2021年11月のことば 人間そのものの目ざめを 呼びかけているものが 如来の本願である

先生の生涯

今月のことばは、本願寺出版社の前身である本願寺出版協会編集の『浄土真宗を理解するために』に収められている、中西智海先生のお言葉です。この本は七名の先生方による共著となっていますが、中西先生のご担当は「第七章『本願』が問われるとき」という内容のものです。
先生は一九三四(昭和九)年に、富山県氷見市にある浄土真宗本願寺派西光寺にお生まれになりました。晩年、ご本人が自らの人生を回顧された言葉の中に、

若い頃の一時期は、仏教に疑問を抱いたこともありました。しかし、やはり生まれ育った環境が影響するのでしょうか、仏教という何か大きなものに包まれ安堵する気持ちと、子供の頃に自然の中で暮らし培われた感覚との間に共通性があったように感じます。さらに、仏に手を合わせる母の姿を見て育ったということも、この道に進む大きな影響力となったと思います。
(東京都中央区HPより)

と、自らが仏道に誘われたご縁を振り返っておられます。
先生は西光寺住職を務められる傍ら、本願寺派関係諸学校にて永年にわたり教鞭を執られ、真宗僧侶・同行の育成にご尽力をいただきました。またその間には、ブラジルにおいて南米開教区の開教総長として、海外における伝道教化にも貢献されています。その後も本願寺築地別院(現築地本願寺)の輪番、また勧学(真宗教学の最高学階)として、私たちに浄土真宗のみ教えを現代的な視点で説き明かし導いてくださいました。このように数多くのご功績を残された中西先生でしたが、二〇二一(平成二十四)年にご自坊である富山の西光寺において往生なさいました。御年満七十八歳のことでした。

人間の願い

さて、今月のことばについて味わってゆきましょう。
先生はこの本を通して、人間(私)の「本当の願い」とは何かについて読者に問いを投げかけられています。

   人間がほんとうに生きることが問われるとき、〈人はパンのみにて生きるにあらず〉という言葉を引用するまでもなく、人間そのもの、生きることのほんとうの意味、心の底のねがいを掘りあてねばならぬという人間の実存の問題に出
会わねばならぬ。(中略)たしかに生存・生活の問題は、表面的で、激しく、大きいものであろう。(中略)しかし玉きることの本当の意味は)見えないから無いのではなく、見えない根こそもっともよく知らねばならぬものである。
(『浄土真宗を理解するために』九六頁、括弧内筆者)

先生は、人間が生きる「願い」について二つの方向があることを示されています。
一つは生存・生活を向上させたいという願いです。
人はがれでもが、衣食住のすべてが整い、健康であり、地位や名誉が与えられることが、幸せの絶対的な条件であると信じながら生きています。いや、そのことが「生きることの目的」であるとさえ確信している人もいるのです。しかし本当にそのことが「生きることの目的」と言えるのでしょうか。
作家の太宰治は作品の中で、このような人間(自分)のあり方について主人公の言葉を通してその内心を露呈しています。

  人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ。                  (『人回失格』 一三頁、角川文庫)

生きる目的

あなたは「なぜ働くのですか」と問われたならば、何と答えるでしょうか。きっと「働かなければ食べていけないから」というのが答えだと思います。では「なぜ食べなければならないのですか」と問われたらどうでしょうか。答えは決まっています。「食べなければ死んでしまうから」なのです。それでは最後に、「食べていたら死なないのですか」という質問に対してはどうでしょうか。その答えは一つしかありませんね。「いや食べていても、いつかは死なねばなりません」だけなのです。生きるために生きていると思っていた私は、実は死に向かって生きていたのです。
これが私のいのちの事実です。この事実が、理屈ではなく自らが受け止めなければならない現実となった時、今まで幸せの絶対条件であると信じ追い求めてきた、地位も名誉も財産も、すべてのものが砂で造った城のように儚く崩れ去っていきます。そして今まで生きていることを前提として求めていた「願いの根幹」が揺すぶ
られるのです。私は、いったい何のために生きているのでしょうか。
ここに、先生が示されるもう一つの人間の願いの方向が明らかになります。それは人間の実存に関わる願いです。つまり「私とは何か≒なぜ生きているのか」という問いであり、そのことを解決して生と死に惑うことのない「安らかで本当に豊かな人生を歩みたい」という、人間としての根源的な願いのことなのです。

人間としての目覚め

私か住む佐賀県内に「佐用姫伝説」という逸話が伝えられています。紙面の都合上、その内容をここでは紹介できませんが、この伝説の主人公である佐用姫という女性の巨像が、町おこしの一環として、出身地である厳木という町に建てられた時の話です。高さが十四メートルほどある真っ白な巨像が高台の上に建っているので、どこから見てもその姿は一目瞭然です。初めてその像を見た私は、早速友人にそのことを話しました。すると、その友人も最近その像を見たというのです。しかしどうも話が合いません。私か見た佐用姫は確かに北の方角を向いて立っていました。
しかし、友人は「いや西を向いている」と言い張るのです。少しムキになってきた二人は、じゃあ真相を(ツキリさせようと町役場に電話をしたのです。すると担当者曰く、「あの像は可動式で、二十分で一周するようなっております」とのこと。二人は唖然とした後、腹を抱えて大笑いをしました。
私は絶対的な自信がありました。友人も同じです。しかし真実は見えていなかったのです。自分は絶対に間違いがないという思いが真実を見る目を曇らせ、相手の言葉さえも疑心という刃でそのいのちを奪おうとしていたのです。親鸞聖人はこのような私のあり方を「無明の闇」を生きる愚かな姿なのだと厳しく諭されるのです。
これは人間の根源的な生死の問題についても同じです。深い迷いの中にありながら、そこが迷いの場所であることさえ知らずに、日常生活の中に幸せと快楽を求め続けながら生きています。自らのいのちの事実と真摯に向き合うことなく、死はいつも他人事なのです。

しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにして、身の営務を勤めてもつてみづから給済す。
(『仏説無量寿経』、『註釈版聖典』五四頁)

ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。『浄土三部経(現代語版)』九五~九六頁)

まことにお釈迦さまの言葉が身に染みてきます。本当に急がなくてはならないことをなおざりにして、目の前の欲望を満たすことだけに、毎日をあくせくと働き続けているのが、私の姿なのです。

如来の本願

このような人間の姿を観見し、それは自らの罪業であると抱き悲しみ、私の苦悩の人生に無量の光といのちを恵み与えて、安らかで真実なる世界(浄土)へ迎え入れようと誓われたのが、如来の本願でした。無智なるがゆえに自らの人生を暗闇へと暗転させ、他人を傷つけ、そして己さえも傷つきながら無明の闇を迷い続ける私。そのことを私に知らしめ、救いの灯矩を掲げるために成就されたのが、本願の名号(念仏)だったのです。

如来の作願をたづぬれば

苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまひて

大悲心をば成就せり

(『正像末和讃』、『註釈版聖典』六〇六頁)

阿弥陀仏が願いをおこされたおこころを尋ねてみると、苦しみ悩むあらゆるものを見捨てることができず、何よりも回向を第一として大いなる慈悲の心を成就されたのである。

(『三帖和讃(現代語版)』 一五二頁)

そこが迷いの世界であることさえ知らず、邪見と僑慢の苦海に浮き沈みする私に向かって「自らのあり方に目覚め、如来の本願を信じ、浄土を目的としてその人生を歩め。我が名を称えよ」と、阿弥陀如来はI南無阿弥陀仏1という名号となって、私にまことの生き方を示してくださいます。今月のことば「人間そのものの目ざめを呼びかけるものが如来の本願である」とは、今の私のあり方を問い、真実の生き方を示された言葉であることは言うまでもありません。
(田中 信勝)

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