2015年12月 生活の中で念仏するのではなく念仏の上に生活がいとなまれる 法語カレンダー解説

hougo201512価値判断の基準はどこ?

 

今月の法語は、和田稠氏の著書『信の回復』(東本願寺出版部)からいただいています。和田氏は石川県生まれ、真宗大谷派浄泉寺住職、石川県立大聖寺高校の校長などを歴任され、二〇〇六(平成十八)年にご往生されました。

 

この法語で示されているのは、まず何か価値の基準になっているのか、ということです。

 

法語の中で誡められている「生活の中で念仏」というあり方は、生活の論理を前提とし、その上で念仏申すすがたです。生活が主であり、念仏申すことは従です。

 

生活によってお念仏が左右されることはありますが、お念仏によって生活が問われることはありません。つまり価値判断の基準は生活にある、と言うことができます。

 

一方、勧められている「念仏の上に生活かいとなまれる」あり方とは、お念仏を前提とし、その上で生活していくすがかです。お念仏加主であり、生活が従です。私たちの生活は、お念仏によって問われ続けます。つまり、価値判断の基準はお念仏にある、と言うことができます。

 

これはたとえて言うならば、趣味としてスポーツを行う人の生活と、プロスポーツ選手の生活との違いです。

 

趣味の人は、生活の許す範囲でスポーツをします。時間や費用などは、生活に支障が出ない範囲であることが原則でしょう。つまり最終的な価値基準は生活にあり、生活を乱す場合は、あきらめることもあり得ます。あくまで生活が主であり、趣味は従であると言えます。

 

一方プロスポーツ選手は、自らのプレーが万全になっていくように生活を組み立てていきます。日々の生活リズム、食事、トレーニングなど、すべてプロ選手として力を発揮するために細心の注意が払われます。最終的な価値基準はスポーツ選手としてのプレーにあり、そのために、常に生活を問う姿勢が求められます。つまり、プレーが主であり、生活は従です。

 

お念仏申すことは、もちろん趣味ではありません。プロ選手のように名声やお金が手に入るものでも、厳しいトレーニングなどを必要とするものでもありませんが、お念仏申すこと、そしてお念仏に込められた阿弥陀如来のおこころを価値判断の基準とするとき、私の生活ぶりが問われるのです。

 

 

お念仏に問われる

 

では、お念仏に生活が問われるとは、どういうことなのでしょうか。今月の法語にある「念仏の上に生活かいとなまれる」というあり方はどのようなものでしょうか。

 

親鸞聖人の「御消息」に次のようなお示しがあります。

 

まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききけじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。

(『親鸞聖人御消息』第二通、『註釈版聖典』七三九頁)

 

そもそもみなさんは、かつては阿弥陀仏の本願も知らず、その名号を称えることもありませんでしたが、釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。以前は無明の酒に酔って、貪欲・脱恚・愚痴の三毒ばかりを好んでおられましたが、阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、無明の酔いも次第に醒め、少しずつ三毒も好まないようになり、阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。

(『親鸞聖人御消息(現代語版)』九頁)

 

お念仏申す身となった人が、無明の酔いから次第に醒め、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩を好む生活から、次第に離れていく様子が示されています。お念仏が価値基準となってくださり、三毒の煩悩を好んでいた私から、好まない私へと変革されていきます。

 

貪欲とはむさぼりの心のことです。自らにとって好ましいと思えるものを果てしなく求める心のことです。瞋恚とは燃え上がるような怒り、憎しみの心です。愚痴とは迷いの根本であり、無明ともいいます。真理を知らないおろかさのことです。私たちは縁起の道理を知らず(無明)、それゆえに自分中心の心にとらわれて、自らに都合がよいものを貪り(貪欲)、都合が悪いものを退け(瞋恚)、迷いを深めて(愚痴)います。そして、そのような煩悩の病を治療する薬がお念仏に譬えられています。

 

 

仏教をどう聞くか

 

私たちの物事の受け止め方は、何事も自分に都合良く、見事なまでに仕上がっています。親鸞聖人はそのような私のあり方を「煩悩具足の凡夫」とお示しになりました。

 

私の勤務先がある京都市には、たくさんのバスが走っています。交通事情によって、バスが時刻表とはわずかに前後して到着・発車することがあります。

 

自分が既にバスに乗車している時や、バス停で早くからバス待ちをしている時には、時刻表より早いバス運行は歓迎です。ところが、時刻表に合わせてバス停に行ったところ、先にバスが出てしまっていたら、たいへん腹立たしく思ってしまいます。

 

バスが時刻表より早く運行されることが、立場によって歓迎すべきことになったり、腹立ちに結び付いたりするのです。この時の価値判断の基準は、まさしく自分にとって都合がよいか、悪いか、の一点です。

 

私たちの物事の受け止め方は、きわめていい加減であり、危険であると言わなければなりません。念仏をこのような受け止め方の延長で考えるのが、今月の法語で誡められている「生活の上で念仏」申すあり方です。

 

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の図をご覧ください。私たちの日常の思考は「①私の生活」で囲った部分です。必ずしもお祈りが伴うわけではありませんが、ともあれ、自分の都合の実現が、私たちの「幸せ」です。そして、お念仏や仏さまを自分の都合を実現する、いわば道具としてさえ使おうとします。私たちは自分白身が抱える根深い煩悩を問うことはありません。自分の都合が実現しないと「仏の力もその程度」「神も仏もあるものか」とうそぶくのです。

 

一方、仏教が問題にしているのは、「①私の生活」の部分全体です。①の部分は、煩悩に振り回されて生きるあり方そのものです。

 

私たちは煩悩に振り回され、目先の快楽、老・病・死によって壊れる幸せを求めています。阿弥陀如来はそのあり様を見抜き、心から心配されています(図の②の部分)。そして、それに気付くことさえない愚か者に、お名号「南無阿弥陀仏」となって「必ず救う」と喚びかけてくださいます。

 

お念仏申すということは、私の生活全体が阿弥陀如来に問われるということです。「①私の生活」が煩悩に振り回されているあり様であり、それは苦悩を作り続けるあり方であることが知らされます。自分の都合にとらわれた「①私の生活」が、地獄行き決定の生き方であることを知らされるのです。

 

 

愚者になりて

 

お念仏によって、阿弥陀如来のおこころに出遇い、煩悩に振り回される自分のあり様を知らされるとき、おのずと自らの愚かさを恥じる心が生まれます。お念仏申す身となっても私か煩悩具足の凡夫であることに変化はありません。けれどもそのような私に、煩悩に振り回された生き方をできる限り慎もうとする心が生まれるのです。

 

親鸞聖人は、このことを先の「御消息」で、

 

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして

(『親鸞聖人御消息』第二通、『註釈版聖典』七三九頁)

 

と示されていました。

 

阿弥陀如来は、私の愚かさを見抜く智慧と、そのような愚か者を救わずにはおれない慈悲をお持ちの仏です。私か称えるお名号には、その智慧と慈悲が込められています。お念仏を申し、煩悩を煩悩として知らされ、生き方が転換されていくことは阿弥陀如来の智慧と慈悲のはたらきに、この私か包まれていることを意味します。

 

親鸞聖人は法然聖人のお言葉を次のように回想されています。

 

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひし

(『親鸞聖人御消息』第{六通、『註釈版聖典』七七一頁)

 

今は亡き法然上人が、「浄土の教えを仰ぐ人は、わが身の愚かさに気づいて往生するのである」と仰せになっていたのを確かにお聞きしました

(『親鸞聖人御消息(現代語版)』六一頁)

 

私たちは、賢くなって阿弥陀如来の浄土に往生するのではありません。親鸞聖人の回想からは、自らの愚かさを知らされることを通して、阿弥陀如来の救いの確かさ、あたたかさを受け止めておられる様子が窺えます。念仏の上にいとなまれる生活とは、そのようなものなのです。

(黒田義道)

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