2016年11月 さとりの国に うまるるは ただ信心に きわまりぬ

煩悩が転ぜられるはたらきimg_20161029_0012_new

今月は親鸞聖人の恩師法然房源空聖人のご功績を讃えられるところです。「正信偈」本文の「生死輪転(しょうじりんでん)の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情(ぎじょう)をもって所止(しょし)とす。

すみやかに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽(みやこ)に入ることは、かならず信心(しんじん)をもって能入(のうにゅう)とすといへり」

(「註釈版聖典」二〇七頁)

と示される後半部分の現代語訳です。
これはもともと

法然聖人(一一三三~一二一二)が著された『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』「三心章(さんしんしょう)」の「生死(しょうじ)の家には疑(うたがい)をもって所止となし、涅槃(ねはん)の城(みやこ)には信(しん)をもって能入となす」

(「註釈版聖典(七祖篇)」 一二四八頁)

の文によられたもので、

私たちが迷いの世界にとどまるのか、あるいは悟りの世界に生まれるかは、ひとえに本願を信ずるか。疑うか、その一事に尽きる意を表し、決判(けっぱん)せられるところです。

生と死を繰り返す迷いの世界は「生死の家」と喩えられ、また「生死の几夫の流転の闇宅」、「魔郷」などとも表現されています。一方で無明煩悩が一切消滅した悟りの領域は「涅槃の城」「安楽」「西方寂静無為(さいほうじゃくじょうむい)の楽」などと示されています。「楽」は「洛」と同じ発音で「洛陽」の意に通じるところから、「涅槃のみやこ」ともいわれます。

生死の闇とは智慧くらき私たちの住む娑婆界のことで、いわば浹い心で閉ざされた世界のことです。涅槃寂静とは煩悩を離れた安楽の境地、広やかな心開けた智慧の領域をいいます。この「生死の家」から「涅槃の城」に至るためには、私たちのさかしらな知識や功徳善根の所業をもっては成し遂げられないことであり、阿弥陀如来が成就された本願の名号を疑いなく聞信するほかはないとされるのです。

ですから、もし本願を疑う者あらばその自力をたのむ執心をひるがえし、如来の「わが名を聞いてわれをたよりとせよ、必ず救う」との仰せを素直に信じ受け入れるべきであると勧められるのです。
信心とは、阿弥陀如来の真実心、一切の虚仮不実をはなれた清浄なる願心のことであり、煩悩に汚れた虚仮不実の心をいうのではありません。しかしながら、ひとたび凡夫の心に如来の願心(智慧と慈悲)が至りとどくならば、この煩悩をかかえた身のままで往生成仏することが決定せしめられることになります。それはちょうど万川が海に帰して海水の一味となるように。仏の功徳(名号)によって煩悩がそのまま菩提と転ぜられ、この身に仏因が満足せしめられるからであります。

 

 

金剛の信心をたまわる

一般的に私たちが何かを信じるという場合、「まちがいないものと認めたよりにする。信頼する」という主体は、あくまでこちらの側にあります。その場合、信頼する対象が確かであるかどうかは常に私の判断一つにかかっており、自分が正しいと考えている判断が同じ対象であっても、その時々で変わっていくとすれば「信じる」といっても一定することがないのは明らかです。
たとえば、自分が信頼していた相手に裏切られたときに、「あの人を信じた私がバカだった、愚かだった」などと言って反省したりもする訳ですが、本心は「私を裏切ったあの人が悪いのだ、あの人が愚かなのだ」とどこかで相手を責める気持ちが潜んでいるものです。また人と口論した後で後悔し、相手に謝るときに「私も悪かった」とつい言ってしまう、そんなところにも相手を責める気持ちが「も」という表現となって露呈されてしまいます。あてにならない張本人が自分自身であるのに、「あの人があてにならない、他人をあてにはしない」と頑なに心を閉ざしてしまうのです。このように人間は自我愛から離れられず、自分が心底愚かであるとは思えない存在であるといえるでしょう。
本願力とはそのようなあてにならない不実の存在であるわが身を知らせ、閉ざされたわが心にはたらいて、悟りの世界にいたる正しき因を与えてくださるのです。それは仏の仰せを聞くことも、私が仏を信じたよりとする心も、すべて私に先行して用意されている一方的なはたらきであるといえます。
「唯信紗文意(ゆいしんしょうもんいん)」には、

この信楽(しんぎょう)をうるときかならず摂取(せっしゅ)して捨てたまはざれば、すなはち正定聚(しょうじょうじゅ)の位に定まるなり。このゆゑに信心(しんじん)やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛(こんごう)のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり。

(「註釈版聖典」七〇三頁)

と述べられています。ここで信心が金剛心であるといわれるのは、私がゆるぎなき不動の心を持つという意味ではありません。「どんなことがあっても、あなたをさとりの浄土に往生させずにはおかない」という決してくずれない、壊れることのない如来の一方的な願心、変わることなき本願力のはたらきによるから金剛の信心といわれているのです。

 

 

育まれる信頼感

さて、二〇一四(平成二十六)年、百四歳で亡くなられた詩人まどみちおさんの有名な童謡の一つに「ぞうさん」があることはよく知られています。「ぞうさんぞうさん おはながながいのね そうよかあさんもながいのよ」という歌詞で、「ぞうさんぞうさん だれがすきなの あのねかあさんがすきなのよ」と詩は続いています。私はこの歌はよく知ってはいましたが、詩の内容に込められた深い意味を今まで考えることがありませんでした。

ある詩人がこの詩について「「ぞうさん」とはいったいどんな詩なのか」と質問されたとき、まどさんは「ぞうに生まれてうれしいぞうの歌」とこたえられたといいます。
まどさんはこの詩で、「鼻が長いね」と言われたけれど、ぼくはお母さんとそっくり、大好きなお母さんの子どもだから、「そうよ」と胸を張ってこたえることができるぞうさんを登場させています。自分を大好きな子どもとして育ててくれるお母さんがいてくれるから、他と比べる必要がないぽく白身をよろこぶことができる、そんなぞうさんの気持ちを表現しようとされたのかもしれません。

さらには、私たち大人に向かって、あなたは子どもを信頼していますか、子どもたちの心に充足を与えていますか、あなた自身はこの世に生まれてきてよかったですか、劣等感や優越感に苦しんではいませんか、といった様々な問いかけをされているように思われます。
私事になりますが、昨年浄土に往生いたしました母は、私が何か頼み事をしたときにはきまって自分のことは後回しにして、私の頼んだ用事を済ませてくれていました。面倒な内容でもイヤな顔をせず、むしろ何かよろこんでしてくれているように思えました。そして「してあげた」というそぶりも見せず、言わずにいた母でした。

 

振り返ると私の方はわがままばかりで、自分にとって都合のよい親であればよい、とどこかで考えている不肖者でしたが、それもすべて承知のうえでの行動だったのだと思います。
子が親にたいして抱く信頼感は、もともと親が子を信頼する心からはじまっています。親への信用はつねに子に先行して親から子への信用としてとどけられていたのでした。
しかしながら、昨今ではその信頼が大きく揺らいでいます。家族問における殺傷事件の報道も珍しいことではなくなりました。「だれでもよかった」というような若者の理由なき凶悪事件が起きるたびに、加害者における生育歴との関連が識者によって指摘されています。

 

「愛することは向かい合うこと」とマザーテレサさんは言っています。自分と向き合ってくれない大人たち、自己肯定感が乏しく、虐待や養育放棄によってまったく親に愛情を感じられずに苦悩している子どもたちがいます。親から与えられる幼少期における信頼感。いわゆるベーシックトラストはその人格形成においてきわめて重要であることは明らかでしょう。
誰かに深く愛されているという自覚は、やがて他者の差異を認め、他者を大切にしようとするやさしさや、執拗に他者との違いにこだわる心を克服していく柔軟さにもつながります。また家族や友人をはじめ。多くの人びとと信頼関係を育んでいこうとする姿勢にもあらわれることでしょう。
先に述べましたように、人間の信頼はあくまで不完全であり、非常にもろく崩れやすいものではあります。この世において必ず別離というものがある以上、いつまでも関係が続くというわけにはまいりません。しかし私たちは不完全でしかない人間であるからこそ、心を通じ合わせ、互いの信頼の絆を一層大切に育てる努力をしなければならないと思うのです。

 

 

 

仏によって成就された信頼感

今月の法語である「さとりの国にうまるるは、ただ信心にきわまりぬ」と言われる信心とは、仏の方から一方的に与えられたまこと、信頼の心です。ですから、たとえ私が如来に背を向け、裏切っていくようなことがあったとしても、決してその心は壊れることもなく、揺らぐこともありません。それは絶対の信頼ともいうべきものであり、私の方から断絶しようとしても、仏の側からは決して断絶させないと、はたらいてくださっているという関係性なのです。必ずさとりの国に生まれさせようと、はたらき続ける真実心という信頼の極みが、仏によって成就されているのです。
私が称えている念仏は、如来が私と決して離れることがない信頼の「絆」で確かにつながっている証であるといえるでしょう。

雪ふるや 受くるのみなる母の愛

ここには、雪の空を仰ぎ、降りしきる雪に母の慈愛を重ね、母へのこよなき感謝を表そうとする作者の心情が溢れています。
私たちがめざすべき世界は「涅槃の城」です。それは人生に破綻し苦悩に沈み、不信感に閉ざされた「生死の家」を出離したところにひらかれる悟りの世界であり、仏の智慧と慈悲によって絶対の信が成就されているところです。そしてその境界は自らの悟りを完成するにとどまらす、ただちにこの世に還来して他者を救うために慈悲のはたらきをなすという世界でもあるのです。
念仏への信頼を育み、心豊かな人間関係が構築されるよう努力したいものです。

(貴島信行)

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