2021年1月のことば 私を生かしておる 力というものに 帰っていく歩み それが仏道

はじめに

今月のことぼは、宮城顎((みやぎしずか)師(法名・憚智雄)のものです。宮城師は一九三二昭和六)年京都市に生まれ、二〇〇八(平成二十)年に七十八歳でご往生されました。私は師のことをよく存じあげていませんが、大谷大学文学部卒業後には大谷専修学院講師・教学研究所所長・九州大谷短期大学教授や学長を歴任しながら、真宗大谷派本福寺の住職をされておられました。最晩年の二〇〇五(平成十七)年の五月に、東本願寺で開かれた「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」の真宗本廟お待ち受け大会で「汝、起ちて更に衣服を整うべし」と題しか記念講演をされています。その直後から闘病生活に入られたそうです。
その師の講義や講演、あるいは法話は、『宮城顎選集』(法蔵館)として出版されています。そこに見られる師の姿勢は「聞思」ということです。それは、親鸞聖人の『教行信証』「総序」に、

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。                           (『註釈版聖典』 言一二頁)

とある「聞思」です。つまり、仏法に自分のいのちの営みを聞き直し、思惟することでしょう。それも「摂取不捨の真言、超世希有の正法」、すなわちお釈迦さまが『仏説無量寿経』で顕された阿弥陀さまの御名のおいわれを「聴聞」することによってです。換言すれば、『仏説無量寿経』の仏語に聞思することこそが大切です。

今を生きている「いのち」を知らされる

さて、私たちは不思議な因縁によって生まれ、因縁の中で歳を重ね、どこか病みながら、臨終の一念を迎えるのです。この「生・老・病・死」こそが「私」の「生きている」ありようなのです。確かに、お釈迦さまや親鸞聖人などの在世当時とは、その「いのち」を取り巻く環境や社会情勢などは随分変わっていますが、「生・老・病・死」という「いのち」そのもののあり様は何も変わってはいません。
また、この「生・老・病・死」の「いのち」の姿は、いわゆる私たち「人間」であれ、犬や猫であれ、さらには梅や桜であれ、同じです。さらに、そんな「いのち」を「生きている」とはどういうことなのでしょうか。寝て起きて、食事をして、身体などを動かすことなのでしょうか。

曇鸞大師は『往生論註』で、『荘子』「逍遥遊篇一」から引用して、

  「姉姑は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。           (『註釈版聖典(七祖篇)』九八頁)

と述べています。「能姑」とは、蝉-一説には夏蝉の「ツクツクボウシ」あるいは「ヒグラシ」-のことで、「朱陽の節」とは夏のことです。一般的に、蝉は上の中で幼虫として数年から十数年を過ごし、成虫になって地上に出て、「蝉」としては数週間で死んでいきます。したがって、蝉は春と秋を知らず短い夏を一生とするから、この蝉という「いのち」は、自らが「生きている」夏について春と秋と同じく何も知らないというのです。換言すれば、春と秋を知るものだけが「夏」とはどのようなものであるか知ることができるというのです。
この曇鸞大師の讐えを踏まえると、私たちは不思議な因縁によって生まれる前と、歳を重ねどこか傷みつつ臨終を迎えた後を知って、今を「生きている」ということがどのようなものであるかを知ることができるのです。しかも、私たちはその「生・老・病・死」の「いのち」をありのまま受け入れられず、「老・病・死」を忌み嫌って、歳を重ねどこか痛むことを「つまらんようになった」と愚瑕をこぼしてしまいます。それでは、いくら「いのちを大切にしましょう」と言葉にしても、私自らが一番「いのち」を粗末にしていることになります。
また、生きている今を認めることができないばかりか、その生きている今の「いのち」のあり様を身勝手な考えI「歳を取りたくない、死にたくない」―で見ているかぎり、そこには今を「生きている」ことの慶びも感謝も生まれ難いように思います。

親鸞聖人の慶び

親鸞聖人は、先に紹介した『教行信証』「総序」の言葉の直前に、

  ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲かかし。た  またま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた礦劫を経歴せん。          (『註釈版聖典』一三二頁)

と述べられています。端的に言えば、私たちの自己中心的で身勝手な考えで「いのち」を見ているかぎり、これからもまだ迷いの中で、今を「生きていること」を慶べず、苦悩し続けるしかないのです。そのような私だけれども、今念仏申させていただく中に、如来さまの智慧と慈悲を恵まれていたことを慶ばれているのです。
それは、煩悩成就のわが身では知ることはできなかったが、如来の智慧によって「無始よりこのかた迷いの世界を流転し」てきたわが身であったことを知らされて、そこに今の「いのち」の姿を知らされたのです。同時に、そんな身勝手なわが身を「必ず救う」という「南無阿弥陀仏二摂取不捨の真言」の慈悲によって、臨終の一念には「浄土に往生させていただく」身であることを慶ばれているのです。すなわち、慈悲と一体の智慧により今の「いのち」の前のあり様を知らされ、智慧と不一不二の慈悲によってその「いのち」の後の姿のあり様を知らされているのです。換言すれば、まさに今の「いのち」のあり様を知らされ、その「いのち」の往き先を信知させていただき、今を「生きている」ことがどのようなことであるかを知らされるのです。

「生死いづべき道」を聞く

今も昔も自坊の門信徒の方々は、報恩講が近づくと、お寺の行事にあやかって「法行寺寒が来る」と言います。つまり、「寒波」が来るのです。私か小学校に上がった頃でしたが、ミカン箱と竹でソリを作り遊んだ記憶があるほど大雪になったことがあります。参り合わせをしている隣寺の専修寺の住職さんが夜座の出勤のためにやって来られ、玄関で下駄に付いた雪を落としながら、私の父親の名前を叫ばれました。そして「大雪子、今日は誰も参って来れんぞ」と言うと、父親が「それなら、お経さんだけで勤めさせてもらい、終わろう」と応えました。その声を聞きながら、私は「正座の時聞か短くなるな」と嬉しくなった記憶があります。案の定、家族だけの参拝者でお勤めが終わろうとした、まさにその時です、カタカタと本堂正面の戸が開きました。見ると「キクさん」と呼ばれるお同行さんです。
普段どおり家を出たのでしょうが、思わぬ大雪で行事を知らせる喚鐘には問に合わなかったのでしょう。内陣から降りてきた父親が、向拝の横で雪を払っているキクさんに、「よう参つたな。今夜は雪で誰も参りがなかろうから、お経さんだけで終わろうと専修寺さんと話しちょったんじや。お茶でも飲んで、専修寺さんに送ってもらいない」と言いました。「そうかえ、そうかえ」と相づちを入れながら聞いていたキクさんの口から、「生死の話炉聞きたかったな」という声がこぼれました。その言葉を聞いた父親が「一席、話そう」と言ったのです。子ども心にキクさんを恨んだものですが、「生死の話」という言葉だけは忘れられなくなりました。まさに、今を生きている「いのち」のあり様と、その往き先を聞かせていただくために、キクさんは大雪の中をやって来られたのでした。

今の私の姿

さて、生まれたばかりの私は自分で乳を飲むことなど何もできず、両親や祖父母、あるいは有縁の方々の願いとそのはたらき(力)で育まれたのですが、そのことを忘れています。そればかりか自分の力で生まれてきて、大きくなり、今を生きていると思っています。確かに、今は自ら仕事をして生活しています。そのような力、つまり体力・学力・知力・経済力・権力などは「生活力」ではあっても、「生きる力」ではないように思います。むしろ、このような力が自らを傲慢にし、ご恩のわからない「いのち」にしていると言えます。
『歎異抄』に伝えられる親鸞聖人の言葉に、

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、か
の土(浄土) へはまゐるべきなり。
(第九条、『註釈版聖典』八三七頁、括弧内引用者)

とあります。それは、わが縁ある方々と同じように、生老病死の「いのち」の往き先(お浄土)があることを知らされ、生きている「今」を「なごりをしく」思える「いのち」のご縁として、愚裔のこぼれる中にも慶びを味わえる生活にさせていただくことだろうと思います。そのためには、如来の智慧と慈悲が今を生きている「私」の上に「南無阿弥陀仏」となってはたらいていることを、聴聞簡思)すること以外にはないのです。なぜならば、生まれた以降に受けたご恩を当然のことと思ったり、忘れて生活しているのが今の「私」だからです。「南無阿弥陀仏」のお念仏は、今苦悩する「いのち」そのもののあり様を知らしめるために、いつもでどこでも「私」に寄り添い続ける如来の智慧と慈悲なのです。
そんな今の私を見捨てることなく願っている力、すなわち如来の本願力の源(お浄土)にかえらせていただく「いのち」の道を仰ぎつつ、念仏申す日暮らしを一緒に歩みましょう。それを表現しているのが今月のことば「私を生かしておる力というものに帰っていく歩みそれが仏道」である、と味わっています。
(内藤 昭文

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