手に何かをしてあげても、それが別にほめてもらうつもりでしたわけではなくても、しだいに心には打算がちらつきます。そして相手が知らん顔をしているとなると、「お礼の二回もない」と憤慨する始末です。
しかし問題なのは、私たちに慈愛はないのかということです。確かにほとんど渇愛だけれど、時にはほんのかすかな慈愛もあるのではと思う方もおられるのではないでしょうか。
看病疲れをとおして
私には、十年前に亡くなった叔父がいます。叔父は外科医でした。まじめで、あまり多くを話さず、ひたすらはたらき続けた方であり、自慢の叔父でした。ある時、その叔父が「看病疲れってわかるか」と私に話しかけ、こんな話をしてくれました。叔父の専門は肝臓で、手術してよくなる方もおられますが、一方で亡くなる方も少なくありません。そんな中、入院しているおばあちゃんをとても献身的に看病するひとりの女性がいたそうです。その方はいわゆる「長男の嫁」だったそうですが、日々、何人も同じような方を見ている中で、その女性の姿はとても印象的だったそうです。
しかし、おばあさんは数力月の入院の末に亡くなり、ご家族が最後に叔父へお礼を言いにこられたそうです。その時、叔父はふとその女性に、普段は決してそういうことをいうタイプではないのですが、「よく頑張っておられましたね」といったことを告げたそうです。すると、その女性が病室の後片付けを終えると再びやってこられて、こう言われたそうです。
先生。……さっき私の看病のことを言っていただきましたけど、本当に清らかな気持ちでお義母さんのことを思って動いてたんは、せいぜいはじめの二ヵ月くらいなんです。あとはだんだんこっちもしんどくなってきて、私はいつも、「お義母さん、いつまで生きるんかなあ」と思ってばっかりでした。
泣きながらの告白だったそうです。叔父がしみじみと話してくれたのでした。
清らかな思いではしめた看病が、やがてお義母さんの死を願うようになる。これは言葉を換えれば、この女性の慈愛は、最終的に渇愛へと変貌をとげてしまったといえるのではないでしょうか。しかし私たちはこの話を聞いて、この女性をひどい人だと非難することができるでしょうか。できないはずです。なぜならこの話には人間である以上、誰も否定できない真実があるからです。
我々にだって清らかな思いは確かにあります。しかしそれはこの女性のようにかならず渇愛へと変貌を遂げていきます。では、どういった時にその気持ちは変貌を遂げ始めるのでしょうか。それは自分の体力の限界です。自分の体力が限界に達したとき、隠しきれない自己愛が、相手を思う清らかな気持ちを、いとも簡単に塗りつぶしてしまうのです。善導大師さまは、この人間の生き様を、
たとひ清心(しょうしん)を発(おこ)せども、なほ水に画(えが)くがごとし
(『註釈版聖典(七祖篇)』三四〇頁)
とおっしゃいました。清らかな心を発しても、水に絵を画くように、画いたはしから消えていくのだと。私たちは悲しいけれども、こうした生き方しかできない生き物なのです。
他力のお念仏
比叡山時代の親鸞さまほど、このことを日々経験しては直視され、苦悶され続けた方はいないかもしれません。「もう少し頑張れば道が開けるのだろうか」「いや別の道があるのではないだろうか」。親鸞さまの葛藤は続き、やがてその「別の道」というのは、法然聖人という方の仏道ではないだろうかと思うようになっていったようです。そして葛藤の結論を、尊崇してやまない聖徳太子にゆだねるべく六角堂へ参龍し、結果、親鸞さまは法然さまのもとで本当の阿弥陀さまに出遇われたのです。
よくご存じの「正信念仏偶」に次の言葉があります。
已能(いのう)雖破(すいは)無明闇(むみょうあん)
貪愛(とんない)瞋憎(しんぞう)之(し)雲霧(うんむ)
常覆(じょうふ)真実(しんじつ)信人天(しんじんてん)
譬如(ひにょ)日光(にっこう)覆(ふ)雲霧(うんむ)
雲霧(うんむ)之(し)下(げ)明(みょう)無闇(むあん)
すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。
(『註釈版聖典』二〇四頁)
親鸞さまはこの部分を『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』という書物ではご自身で解釈されて、
日月(にちがつ)の雲霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり
(太陽や月が雲や霧におおわれていても、闇は晴れて雲や霧の下が明るいように、貪りや怒りの雲や霧に信心がおおわれていても、往生のさまたげになることはないと知るがよいというのである)
(『註釈版聖典』六七三頁)
と言われています。つまり阿弥陀さまとは、決して煩悩を無くすことで救いとするのではなく、煩悩があっても「往生にさはりあるべからず」、つまりすなわち救いのさまたげにはならないと告げていく如来さまであるというのです。これこそ親鸞さまにとっての「救い」でした。それはどうしても「渇愛」を消せずに苦しむ者に、そのまま救うという不可思議の救いを与えていく完全なる「慈愛」にみちた他力の教えだったのでした。
煩悩のあるままに救うということは、私か優しい気持ちの時でも、誰かに怒っている時でも、誰かに親切な時でも、意地悪な時でも、笑っている時でも、泣いている時でも、どんな時であっても、私に寄り添い、決して見捨てない阿弥陀仏さまだということです。まさに煩悩の嵐のような私の人生に、お念仏の喚び声が聞こえてくるとき、そのような尊い如来さまに私たちは出遇っていくのです。
今月の言葉を、いま一度昧わってみてください。
(井上見淳)