2020年2月のことば 生のみが我らにあらず 死もまた我らなり

生い立ち

今月のことぼは、明治時代に発刊された雑誌『精神界』の所収論文で、「絶対他力
の大道」に出ているものです。

我等は死せさる可からず。我等は死するも尚は我等は滅せず。
生のみが我等にあらず。死も亦我等なり。我等は生死を並存するものなり。
我等は生死に左右せらるへきものにあらさるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。
然れとも生死は我等の自由に指定し得るものにあらさるなり。生死は全く不らず。生死尚は然り。況んや其他の転変に於いてをや。我等は寧ろ宇宙万化の内に於いて、彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。

(『清沢満之全集』第六巻、」一▽貝、岩波書店、原文ママ)

真宗大谷派の清沢満之師は、江戸時代の終わり、一八八三(文久三)年六月二十六
日に、尾張藩士である父・徳永永則と、尾張藩士の横井甚左衛門の長女である母・タキの、長男として生まれました。縁あって、」八七八(明治十二年、十六歳のとき、東本願寺で得度を受け、東本願寺育英教校に入学します。一八八三(明治十六年九月、二十一歳で東京大学文学部哲学科に入学されよしたが、学生の騒動に連座して退学を命ぜられました。しかし、一八八四(明治十七)年一月には再入学され、一八八七(明治二十)年七月に、二十五歳で哲学科を卒業、大学院に残り宗教哲学を専攻されます。一八八八(明治二十二年七月、二十六歳のとき、京都府立尋常中学校の校長に就任し、八月、愛知県碧海郡大浜町(現・碧南市)の西芳寺に入寺して、清沢ヤスさんと結婚されました。
その後、東本願寺を中心に教育面に関わるとともに、執筆、講演等に活躍されています。}八九〇(明治二十三)年七月には、一一十八歳で中学校校長を辞任し、禁欲主義の生活を始められます。この頃、仮名聖教、ことに『歎異抄』に親しまれています。一八九六(明治二十九)年十月、三十四歳のとき、京都府愛宕郡白川村(現・京都市左京区)で教界時言社を設立し『教界時言』を創刊します。教界時言社の社員らは白川党と呼ばれ、東本願寺の改革を唱えました。一八九七(明治三十)年二月には、大谷派革新全国同盟会を結成し請願書を提出しましたが、宗派から除名処分を受け、十一月、同盟会を解散されます。精神的には、この頃から『阿含経』に親しまれています。一八九八(明治三十二年四月『教界時言』を廃刊し、除名処分を解かれました。
一方、この年の八月には、『朧扇記』第言万を起筆されます。「朧」は年末、年の
暮れという意であり、「扇」は扇子のことで、冬の扇子は必要ないという意味です。
同年九月には新法主の招きにより東上し、『ニピクテタス氏教訓書』に出会われます。一九〇〇(明治三十三)年九月からは近角常観師の寮に仮寓し、多田鼎・佐々木月樵・暁鳥敏と共同生活を始められ、浩々洞を設立されました。一九〇一(明治三
十四)年一月から、浩々洞より雑誌『精神界』を発刊されます。
一九〇二(明治三十五)年六月五日、長男・信一さんが亡くなり、十月六日には妻ヤスさんが亡くなられます。一九〇三(明治三十六)年四月九日には三男・広済さんが亡くなりますが、六月六日には、清沢満之師ご自身も四十一歳で往生されました。

清沢満之師の「精神主義」

清沢満之師は、『精神界』創刊から二年間の死の直前まで、約五十鎬にのぼる論
稿を発表して、いわゆる「精神主義」を唱えられました。『精神界』のはじめには、
精神主義について次のように述べています。

  吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるへからす。若し之なくして、世に処し、事を為さむとするは、恰も浮雲の上にたちて技芸を演せむとするものゝ如く、其転覆を免るゝ能はさること言を待ださるなり。然らば、吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや、蓋し絶対無限者によるの外ある能はさるべし。(中略)吾人は只此の如き無限者に接せされは、処世に於ける完全なる立脚地ある能はさることを云ふのみ。而して此の如き立脚地を得たる精神の発達する条路、之を名けて精神主義と云ふ。

(『清沢満之全集』第六巻、三頁 原文ママ)

自らの立脚地なしでは、あたかも浮雲の上に立つようなもので、世に処して人生の転覆を免れることはできません。それでは、処世の立脚地はいかにして得られるのでしょうか。それは絶対無限者による以外にありません。この絶対無限者という
完全なる立脚地を得た精神の発達する条路、これを清沢師は「精神主義」と名づけています。

現代の死生観と救い

現代社会においては、死生観や死生学という言葉が注目されています。死生学は、死が根本にあって生を考えることを基本としています。死を見つめて生きる、死を覚悟して生きる、あるいは、いかに生きるかということを死まで深め掘り下げて考
える学問が、死生学です。このような死生観が生命(いのち)の問題と密接にかかわってきます。仏教では、生と死を一緒にして「生死」といい、それは迷いの世界を生まれ変わり死に変わりするという「輪廻」という語と同じ意味になります。
親鸞聖人は、『高僧和讃』龍樹讃に

  生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける            (『註釈版聖典』五七九頁)

と詠まれ、阿弥陀如来の本願のふねのみが、迷いの生死の苦海に沈んでいる私たちを乗せて必ず浄土へと導いてくださる、と述べられています。
『無量寿経』下巻には、

  人、世間愛欲のなかにありて。独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当
りて苦楽の地に至り赴く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。
(『註釈版聖典』五六頁)

と、人間は世間の欲望のなかで、独生・独死・独去・独来する存在で、自らの行いによって苦楽を生じ、他の人に代わってもらうことができないとあります。

また、源信和尚の『往生要集』上巻にある「厭離機土」には、『涅槃経』を引い
て、

 

一切のもろもろの世間に、生ぜるものはみな死に帰す。
寿命、無量なりといへども、かならず終尽することあり。
それ盛りなるはかならず衰することあり、合会するは別離あり。
壮年は久しく停まらず。盛りなる色は病に侵さる。
命は死のために呑まれ、法として常なるものあることなし
(『註釈版聖典(七祖篇)』八三五頁)

と、生命あるものは限りがあり、会うものには別れがあると述べています。
また『高僧和讃』善導讃にも、

  五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ             (『註釈版聖典』五九一頁)

金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける                      (同頁)

と述べられています。
前の和讃では、『阿弥陀経』にもありますように、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の悪世界に生きる私たちだからこそ、阿弥陀如来から回向される金剛の真実信心によってこそ、永く生死という迷いの世界を離れて、さとりの世界である
浄土に生まれることができる、と述べられます。後の和讃では、何ものにも妨げら
れない金剛堅固の信心が私の身に定まったときに、阿弥陀如来の智慧の光明は、煩
悩具足の私たちを摂め取って、迷いの世界からさとりの世界へ導いてくださる、と
述べられるのです。
(林 智康)

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