何にであうか
春先に、境内に咲いた花を見ていました。山間部の自然に囲まれた場所なので、さまざまな花が咲いています。
見ているうちに、ふと、その香りと共に、かすかな音がすることに気がっきました。花が音をだしているわけではないのですが、低いゾーンという音がするのです。
すると、ひとつの花弁の陰から小さな羽虫が出てきました。「あっ、「チかな?」と思って周りを見ると、それまで気がつかなかっただけで、咲いている小さな花の間を群れ飛び交っています。
山門の横の塀の隙間に(チの巣があり、春になって活動を始めたのでしょう。せっせと小さな羽を動かして忙しそうにしています。一生懸命働いている姿を見ながらふと、この(チはどんな(チミツを作るのだろうと思いました。
数日後、(チに詳しい門徒さんにいろいろと教えてもらいました。私か見ていたハチは、ニホンミツバチの種類だろうということでした。ニホンミツバチは黄色い7部分が少なく、小さいのが特徴なのです。
ハチミツについても、れんげ(チミツ、アカシア(チミツのように集めてくる花で名称が違い、いろんな花から集めたものは百花(チミツと呼ぶことを知りました。
ミツバチが一生懸命羽を動かして集めるハチミツは、花の種類によって香りや味わいが変わるのです。
であう花によって(チミツの香りや味が変わるように、私たちも、何にであうかによって人生のありようが変わるのではないでしょうか。
一生懸命生きることは人それぞれに変わらないことだとしても、何にであうかで味わい方は大きく変わるのだと思います。そして、どのような教えに支えられて生きているのかということがとても重要であると、ミツバチの姿から教えられました。
願生心なき身
私たちは、阿弥陀如来の願いを受けて生きている身であり、私を支えている生命の豊かさにめざめよ、と勧めてくださっているのが藤元正樹先生です。
墜冗正樹先生は真宗大谷派の僧侶で、兵庫県たつの市にある圓徳寺の住職でありました。一九二九(昭和四)年生まれで、真宗大谷派の真宗教学研究所員や真宗大谷派同和推進本部(現解放運動推進本部)委員を務められます。執筆活動や講演会など、伝道布教に尽力をなさり、二〇〇〇平成十二)年四月十六日にご往生されました。
今月のことば「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」は、先生の著書『願心を師となす』(東本願寺出版)に出てきます。短い文章でありながらも、二度「願い」という言葉が出てきます。最初の願いは私か起こす願いのことです。『願心を師となす』には、
人間というものに願心があれば、願心というのは別の言葉でいえば求道心ともいえるし菩提心といってもいい。特に仏教の場合は菩提心といってもいいんでしょうけど
と述べられています。私か起こす願いとは、ただ単にあれが欲しいとかこれが欲しいという願望を満たすような願いのことではなく、阿弥陀如来の浄土に生まれて仏と成りたいと願う心のことなのです。
そして、実際にこのような心を持っているのかという問いに対しては、親鸞聖人にとって一番の問題は閑提にある。つまり成仏の可能性をもたないものです。言葉を代えれば、それはまさしく菩提心なんてものを認めないということでしょう。
とあります。仏となる道を歩もうという心を起こすことができるなら、すでに仏道を歩んでいるはずです。しかし、仏道を好むよりも世俗的な快楽を追求するのみで、さとりを求める心が起こらないのです。成仏することができないものを、仏教では「閏提」とか「一間提」と表現しています。
そして、どこをさがしても願生心なんかないものが真宗の教えの機であります。
と述べられます。ここで「機」とあるのは教法に対する言葉で、仏の教えをこうむるべき対象のことをいいます。仏となる道を歩めないもの。浄土に生まれて仏と成りたいと願う心が起こせないもの。そのようなものこそが救われていく教えが浄土真宗であり、その教えの中心は阿弥陀如来の願いであると説かれるのです。
願いをかけられた身
今月のことばの二つ目の「願い」は、この阿弥陀如来の願いのことです。
阿弥陀如来の願いはすべてのいのちへと注がれ救済の対象とされていることを、どんな人間であろうとも、己れに願いがなくても、如来の願いを受けた身だと。
それを親鸞聖人は言い当てようとするんです。自分に仏法を求めるような心はないけれども、仏法を求める心はないものだから、どうにもならんというのでない。己れに願心はないけれども、如来の願心を受けた存在である
と述べられています。この世界を生きることで精一杯、仏教のような教えには無関心で、私にはまったく関係ないものと決め込んで生きているようなものも、阿弥陀如来の願いを受けた存在なのです。
その阿弥陀如来の願いは一方的に届けられていることを、
よくよく考えてみたら寝ていようと起きていようと、とにかく願いを受けた身
であった
と味わっておられます。阿弥陀如来の一方的な願いによって私たちは仏教の教えを聞き、南無阿弥陀仏とお念仏申す身となっているのです。このことは、願いには人を育み成長させる力があることを示しています。
阿弥陀如来の願いに学ぶ時、人は願いなくして生きることができないことを教えられます。
先生は、どのようなものであっても何かの願いを受けて生きていることを、
こんな大がと思っても、こんな大はどうにもならんやないかと思うけれども、その人の母か、その人の父か、その大の奥さんか誰か知らんけれども、その人間が生きているということは誰かの願いを受けて生きとるんです。己れに願いはなくとも願いをかけられた身だということ (同頁)
と述べられています。ここに、今月のことば「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」があります。
私の方からお願いもしていないのに、私のことを案じ、一方的に注がれている願いがあることに気づく時、自分の力で生きてきたと思っていたことが、生かされているという受けとめへと転換されていきます。
そして、生かされていることに気づく時、生きることが豊かなものであるという思いが湧きだしてくるのではないでしょうか。
お願いすることもなく、精一杯生きてきた私ですが、すでに阿弥陀如来の願いを受けて生かされている確かさを南無阿弥陀仏によって知らされているのです。『歎異抄』の「後序」には、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかかじけなさよ (『註釈版聖典』八五三頁)
と、親鸞聖人のご述懐が記録されています。阿弥陀如来が五劫もの長い間思いをめぐらせてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この私一人をお救いくださるためであった。思えば、この私はそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思いたってくださった阿弥陀如来の本願の何ともったいないことであろうか、という仰せであります。
仏になりたいと思えない私か、阿弥陀如来の願いによって南無阿弥陀仏と申す身となっている。そのことを「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」と表現されたのです。
育み続けているもの
私に注がれている願いにはなかなか気づけないものです。だからといってないということではありません。願いには必ず気づきを与える力が具わっています。このことを、ある門徒さんから教えてもらいました。
数年前のことです。百歳のお母さまを見送られた息子さんの思いでした。
一周忌のお勤めの後、その方が、
「住職さん、今日は本当にありがとうございました」と、心の底からすっきりした表情でおっしゃったのです。
「いやあ、実はね、どうしてこんなことしないといけないのかと、正直面倒だなあと思っていたんですよ。でもね、いろいろと段取りを考えているうちに考え方が変わっていく自分に気づいたんです」
弟さんが体調を崩されたのがきっかけで、もしお母さまが生きておられたら心配するだろうなと思われたそうです。
「母だったらどう接するだろうかって考えたんです。母は、小学校の給食を作っていました。父が早くに亡くなったことでたいへんだったけど、いつも美味しいもの、滋養の付くものを、僕たち兄弟に食べさせようとしてくれました」
私も、お母さまが作った食事をいただいたことがあります。今もそのポテトサラダの美味しかったことを思い出します。
「弟のことを考えると母は辛かろうと思う。母に代わってできることをしてあげようと思って、弟が元気になれそうな食べ物を考えてたんです。それでね、わかったことがあるんです。私も同じように母から大事に思われていたんですね。母のためにと思っていた自分かまちかっていたと気づいたんです。母に育てられたから私かあるんだと教えてもらいました。
だから住職さん、ありかとうと言ったんです」
というお話でした。
生まれた時からお願いもしていないのに一方的に願いを受けてきた身だからこそ、自然と知らされていくことがあるのだと、この時教えてもらいました。それまで気づいていなかっただけで、ちゃんと受けた願いのとおりに生かされている姿があるのです。
薯几正樹先生は、
人間の生涯なんてものは氷山の一角みたいなものですが、法海の中に隠れている部分、親鸞聖人はそれを言おうとされているんです。
と、『願心を師となす』の最後にしめくくっておられます。
願いをかけられた身であることになかなか気づけないものですが、願いは今も私を育み続けているのだと味わわせていただくことです。
(和気 秀剛)