自力が捨たる
一月のことばは、『教行信証』信文類(『註釈版聖典』二四六頁)からの一文です。「智愚の毒」。あまり聞き慣れない言葉かも知れません。「智者の毒」と「愚者の毒」といったところでしょうか。
「智者の毒」とは、どういうものでしょう。
「智者のふるまひ」「二枚起請文」、『註釈版聖典』 一四二九頁)という言葉もあるように、所詮わずかほどしかない自らの智慧をひけらかし、阿弥陀さまの他力にまかせない自力心のことと考えられるでしょう。
「雑毒(そうどく)の善(ぜん)」(『観経疏(かんぎょうしょ)』「散善義(さんぜんぎ)」、『註釈版聖典(七祖篇)』四五五頁)という言葉もあります。私たちの行う善は、仏さまのような完全な善ではなく、自力心という「毒が雑っだ」善なのです。
スーパーやコンビニなどでは、簡単便利で、しかも結構おいしいインスタント食品が、たくさん売られています。ずいぶん前に、冷凍食品に農薬が混入された事件がありましたが、どんなにおいしい冷凍食品でも、一滴の農薬によって「有毒食品」になってしまいます。どんなご馳走でも、有毒物質が混入したら一瞬にしてぷ『饅頭に変わるのです。せっかく阿弥陀さまの本願力に出遇っていながら、つまらない浅智慧という、自力の手垢がついた途端に台無しになるのが、自力のおそろしいところです。
この自力心のことを「本願疑惑」とも称しています。自らの智慧や力に頼る思いが残っているから、阿弥陀さまの他力にすべてをおまかせしないあり方になるのです。本願を信用しきれず、本願を疑っているから、自らを誇り、自力に頼ろうとするのです。
この自力心は、どうしたらなくなるのでしょう。
絶えず自力の思いに細心の注意を払い、自力心が顔を出すたびに、「自力が出た」「自力が出た」と、その都度、自力を退治していけばよいのでしょうか。しかし、これでは絶対に自力はなくなりません。自力が出てくるたびに、永久に自力を退治し続けたとして、最後に残る自力は誰が退治するのでしょう。最後まで、捨てる自分が残るという迷路に入ってしまいます。自力が一滴でも雑ったら他力になりません。しかも、自力で自力はなくぜないのです。自力をなくそうとする自力の延長線上には、他力はありません。
私かよくご法座の最後に申しあげる讐えがあります。「みなさん、訳のわからない話に長時間、おつきあいくださってお疲れになったでしょう。これから御座が終わって自宅に戻られたら、どうか、ゆったりとしたソファーに、身体をゆだねてみてください。ゆったりしたソファーに身を預けた瞬間に、肩の力がスーツと抜けるでしょう。実は、これが自力の捨たったすがたです。自力は自力で捨てられません。阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲の御手にゆだねたところ、他力にまかせたところで、おのずと自力が捨たるのです」
「三毒の煩悩」の治療
次に、「愚者の毒」とは、どういうことでしょう。
代表的なものに「三毒」の煩悩があります。「貪欲(むさぼり)」「瞑恚(いがり)」「愚痴(おろかさ)」の三つです。
「本願疑惑」は信心獲得によって晴れますが、煩悩は死ぬまでなくなりませんね。
表紙のことばのときにも申しましたように、「煩悩具足」の身として、
臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず
です。
確かに、念仏申す身にならせていただいても、煩悩具足の身であることは変わりません。しかし、何も変わらないのかというと、そうでもないように思います。少なくとも、迷信には惑わされなくなりました。また、お互いの明日がわからず、ともすれば死んだらおしまいと思っていたのが、このいのちの落ち着き先がお浄土だと気付かせてもいただいたのです。腹が立ったら二この野郎」と拳が上がり、不快なものは払いのけようとする私の手が、仏さまの前では自然と合わされ、他人の悪口を言うのが楽しく、愚痴ばかりこぼしている私の口から、思わず知れず、お念仏がこぼれ出るのです。これらは、やはり何かが変わっているのだと実感します。
それが、「如来誓願の薬」のはたらきでしょう。この語を考えるとき、親鸞聖人のご消息が思い出されます。
もとは無明(むみょう)の酒(さけ)に酔(よ)ひて、貪欲(とんよく)・瞑恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三毒をのみ好みめしあうて候(そうら)ひつるに、仏のちかひをききけじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。
(『親鸞聖人御消息』、『註釈版聖典』七三九頁)
ここに、「阿弥陀仏の薬」によって、「三毒」を好まなくなる身に変えられることが示されています。
親鸞聖人の晩年には関東を中心に、阿弥陀さまの救いを誇る「本願ぼこり」や、そのように本願に甘えて、悪事を犯しても浄土往生の妨げにはならないという、「造悪無凝」といった誤った考えが広まりました。このご消息は、その上うな特定の状況を背景にしたものですが、「阿弥陀仏の薬」という言葉には、やはり注目せざるをえません。
智慧の光
「三毒の煩悩」が、「阿弥陀仏の薬」によってどんなふうに治療されていくのでしょう。私は、阿弥陀さまの智慧の光、「十二光」に注目しています。
「十二光」のうち、「清浄光」は、私たちの「貪欲」に向けられます。かさばりに汚れた私たちの心を、清らかな光で治療してくださるのです。
「歓喜光」は、私たちの「胆恚」に向けられます。喜んでいるときに、同時に怒りは起こりません。
私は、何か欲しいものがあるときは、妻の機嫌のいいときを狙います。今の職分に就くにあたって、本山のある京都に引っ越すことになりました。それまでも、私は宗学院という本山の機関に何年も在籍していましたから、週に二日は京都に用がありました。この問ずっと、大阪にある学生時代からのアパートから京都に通っていたのですが、引っ越すことになったので、「せっかくだから、いいオーディオが欲しいな」と思ったのです。妻の機嫌の悪いときに相談しても、にべもなく拒否されると思いましだから、機嫌のいいときを狙ったわけです。親がこれですから、子どもも学習します。親の機嫌のいいときに、「小遣いを上げてくれ」とねだるのです。
「智慧光」は、私たちの「愚痴無明」に向けられます。私たちの愚かな心に、智慧のお徳を届けてくださいます。
このように、阿弥陀さまは、「清浄・歓喜・智慧」の光によって、私たちの三毒の煩悩を治療してくださるのです。しかしながら、私たちは、「煩悩成就」の身ですから、次から次へと煩悩が湧き起こってきて、さっきまで機嫌が良かったのに、急に怒り出したということも、しばしばです。そういう私たちですから、さらに「不断光」として、断えず治療薬を施してくださるわけです。
私たちは、このような阿弥陀さまの智慧の光によって、三毒の煩悩が少しずつ治療されています。それが、第三十三願に誓われる、身も心も「鯛光柔軟」となるあり方です。この第三十三願を、親鸞聖人は真の仏弟子の利益として、『教行信証』信文類に引用されています(『註釈版聖典』二五七頁)。
こころにまかせずたしなむ
それでもなお、私たちが「煩悩具足」の身であることに変わりはありません。死ぬまで煩悩の花盛りです。
しかし、阿弥陀さまは、その煩悩の根っこを切ってくださっています。昔から、「切り花は実を結ばない」と言い慣わしています。煩悩自体は花盛りですが、根っこを切ってもらってますので、阿弥陀さまの名号(念仏)の功徳によって、この世で往生浄土が定まった正定聚の位につくのです。
そして、さらに私たちの欲望には際限がありませんが、お念仏申す身にならせていただくことで、つあれが欲しい」「これが足りない」という、不平・不満であった毎口が、「ありかたい」「もったいない」という、感謝の毎日に変わってくるのです。
蓮如上人は、『蓮如上人御一代記聞書』第五十五条に、
こころにまかせずたしなむ心は他力なり。 (『註釈版聖典』 二五○頁)
とおっしゃっています。念仏者は、自らの欲望に振り回されず、「たしなむ心」をめぐまれ、つつしむ身にならせていただくのです。
ちなみに、標題の文の直前にある「阿伽陀薬」という万能薬の讐えは、法然聖人も用いられており(『選択集』、『註釈版聖典(七祖篇)』コー六〇頁)、親鸞聖人は、法然聖人から受け継がれたものと考えられます。万能薬ですから、「智者の毒」にも「愚者の毒」にも効くのです。
(満井 秀城)