2017年4月 仏の御名を きくひとは ながく不退に かなうなり

名前の意味4月のことば-12
親鸞聖人のみ教えにふれていると、名前の意味を深く味わうことの大切さに気付かされます。自分の名前、家族の名前、友人、知人、それぞれの名前にはどのような字が使われ、どのような願いが込められているのか。そのように考える時、多くのいのちとかかわりながら生きてきた身であることを思わずにおれません。
四月は新年度を迎える月です。出会った相手に自己紹介をしたり、学校や職場でこれまでと異なる所属になるなど、新たな道に進む人もいるでしょう。自分の名前は他者とのかかわりにおいてこそ、意味をなすものでもあるのです。
以前よりは少ないかもしれませんが、日本の文化には改名という習慣があります。名を変えることによって新たな一歩を踏み出し、これまでと異なる生き方を自覚する、改名はその宣言ともなります。元服などの通過儀礼においても、幼名を改めて元服名(烏帽子名(えぼしな))を付けるなどしました。
様相は少し違いますが、結婚や養子縁組などによって改姓する場合も、いろいろな変化を自覚することになります。私自身、九年前に結婚して婿養子(婿養子)に入りましたので、姓も所属寺も住所も職場も、すべて独身の時とは変わりました。乗っている車のナンバーの地名から、家の中でテレビを見る時の体の姿勢まで変わってしまったような気がして、人とのかかわりによってそれまでとは異なる人生となることをしみじみ感じています。
浄土真宗では、門信徒としてお念仏の生活を送ることを誓う「帰敬式(ききょうしき)」という儀式があります。これを受式すると仏弟子としての法名が授与されます。法名とは仏法に帰依し、お釈迦さまの弟子となった者の名前です。生前に機会がなかった場合は葬儀の折りに付けられますが、本来は生前に受けることをお勧めし、お釈迦さまの「釈(しゃく)」の字を冠して「釋○○」と名付けられます。仏道を歩む出発点となり、念仏者として毎日を精一杯生き抜き、いのちを終えるとお浄土へ生まれゆく、そのような人生を歩んでいくことの名告りだといえます。
名前というものの意味を考える時、これまでの人生で受けた恵みとこれからの生きる方向性を改めて見定めることになるように思います。
これまで受けた恵みを「恩」といいます。恩は口と大と心という字から成り立っています。大は手足をいっぱいに広げた人の形、口はむしろ、敷物です。常に使用し親しんできた敷物の上に人が寝ているところに心を添えているので、日頃から大切にし可愛がられてきたことを意味し、体いっぱいに愛情を受けてきたことを恩といいます。
人から受けたご恩は、気付くことのできたものだけでなく、その多くを知らないところ、気付かないところで受けてきました。恩返しという言葉がありますが、そう簡単に返しきれるものではありません。そもそもすべて返して、貸し借りなしにするようなものではないのでしょう。返しきれない恩の大きさを知り、これからの生き方をその恩に「報」いるというかたちでいい表すのです。一生をかけて報恩の道を歩む、そのような生き方が始まるのです。
名に込められた願い
子どもに人気のあるなぞなぞの中には、大人も考えさせられるものがあります。
「自分のものなのに、他の人の方がよく使うもの、なあに?」
このなぞなぞは、答え自体にも教えられるものがあるのですが、ある会で申しあげた時のやりとりもありがたいものとなりました。
「それは私の給料です!」
ある男性が自信満々にお答えになり、続けて訴えるようにおっしゃいました。
「私が一生懸命働いて稼いだ給料を、家族は次から次へと使ってしまうんです。
ひどいと思いませんか?」
怒っているのでも悲しんでいるのでもなく、仕方がない、それでもがんばっている自分かいることをただ聞いてほしい、そんな印象でした。ご一緒に学ばせていただいたのは、その解決方法として家族に変化を求めるのではなく、給料が自分のものであるという思いを捨てることが一番の近道なのではないか、そのような視点の転換をお互いさせていただきましょう、という結論にいたったことでした。
なぞなぞの答えは「名前」です。
自己紹介や書類への記入など、自分の名前は自分が一番使うではないかと思ってしまいます。ですが、私か自分の名前を覚えるそのずっと前から、願いを込めて私の名前を考え、そして私を呼び続けてくれた人がいたのです。
名前は、他の人に呼んでもらうためにあるのであり、名前を通して他者とかかわることができるのです。「名」の字は夕と口から成っていて、夕方の薄暗い闇の中では顔がよく見えないから、口で自分の存在を声に出して相手に告げることを示しています。
名前を通していのちのかかわりに気付かされ、名前によって今後の生き方に思いを巡らすことができます。そこに、生かされているいのちであることを感じ取る念仏者へと育てられるはたらきがあったのです。それは、お念仏の中に毎日を過ごし、お浄土を見据えて生きる人生へと導く、阿弥陀さまの願いのはたらきでした。
願いを聞く
今月のことばは、親鸞聖人の『浄土和讃』の中、「讃阿弥陀仏偶和讃(さんあみだぶつげわさん)」と呼ばれる一首です。阿弥陀さまと浄土の徳について讃嘆されていて、この一節には阿弥陀仏のみ名の功徳が示されています。
はじめに「仏の御名をきく」とあります。仏のみ名とは南無阿弥陀仏の六字ですから、南無阿弥陀仏を聞くということです。
お念仏は自分の口でナンマンダブと称えるので、南無阿弥陀仏とは称えるものなのですが、それを聞くと表現するところに浄土真宗のみ教えの特徴があります。
阿弥陀さまは、この私を救わずにおかないと願いをおこされました。その願いとは、『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』の第十八願に「われに任せよ、わが名を称えよ、必ず浄土に生まれさせよう」と、誓われています。
阿弥陀さまが、わが名を称えよ、南無阿弥陀仏と称えてくれよとおっしゃっているのは、どのようなお心なのでしょうか。
数年前、実父の十三回忌の法事をお勤めした時のことです。法事にお参りくださった方々を見ると、以前とくらべ、父と圓世代のおじ・おばや、ご門徒の方々の人数が、ずいぷんと少なくなった印象でした。父と同じくお浄土に生まれられた方もいます。ご存命であっても、ご高齢のために外に出にくくなった方もいらっしゃいます。
一方で、子の世代である私たちや孫の世代はとてもにぎやかでした。私も当時四歳の娘を連れて帰省しました。父と直接会ったことのない家族も集まって、父から連綿と続くいのちのつながりを感じる、そのような法事でした。
その場で感じた変化の一つに、自分の一人称、つまり自身の呼び方がありました。私は自分のことを、実母と話す時は「ぼく」、施主の兄と話す時は「おれ」、ご門徒の皆さまには「私」、甥や姪には「たあ兄ちゃん(独身の時からそう呼ばれているのでこ、そして娘の前では「お父さん」といいます。顔を動かすたびに、自分の呼び方が変わるややこしさを感じたものです。
自分がどれだけ父親としての役割を果たせているか、はなはだ心許ないのですが、それでも実の父親の法事で、自分のことを「お父さん」と呼んでいる私かいました。
子どもが親に向かって「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになるのは、親の方から子どもに向かって「お父さんですよ」「お母さんはここにいますよ」と名告り、ずっと呼び続けてきたからでしょう。
この「お父さんですよ」という言葉は、考えてみればおかしな言い方です。自分のことを指して「さん」といい、「お」まで付けています。最近、敬語が乱れているといわれますが、自分に敬称を付けるのは言葉としては間違いでしょう。「父ですよIというのが正しい言い方です。
では娘に話しかける時、私か自分のことを「父ですよ」と呼び続けたらどうなるでしょうか。おそらく娘は私に向かって「ちち」と呼ぶでしょう。世話になるのだから、機嫌をとっておかなければいけないから「さん」といい、「お」まで付けようなどとは考えないでしょう。
「お父さんですよ」と子どもに向かって呼びかける時、そこには、あなたを放っておけない私かここにいますよ、声に出して呼んでごらん、遊びに夢中のあなたがこちらを見ていなくても、あなたを心配せずにおれない私はいつでも見ていますよ、そんな思いが込められています。
阿弥陀という仏さまから呼び続けられていた私です。そのまま呼べばいいように、願いとはたらきが込められた六字のみ名として私に与えられていたのです。それは念仏者として今の生涯を精一杯生き抜き、お浄土へと生まれてきてくれよと願わずにおれない親さまの願いであり、呼び続けずにおれない仏さまのはたらきだったのです。
願いの中で生きる
み名を聞き、南無阿弥陀仏の六字に込められた仏の願いを聞いて、そのはたらきの中に生かされている私であることに気付かされました。私の口から出てくるナンマンダブは、ともに歩んでくださる仏の声でありました。そのような念仏者となったなら、決して迷いの人生を過ごすことはないということを、「ながく不退にかなうなり」と今月のことばに示されています。
「ながく」というのはしばらくという意味ではなく、ずっと仏さまとともに歩む人生のことをいいます。
今も煩悩具足の凡夫であることに違いはありません。南無阿弥陀仏のこころを聞いたからといって、腹を立てることのない聖人君子のように立派な人になることができるわけではありません。思い悩みは尽きなくとも、それでも、ともに歩んでくださる仏さまのはたらきを常に身近に感じながら過ごす生き方が、念仏者には開かれているのです。
(佐々木隆晃)

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