2021年4月のことば 如来さまより最も遠い身が 実は最も近い身でありました

闇を破る光

二〇一八(平成三十)年九月六日、私は北海道札幌市内にある寺院にご縁があって、滞在していました。
その日、午前三時七分に発生した地震は、各地に甚大な被害をもたらします。また、揺れの直後に北海道全域で停電が起こりました。
真っ暗な中、懐中電灯を持って住職さんと一緒に境内の被害状況を確認しました。
境内の外にある信号や、向かいのビルも真っ暗です。私の家族が住む関西から遠く離れていることもあって、大都会の片隅に一人残されたような気がします。お寺にいた何人かで地震の情報を集めているうちに、明け方近くになっていました。
少し休憩しようと廊下に出ました。宣言暗な廊下を歩いていると、光が差し始めたのです。ふと窓の外に目をやると、そこには闇を破って力強く昇ってくる太陽の姿がありました。

なんとあたたかい光だろう。まるで初めて太陽を見たような感じを覚え、同時に、不安を抱えていたことに気づきます。そして、明るくなったことに安心を感じました。
普段は遠くにあって気にもならない太陽が、この時ほど身近に感じられたことはありませんでした。
親鸞聖人は、阿弥陀如来の光明が無明の闇を破ることを「正信掲」に、

  摂取心光常照護 已能雖破無明闇  (『日常勤行聖典』言一頁)
(摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども『註釈版聖
典』 二〇四頁)

と、仰せになられています。ここでいう無明とは、阿弥陀如来の本願に対する疑いのことで、無明を闇に讐えられています。なぜなら、夜の闇は太陽によってのみ打ち破られるように、闇は自らの力で闇を破れないからです。
阿弥陀如来の光明が私に至り届かなければ、自分の力で本願を疑う闇を破ることはあり得ないのです。そこで、阿弥陀如来の光明のはたらきかけによってのみ、本願に対する疑いの闇は破られ、信心が開かしめられると仰せになられたのです。
ですから、南無阿弥陀仏の教えに出遇えだのは、阿弥陀如来の本願のはたらきかけによることがわかります。無明の闇を破られたものは、常に阿弥陀如来の摂取の心光に護られているのです。

光を仰ぐ機縁

今月のことば「如来さまより最も遠い身が実は最も近い身でありました」は、父である和気良晴の『「慶ばしいかな」の人生』(百華苑、以下、『慶ばしいかな』と表記します)に出てきます。二〇〇一(平成十三)年一月十三日、本願寺御正忌報恩講特別講演の法話内容を出版したものです。

二〇〇四(平成十六)年、五十七歳で往生した父は、奈良県五條市、浄土真宗本願寺派圓光寺の住職を務めていました。昨年はちょうど十七回忌でした。
圓光寺の境内には立派な松がありました。根元の少し上から大きく湾曲しており、大人がその下を通れるほど大きく成長した古木です。お寺が建っている場所は吉野地方と呼ばれる山間部で、夜空に瞬く満点の星が美しく、澄んだ空気が特徴です。
夜になると人工的な光はほとんどありません。月がなければ真っ暗です。ですから、月の満ち欠けによって、夜の明るさが異なることがよくわかります。
『慶ばしいかな』には、

「松陰の暗さは月の光かな」という古歌があります。松の木がお月さまの光に照らされますと、松陰が地面に映ります。(中略)松の木を照らす月の光の強さによって、その陰の濃さや暗さが鮮やかになるのです        二一頁)

とあります。父は布教使として各地にご縁をいただき、お世話になりました。最寄りの駅がお寺から遠いこともあり、道中は車で移動していました。夜のお座が終わって、遠く暗い山道を縫うように運転して帰ってきます。駐車場に車を停めた後、家の玄関までの間に、あの松の古木があるのです。
月明かりに照らし出される松陰の濃淡に、自分目身の陰を重ねて見ていたのだろうと思います。
光は強ければ強いほど、陰は濃さを増し、よりはっきりとその輪郭を現します。
光と闇は分けて考えるものではないと思います。光があるから闇を感じ、闇と感じるところに光を仰ぐ機縁があるのです。
誰よりも、最も近い 親鸞聖人は、私たちの持つ貪愛(むさぼり)や瞑憎(いがり)といわれる煩悩と信心の関係を、先はどの「正信掲」のご文に続いて、

貪愛瞑憎之雲霧 常覆真実信心天
讐如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

(『日常勤行聖典』 二了一四頁)

(貪愛・瞑憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。『註釈版聖典』二〇四頁)

とお示しになられます。

私たちの抱えている貪愛・填憎の煩悩を雲霧に讐えて、それは、信心の空を常に覆い隠すようであると仰せです。しかし、たとえ太陽が雲霧に覆われていたとしても、闇はすでにはれて、その下は明るいように、煩悩の雲霧があっても往生のさまたげとはならないのである、と教えてくださいます。煩悩を抱えながらも、阿弥陀如来の光明に照らされて歩む仏道があるのだとお示しくださったのです。
阿弥陀如来の光明に照らされて教えに生きているからこそ、ますます自ら煩悩を抱える愚かさに気づかされます。気づけば気づくほど、阿弥陀如来の願いから私は遠く隔たっている存在であると知らされます。しかし、それは同時に、その愚かさを抱えたまま、そのままの姿で救うとはたらき続けてくださる阿弥陀如来のご本願の確かさを、ますます仰ぐ身となっていくのです。
『慶ばしいかな』には、

  如来さまのご本願に出遇いましたときに、その智慧の光に照らされて浮かびあ  がる私の生きざまは、「悲しきかな」としか言いようのない姿でありましょう。
(六頁)

とあります。そして、私の「悲しきかな」という暗さは、そのままがすでに確かな光のなかに照らされていたからこそ、その暗さがいっそう光のなかで鮮やかになるのです。すでに光のなかにいるからこそ、それが言えるのですね。(中略)光に、すでに照らされていたのでありましたという驚きでもあり、大きな感動でもあります。如来さまより最も遠い身が、実は最も近い身でありましたと転ぜられることへの感動であります。                        (二言()

と、阿弥陀如来の光明に出遇ったよろこびが、「如来さまより最も遠い身が実は最も近い身でありました」と語られています。
弥陀の光明に出遇う前は、とても遠く感じられていた存在が、その光明に摂取され、教えに生きる中で、阿弥陀如来が最も身近な存在であったと受けとめる世界があるのです。
そして、「すでに照らされていた」と述べられているように、阿弥陀如来の光明は手を使って説明してくれます。
「両方の足の親指を、こうして少し重ねて座るのがコツやで。しびれてきた親指の上下を入れ替えると良いんやで。するとしびれがとれる。繰り返したら長いこと座れるよ」
なぜあの時、祖父がわざわざ正座の話をしてくれたのか。それは、私か数日前に、カナダから帰国したことに関わりがありました。
父は、母と結婚してしばらくの間、工業機械の設計技師をしていました。母の実家がお寺だったことが縁となって、数年後、仏教を学び、僧侶になる決心をします。
父が目標にしたのが母の父であり、正座の話を私にしてくれた祖父なのです。祖父はとてもお坊さんらしい人でした。温和で、いつも阿弥陀如来を仰ぐ生活を送っていました。その祖父の姿に感化されたのです。
それから父は開拓精神があったのか、カナダへ渡り、開教使(海外の寺院などで伝道活動に携わる僧侶)になりました。海外の寺院はさまざまな形をしています。父が赴任したカナダのマニトバ州ウィニペグ市にあったマニトバ仏教会の建物は、キリスト教の教会を改築したものです。日本の小学校の体育館のように、一段高くなった舞台のような位置に阿弥陀如来や親鸞聖人が安置されています。参拝するメンバー(カナダでの門徒さんの呼称)は、全員椅子に座ってお参りするのです。ですから、カナダで生まれた私は正座をしたことがなかったのです。
正座をしたことがない小さな孫に、祖父の視線が注がれていました。カナダから帰国した私たち家族は、ご縁があった圓光寺に人寺することになっていましたので、正座をする必要があります。小さいうちから正座に慣れて欲しい、ひょっとしたらそんなことを思っていたのかもしれません。
遠いと思っていた過去のできごとも、振り返ってみると今を支えているということがあるのです。
「如来さまより最も遠い身が実は最も近い身でありました」という今月のことばは縁がなかったら浄土真宗の教えに出遇うことはなかったはずの自分、縁があったから僧侶になった自分、その自分を常に包み込み育んでいる存在があることに気づいた父の人生を表す言葉だったのかもしれないと、この度のご縁を振り返りながら思うことです。
私たちは願われて、その願いの中に生かされているのです。煩悩を抱えながらも、阿弥陀如来の光明に摂取され、護られて歩める道があることをお聞かせいただきました。
南無阿弥陀仏と共に精一杯この人生を歩んでまいりたいと思います。
(和気 秀剛)

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