2021年2月のことば 念仏者の人生はまさに慚愧と歓喜の交錯

はじめに

今月のことばは、梯宵圓師の言葉です。師は、一九二七(昭和二)年に兵庫県飾磨郡、現在の姫路市に生まれられました。今でいう大学進学のために、大阪の摂津富田にある、浄土真宗本願寺派の私塾ともいうべき行信教校に入学され、縁あってそのまま行信教校に身を置いて、浄土真宗の教えの研錐に励まれました。さらに、諸先生方の勧めもあって大阪教区阿倍野組の廣毫寺に人寺されました。その後も行信教校で後進の育成に従事され、校長まで務められました。宗門においては、浄土真宗教学研究所(現浄土真宗本願寺派総合研究所)所長、宗学院講師などの任にも就かれ、二〇一四(平成二十六)年にご往生されました。早いもので、この原稿を書いている二〇二〇(令和三年五月七日が七回忌でした。
私は、浄土真宗教学研究所の前身であった教学本部で師が副講師を務めていらっしゃった一九八六(昭和六十コ年の夏にお会いして以来、ご往生されるまでさまざまなご縁をいただきました。具体的には、教学研究所が発足した時には上司となっていただきました。また、梯先生―ここからは「先生」と表現します–に誘われて、行信教校での講義を担当することにもなりました。
それ以前から親交のあった行信教校の利井明弘校長は、「梯先生はサイボーグみたいな人だ」とよく評していましたが、それは記憶力のことかもしれません。さまざまな分野に興味を持ち、何でもよくご存じでした。「博学」あるいは「ウォーキングディクショナリ(生き字引)」とでもいうべき方でしたが、お念仏申すことを何よりも慶ばれる先生でした。

不思議なご縁の中に

先生は、前述したように縁あって入寺し住職となられました。先生は、念仏者・僧侶としての人生を送るようになりましたが、それは本当に不思議な縁だったと、話されていました。終戦前後に入学しか若かりし梯先生(旧姓は「北」でした)が当時歩もうとした人生は、念仏者・僧侶としての人生ではなかったであろうと思います。山本佛骨和上や桐渓順忍和上をけじめ、利井興弘先生など、行信教校で出遇った先生方、すなわちお念仏申す善知識の方々とのご縁の中でお育てを受けられたのでした。
梯先生の一番弟子である天岸浄圓先生が、恩師の葬儀の際に伝えられた逸話があります。梯先生はご往生の前年末より体調を崩され入院されていました。いよいよ臨終の近いことを覚悟された奥さまが、先生に「五十六年間、ほんまにありがとう。ほんまに楽しかったね」と声をかけられたそうです。その時先生は、笑顔を見せつつ「今も」と一言だけ応えられたそうです。どんなに苦しい状況であっても、まさに今を生きることの有り難さと、感謝申す人生のかかじけなさを伝えてくださっています。
先生は、行信教校において、お念仏申させていただく人生の「豊かさ」や「しあわせ」を聴聞し、そのことを多くの善知識のお育ての中で自らの人生を通して味わ
つて来られたのでしょう。それはまったく「不思議なご縁」としか言いようのないものだったと想像します。
その行信教校の一日は朝の勤行から始まりますが、その中で親鸞聖人の『教行信証』「総序」のご文を全員で唱和します。それは、「一月のことば」でも紹介した、

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた壊劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正
法、聞思して遅慮することなかれ。        (『註釈版聖典』 一三二頁)

です。この「総序」唱和の伝統は、きっと梯先生か入学された頃も同様だったと思います。新入生も半年も経つと、このご文がスラスラと出るように身に染みこんでしまいます。 唱和する度に「摂取不捨の真言」、すなわち阿弥陀さまのみ名のおいわれを「聞思して」、法味を深めていかれたのでしょう。まさにこれこそが、天親(世親)菩薩のいう「法界等流の聞薫習」の姿-「真実まことの世界(お浄土)から、今日のわが身の上にはたらく如来の心(智慧と慈悲)を身に染みこむまで繰り返し聞く」というあり方-だと思います。

智慧と慈悲は「鳥の両翼の如し」

仏教徒とは、仏・如来の教えを帰依処とする者です。その仏・如来は智慧と慈悲のことですが、両者は不一不二なるものです。つまり、慈悲を伴っていない智慧は仏の智慧ではなく、智慧に裏付けられていない慈悲は如来の慈悲ではないのです。
恩師の長尾雅人(京都大学名誉教授)先生に、仏の智慧と慈悲は「鳥の両翼の如し」あるいは「車の両輪の如し」と教えてもらいました。
よく知られたことですが二仏陀(仏)」とはサンクスワット語のブッダ(回良江)の音訳で、「覚者(めざめた者)」と意訳されます。それは「智慧」を意図しています。一方、「如来」とはタターガタの意訳です。この言葉の解釈について、天親菩薩は①[{tatha+gata}と②[tatha+agata}という二通りを示します。前者①は
「如(真如・真実)に去る(行く)」で、後者②は「如から来る」の意味となります。前者は、「迷いの世界から真実の世界へ去ること(行くこと)」で、「真実を覚ること」によるめざめた智慧を意味します。後者は「真実の世界から迷いの世界に還って来ること」で、迷い苦悩する人々に寄り添う慈悲を意味します。すなわち、「如来」とは智慧に裏付けられた「慈悲」のはたらきを意味します。

 親鸞聖人は『教行信証』の中の「正信褐」で、

極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ) 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)

煩悩耶眼雖不見(ぽんのうしょうげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)  (『日常勤行聖典』言舌])

(極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。『註釈版聖典』二〇七頁)

といわれています。「摂め取って捨てない」という如来の智慧と慈悲のはたらきの中に「私」はいるのですが、煩悩に遮られて身勝手な私の眼ではそのことがわからないのです。しかし、如来の大悲はいつでもどこでも私を見通し、倦むことなく照らし続けてくださっているのです。その証拠が、今、私の口からこぼれている「南無阿弥陀仏」なのです。その念仏は「智慧」に裏付けられた「慈悲」そのものなのです。

「歓喜と慟愧」の尊さ

さて、私たちは成長するにつれて、「若い頃にもっとしっかり勉強しておけばよかった」などと思うことがあります。また、「○○をやってて良かった」と喜ぶことも、よくよく考えてみると親や先生などに「○○をしておきなさい」と勧められたからであったりします。むしろ若い当時は、「どうしてこんなことをしなければいけないのか」と不平不満を抱さながら、嫌々ながらやったことだったりします。なぜならば、若い頃の「私」は自分一人で大きくなったと思い、身勝手に自分の好きなことばかりをしてしまうのです。しかし、それは若い頃だけではないように思います。
三十歳、五十歳や七十歳になっても、いつでもどこでも私たちは、「そんなことをして何の役にたち、何の得になるのか」などと目先の損得勘定で、その時を生きています。あるいは「なぜ今、こんなことをする必要があるのか」などと、身勝手で利己的なご都合主義の中で生きています。すなわち、歳を重ね何歳になっても自己中心的な欲望に振り回されて、「今」を生きています。
世間には「失って初めて気付く親の恩」という言葉があります。親の恩だけではなく「ご恩」というものは、自己中心的な「私」にとって、悲しい哉、失うことでしか気付けないものばかりなのかもしれません。「親の恩」とは数多ある「ご恩」の象徴なのです。
仏の教えは、仏・如来のありようを「親」によく讐えて示されます。過去の「私」を振り返りつつ、未来の「私」を見据えつつ、今現在を生きることが大切です。そのことはわかっていても、自己中心的な「私」は身勝手な欲望のままに目の前のことしか見えていません。そんな「私」を見捨てることなく、いつでもどこでもはたらき続けているのが「親心」です。それをもって仏・如来の心を讐えるのです。しかも、常に「私」を見捨てることなく寄り添い続ける「親心」がわからないまま、「今」を生きています。その「親心」に何かの縁で触れて気付いた時、「かたじけない」という歓喜と「もうしわけない」という「慟愧」があるのです。これが「ご恩」の内実だと思います。

「末通るもの」のかたじけなさ

誰にでも親がいますし、その親にも親(祖父母)がいます。さらに、祖父母にも親がいるというように、「いのち」には必ずその「いのち」を育む「親」がいますが、それらに「末通るもの」が「親心(親の願い)」の讐喩で、如来の「智慧と慈悲」を意図しています。一方、この娑婆での親自身は、この苦悩多き世界の愚かな人間でしかありません。私も親ですが、悲しい哉、煩悩成就の身勝手な親でしかありません。
たとえどこまでも子に寄り添う優しい親でありたいと思っても、この娑婆のことにしか寄り添えません。しかし仏・如来は、過去を含めた今現在の身勝手な「私」を丸ごと「わが子」と認めて寄り添ってくださり、その「私」のいのちの往く先まで寄り添ってくださるのです。それが「智慧」に裏付けられた「慈悲」なのです。
私の称える「南無阿弥陀仏」とは、今を生きる身勝手な「私」を丸ごと認めてくださる「親心」なのです。お浄土から「必ず救う」と喚び覚ましつづける「親」の名告り(名号)なのです。聞法生活の中で、この身勝手な「私」にかけられた如来の智慧と慈悲、すなわち阿弥陀さまの「親心」を聞信して、ご恩の一つでも気付かせていただきましょう。

今月のことば「念仏者の人生はまさに漸愧と歓喜の交錯」とは、聞信の中でまさに「歓喜」と「懺悔」の交わる人生であり、それこそが先に紹介した「総序」のご文の内容なのでしょう。共にお念仏申しながら、聴聞のご縁を大切にいたしましょう。

(内藤 昭文)

カテゴリー: 法語カレンダー解説 パーマリンク