「聞」と「信」
「浄土真宗は、聴聞にきわまる」といわれます。
なぜ、そうなのかが明らかになるのが、二月のことばです。これは、親鸞聖人が書かれた『一念多念文意』というお聖教(しょうぎょう)のなかにあります。少し前からの一連の文を、以下に引用しておきます。
「聞其名号(もうごみょうごう)」といふは、本願(ほんがん)の名号(みょうごう)をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞(もん)」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。 (『註釈版聖典』六七八頁)
上下二巻で構成される『無量寿経(むりょうじゅきょう)』(『大経』)の下巻の冒頭には、阿弥陀さまの本願が成就されたことをあらわす第十八願成就文があります。この成就文では「聞其名号」とある「聞」について、『一念多念文意』では、二つの文章を通してご教示くださっています。
第一文は、
きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。
という文です。「聞く」ということについて、「聞いて疑う思いがない」ことであるといわれるのです。ここでは、「聞」を疑いのない心(無疑心)、すなわち「信」によってあらわしておられます。
第二文が標題の文で、
きくといふは、信心をあらはす御のりなり。
とあり、「聞く」という語が、「信心」をあらわす。つまり、「聞く」という語によって「信心」があらわされるというわけです。
どちらも、「聞く」ということについてのご教示ですが、構造が少し異なっています。図示してみますと、第一文が、
聞←信 (信によって聞をあらわす)
第二文が、
聞→信 (聞によって信をあらわす)
というふうに、双方向の構造であることがわかります。つまり、「聞」と「信」とが、互いに双方向で規定しあっているわけで、そのゆえに、「聞即信(もんそくしん)」(聞くことが即ち信心である)の法義が成立するのです。論理学的にいえば、AとBとが、互いに「必要」にして「十分」であるとき、A=Bとなります。
先手の救い
「聞即信」の「即」とは、「聞」と「信」との間に何も入る余地がないことをいうのです。「聞」と「信」との間に何かが介在したのでは、「即」とはいえません。「聞いて、わかって、信になる」とか、「聞いて、考えて、信になる」とか、間に自分の仕事が入ると、「聞即信」の聞き方ではないことになります。「わかる」とか「考える」とか、そのような私の心のはたらきが介在しない聞き方でなければなりません。
私事になりますが、私は、大学から大学院に進学するときに、別の大学に移りました。もう三十五年以上が経ちますが、今も鮮明に覚えています。
大学院の入学試験は、一次試験と二次試験とに分かれていました。一次試験の筆記試験にパスしか者が、二次試験の口頭試問(面接)に進めるのです。二次試験に臨むためには、一次試験から数日後、合格発表を見に行って、一次試験に合格した者だけが、そのまま二次試験を受けるという形でした。ですから、とにかく一次試験の発表は見に行かねばなりませんでした。二次試験の結果発表も、その日ではなく、これも数日後で、しかも、現在のように、ホームページでの掲示もありませんでし
たから、実際に見に行くほか、確認のしようがない時代でした。
福岡から大阪までわざわざ旅費を使って合格発表を見に行って、それで落ちていたのでは、お金のない学生にとってはつらいものです。そこで、高校の同級生で、その大阪の大学にまだ四回生で在学中の友人がいましたから、彼に発表の日時と私の受験番号とを伝え、代わりに見て電話で知らせて欲しい、と頼んでおきました。
発表当日、その時間が近づくと、そわそわします。当時は、携帯電話のような便利なものはなく、自分の部屋に固定電話もありませんでしたから、下宿の電話の前に張り付いていました。ところが、発表時間になって三十分か過ぎ、一時間が過ぎても、いっこうに電話がかかりません。そうすると、いろいろなことを考えます。「頼んだことを忘れていないだろうか」「日を間違えていないだろうか」「落ちていたから、なかなか電話がかけられずにいるのかも知れない」などと、いろいろな心配をし始めます。
電話がある大家さんの部屋に長くいることもできないので、自分の部屋にもどっていました。何時間も経った夕方になって、大家さんから「満井さん、電話ですよ」
と呼ばれて電話口に出ると、「通ってたよ」のT百です。「もっと早く知らせてよと思いましたが、とにかく「ありがとう」とだけ言って、電話を切りました。
私かいろいろな心配をする以前に、私の合格は、すでに決まっていたのです。私か心配し、いろいろと考えたから合格したのではありません。合格を知ったときには、すでに私の仕事は手遅れです。
私か考えて、私か理解して、それで初めて往生できるのではありません。私の仕事はすでに手遅れの、阿弥陀さま先手の救いの法を聞くのです。私の合格を教えてくれたのは、同級生でした。阿弥陀さま先手の救いの法を教えてくださったのは、お釈迦さまであり、親鸞さまだったのです。
無条件の信心
浄土真宗は、「信心正因(しんじんしょういん)」の法義です。時折、「絶対他力、無条件の救いなら、どうして、信心という条件があるのか」と訊かれることがあります。私は、「そうなったら仏教ではない」と答えることにしています。
『増一阿含経(ぞういちあごんぎょう)』という経典には、仏教とそうでないものとを見分ける、三つの指標が説かれています。「こうなったら仏教ではない」という目印です。一つは「宿命造」。いわゆる運命論・宿命論です。自分の人生は、すでに運命によって決定している。こうなったら仏教ではありません。お釈迦さまは、精進・努力によって自らの未来を切り拓く教えを説いてくださいました。
二つめは「尊裕造(そんゆうぞう)」。神意論のことです。この世界は唯一絶対の神によって造られ、全知全能の神によって支配されているという、ちょうどキリスト教のような考え方です。阿弥陀さまが全知全能の創造主であるのなら、いやでもおうでも浄土へ引きずり込むということもあるかもしれませんが、こうなったら仏教ではありません。
三つめが「無因無果(むいんむか)」。偶然論のことです。当然のことながら、仏教は因果の道理を説きます。私のさとり(仏果)には、私の側に仏因がなければなりません。それが正しい因果の道理というものです。おなかがすいたからといって、代わりに食事をしてもらっても、私は満腹になりません。私の仏果には、私の側に仏因がなければなりません。それが仏教の原則で、浄土真宗では、それを「信心正因」とするのです。
しかしながら、私の側の仏因といっても、私の側には迷いの元ばかりで、仏因になるようなものは、何ひとつ持ち合わせておりません。私の迷い心でつくった信心ならば、仏因になるというような厚かましいことはいえないのです。「かつて一善もなし」『無量寿経』、『註釈版聖典』六九頁)といわれる身において、仏因になりうるものは、阿弥陀さまからの真実が届けられる他力回向の信心のみです。
喚び声のままの信
「信心」は、「心」という字があるように、私の心に起こるものです。私の心に起こることについて、私のはたらき(自力)が関わったのでは、迷いのもとが雑じることになり、仏因とはなりえません。
私の心に起こることでありながら、私の心のはたらきをさせないあり方とは、どういうことになるでしょう。それが、聞くままがそのまま信となる、「聞即信」のあり方です。
「聞く」という行為は、先手の音声があって、初めて成立します。私か講義をたのまれても、日時を間違えて一日遅く行ったら、せっかく集まってもらった受講生にとっては、私か到着してないので「聞く」という行為は成立しません。
阿弥陀さまが「喚び声」の仏さまとなられたのは、私の心に起こる信心について、私の心のはたらきをさせず、先手の「喚び声」がそのまま信となる、まさに「他力回向」の信となる救いの構造を完成されたからです。
ちなみにですが、人間の五感のうち、一番最後まではたらいているのが、実は耳なのだそうです。お医者さんからの受け売りにすぎませんが、心臓が止まり、脈も呼吸も止まり、瞳孔がひらき、脳波が平坦になり、「ご臨終です」と宣告された後も、耳だけは、数十秒、長い人だと、数分間、聞こえているのだそうです。どうやって
確かめるのかは聞き忘れましたが、人間にとっては聞くということが最も基本なのかも知れません。
(満井 秀城)