今月の法語は、ヒ高僧の第六祖、源信和尚を讃仰された「正信渇」本文、「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(ぼんのうしょうげんすいふけん だいひむけんじょうしょうが)」一煩悩(ぼんのう)、眼(なまこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、大悲(だいひ)、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。(「註釈版聖典」二〇六頁)について意訳されたところです。
これはもともと「往生要集」にある
「われまたかの摂取(せっしゅ)のなかにあれども、煩悩(ぼんのう)、眼(なまこ)を障(さ)へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦(だいひう)むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」
(「註釈版聖典(七祖篇)」九五六頁)
という文によられたものです。
源信和尚(九四二~一〇一七)は大和国(やまとのくに)(奈良県)当麻(たいま)の里に誕生され、七歳で父と死別、九歳で比叡山に登り慈慧僧正良源(じけいそうせいりょうげん)に師事されました。英才の誉れ高く十五歳にして宮中で仏典を講ぜられた折、天皇より布帛(ふはく)の栄誉を受け、早速故郷の母に贈ったところ、母はその品を送り返し、名声や利欲を求める世渡る僧になることは悲しい、どうか母の後世を導いてほしい、との手紙が添えられていたといわれます。その後和尚は母の誡めを深く心にとどめ、高位を求めることなく叡山横川(ひざんえいざんよこわ)の首榜厳院(しゅりょうごんいん)に隠棲(いんせい)し、専心(せんしん)に釈尊一代(しゃくそんいちだい)の法を学修(がくしゅう)されました。そして四十四歳の頃『往生要集』三巻を著して日本浄土教の大成をはかり、自らも浄土を願生(がんしょう)しつつ念仏の興隆につとめられたのでした。
頑魯(がんろ)のもの
『往生要集』序文には「予(よ)がごとき頑魯(がんろ)のもの」(私のようなかたくなで愚かな者)(『註釈版聖典(七祖篇)」七九し貞)と、和尚は自身について述べておられます。また「念仏証拠門」においては「極重(ごくじゅう)の悪人(あくにん)は、他の方便(ほうべん)なし。ただ仏(ぶつ)を称念(しょうねん)して、極楽(ごくらく)に生(しょう)ずることを得(う)」(『註釈版聖典(し咀偽)」 一〇九八頁)と浄土教における往生行の要点を示し、愚悪の人間が極楽に生まれる手だてはただ称名念仏(しょうみょうねんぶつ)するほかなきことを闡明(せんめい)にされたのでした。
愚悪の者とは、抜きがたい自己へのもりじゅこころ執着心、我が身可愛いという自己中心の思いのやむことのない。われわれ人間のことです。和尚が白身を深く誡められた名聞利養(みょうもんりよう)の執心もそのあらわれであって、今月の言葉に「まどいの眼には見えねども」といわれるのは、まさにそのような真理(智慧)に暗く煩悩に翻弄されながら苦悩していく、人間の有様を示されるのです。思い通りにしたいという我欲の心(惑)は、思い通りにいかぬゆえに怒りとなり、愚かしき言動となって表出(業)し、他を傷つけていくことになります。そして新たなとまのう苦悩(苦)をさらによび起こしていきます。こうした無知の行為と結果が連鎖してとどまることなく循環していくという、そのことに無自覚であるゆえに愚悪といわれるのです。
以前、首筋や肩の凝りかひどく腰の鈍痛もあったので、整体治療院で看てもらった時、診察室の鏡の前で「肩の位置が左右均等でなく、体に歪みをきたしている」と説明を受け、不自然な自分の立ち姿に驚いたことがあります。凝りや痛みの原因が普段からの姿勢を意識しないことでそれが習慣となり、知らず知らずのうちに体の歪みとなってあらわれてきたのでしょう。では、これがもし心の歪みであったとしたら、と考えると、なおさら自分で気づけるはずもありません。身心ともにケアを怠らないよう心がけたいと思ったことでした。
「観経疏(かんぎょうしょ)」には
「経教(けいきょう)はこれを喩(たと)ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧(ちえ)を開発す」
(「註釈版聖典(じ組篇)」ニハ七頁)
と示されています。つまり経典は喩えていうと鏡のようであり、たびたび読んで教えを尋ねていけば智慧が開けるといわれます。教法を鏡とすることは、鏡の前に立った自分の外側の姿ばかりか、まるでレントゲンに映し出されるように、内側の心の歪みまでも明らかになるのです。苦の原因、煩悩の病巣が知らされるところに、苦を厭(いと)い離れる智慧がもたらされることを教えられているのです。
今月の法語には「ほとけはつねに照らします」とあります。親鸞聖人は「尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』で、先の「往生要集」の「大悲無倦常照我身(大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ)」について、
「常(じょう)」はつねにといふ、「照(しょう)」はてらしたまふといふ。無擬(むげ)の光明(こうみょう)、信心(しんじん)の人をつねにてらしたまふとなり。…(中略)…「我身(がしん)」は、わが身を大慈大悲(だいじだいひ)ものうきことなくして、つねにまもりたまふとおもへとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらはしたまふなり。
(『註釈版聖典』六六一頁)
と解説されています。「我身」とは原文では源信和尚のことをさしていますが、ここではさわりなき仏光(ぶっこう)は苦悩の根元であるまどいを照破(しょうは)して必ず大悲心のうちに摂め取り、さとりの浄土に往生させようとつねに信心の人を休むことなく怠りなく照らしまもってくださる、といわれています。
こんな人生もあるのかな…
過日、夫が亡くなったので葬儀をしてほしいとの連絡を受けました、初めてのご縁でもありましたので必要な事柄をお聞きして、指定された葬儀会館に向かいました。臨終から通夜、葬儀、火葬、還骨法要と済み、中険ではじめてご自宅にお参りをいたしました。読経を終えて、故人の妻であるΥさんから仏事のお尋ねがあり、そのときご家庭のことなどを伺いました。しばらくお話しされていて、話題が三人の子どもさんのことに及んだとき、しばし沈黙され、時折言葉に詰まりながらも語ってくださった内容は、
三人の子どものうち、次男は小学校四年生のときに自動車事故に遭い、医師からは脳挫傷との診断が下り、事故の翌日以来全く意識が戻らず、すでに四卜九歳になっているということ。二年前にご主人が脳梗塞、ガンを患って入院されるまでは、ずっとその子どもを自宅で看護されてきたこと。当時は行政の介護サービスが整っていない時代だったので大変難渋されたこと、食事などは自分で何とか咀喘はできても、口を開くタイミングを辛抱強く待たねばならず、一回の食事に二時間を要してしまうこと。。また入浴は本人の身体に硬直があるため、一人ではとても無理なので夫が帰るのを侍ってから二人でしなければならなかったこと。自分自身も数年来ガンを患って、三度の手術を経験してきたこと。そして夫婦で五十二年間暮らしてはきたが、日常生活はほとんど子どもの介護に明け暮れたので二人で旅行に出かけたことも、映画をゆっくり観たこともなかった。
というものでした。Υさんが、「子どもが施設に移った後、今は私がこのベッドで寝ております」と言って後ろを向かれた、その部屋の後方には長い介護の時を物語るかのような小さめのスチールベッドが見えました、そして「夫も亡くなり、私も病身となってしまいました。いつまで子どものそばにいてやれるか心細いことですが、やはりあの子を置いて死ぬわけにはいかない…、そんな気持ちでおります。…こんな人生もあるのかな…と不思議に思います」と言われました。
私は「こんな人生もあるのかな…」と二度繰り返された言葉を聞きながら。今日までの大変なご苦労が察せられて、胸が締め付けられるような思いになりました。「きっとこの世でお母さまでしかできない菩薩の行を、わが子のためになさってこられたんだと、私にはそう思えます」と私か一一日ったとき、Υさんはしずかにお仏壇の方に向かい、深々と頭を垂れ合掌されたのでした。Υさんの美しい姿の中に、たしかに大悲の光明かとどいてくださっていること、大いなる慈しみと悲しみをもってあわれみ、どのような苦悩の人生をも照らし慰めてくださる尊き仏光を仰がずにはおれませんでした。
子が受けてきた苦難は、その子とどこまでもともにあって、どのような労苦をも忍受していくという親の覚悟、苦難があることに気づかされます。重い病苦をかかえて生きるわが子なるがゆえに、苦悩し憐懲(れんみん)してやまない母なる情愛が知らされるのです。
人の憍りと仏の大悲
「教行信証」「信文類」には、
如来一切のために、つねに慈父母(じふぼ)となりたまへり。まさに知るべし、もろもろの衆生(しゅうじょう)は、みなこれ如来(にょらい)の子なり。
(『註釈版聖典』二八八頁)
と示されています、自分の存在がかえりみられることもなく、見離されてしまうことがあったとしても、決して見捨てることができないというたった一人の親が私のために存在してくださることほど、たのもしく安心できるものはありません.如来がもろびとをわが子と見そなわし、わが苦悩として同悲同苦される慈悲のはたらきは、まるで父母が一子にかかりはて寄り添うような姿にほかならないと喩えられています。
「若不生者(にゃくふしょうじゃ)、不取正覚(ふしゅしょうかく)」(あなたを安楽の浄土に、もし生まれさせることができなかったら、決して悟りの仏となることはない)という法蔵菩薩の誓願は、いったい誰のために建てられたのでしょうか。思えばながいまよいの私の歴史とともに、つねに南無阿弥陀仏の名となって喚びかけ続けてくださっていた途方もない如来の歴史があったのでした。その切なる願心はわがためにとどまらず、一切の衆生に向けられた広大無辺のはたらきであることを聞かせていただくとき、ただ頭を垂れ念仏申さずにはおれません。
源信和尚は、
雨の堕(お)つるに、山の頂(いただき)に住(とど)まらずしてかならず下(くだ)れる処(ところ)に帰(き)するがごとし。もし人、僑心(きょうしん)をもってみずから高くすれば、すなはち法水入(ほうすいい)らず」(雨が降れば山の頂にとどまらず必ず低い方に流れるように、自分を高くするならば法の水は入ることがない)
(「註釈版聖典(七祖篇)」 一一七四頁)
と示されています。自然の道理を知らずして、僑り(おご)の心をもってみずからを高くし、仏法のめぐみを素直に受け入れようとしないこの私を、仏は大悲の光明をもって照らし、いよいよ念仏申す身に育ててくださいます。決して見捨てることなく、怠ることなく、つねに私たちを守護していてくださるみ仏であると教えてくださっているのです。(貴島信行)