2021年7月のことば 人間は我を知らず 我ほど 知り難いものはないのである

師の生涯と著作

高光大船師は、文献(『近代真宗史論上局光大船の生涯と思想-』水島見一著、法蔵館、以下参照)によれば、一八七九(明治十二)年に石川県で五百年続いた旧家、高木家の四男として誕生。真宗大谷派専称寺に入寺され、九歳で得度、その後、三代目の住職に就任されます。一九〇一(明治三十四)年に真宗大学予科、そして本科入学(日露戦争勃発)、二十八歳で卒業されます。
この頃に、自らの聞法求道の歩みに決定的な影響を与えた、「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」を基軸とした精神主義を主張する、清滓満之師の『我が信念』「絶対他力の大道」の文と出会い、以後清滓師の門人として私淑、さらには精神主義を継承する暁烏敏、曽我量深両師との出会いの中で、曽我量深師をわが師と仰いでいかれます。
清沢派には歴史派(山辺・赤沼)、観念派(曽我・金子)、人生派(暁烏・高光)があるといかれますが、法兄と慕った暁烏敏師や法友の藤原鉄乗師と高光大船師の三名は「加賀の三羽烏」と称されました。中でも高光師の「信に教学なし」という言葉は、自らの思想を象徴するものでした。仏法は客観的に頭で聞いて理解するものでなく、苦悩の身が聞き、聞いた身が深く頷くところにあるのであって、真の仏法とは体得すること、信心獲得なくしては真宗だりえない。信心は単にお話ではなく生活の中に実行し、「生活と信心が一枚となっている仏教二話がその人と一つになっている生きた仏教」でなければならないとして、煩瓊な論議や釈義で飾る説明を嫌われた、といわれています。
一九〇八(明治四十コ年には教誇師となり、二十七歳に説教を開始され、やがて全国で講演や布教活動を展開して多くの支持を得られました。ただ当初は、ご門徒や村人にはその信仰は異端であり、不信の者として責められ迫害を受けた時期があったようで、本当の仏教を知らずして説教をする資格などないと、自分自身に苦悩されたといいます。しかし「異安心者」と排撃され非難されることがあっても、村人との信頼の成就を願いながら、一寺院の住職として歩まれました。ご子息によれば、体格も大きく飾り気のないその姿から、迫力をもって全身で説法されたようで、「仏教という名に於いてメシが食えなかったら死んでもいい」「いのち懸けの話をしている」と言い放つたといわれます。
信仰活動では、「精神界」に多くの論考を発表。雑誌『旅人』『氾濫』、個人誌『直道』『太原』の創刊。また真人社運動、同朋会運動の礎も築かれました。著書は、戦前の三部作といわれる『生死を超える道』『帰命の生活』『新時代の浄土教』のほか、『時代の目足』『白日抄』など、多数にのぼっています。

仏教にはアイがない

さて、著者の紹介が少し長くなりましたが、冒頭の言葉は二〇〇〇(平成十二)年に高光師五十回忌を期して出版された著書『高光大船の世界 道ここに在り』

(東本願寺人は我を知らず、自已に迷っている。しかも一日として我を上張しない日もなく、我を張らない時もないのである。それほど人間は我を知らず、我ほど知り難いものはないのである。されば世の中の人々の主張ほど優いものほかいばど、
人々は我を知らず自己を知らず迷っているのである。       (二〇頁)

とあります。
私たちは自分の眼で自分の実像を把握することができません。。見ているところも実に狭い範囲でしかありません、しかも他人に対しては悪しきところはよく見えますし、反対に自分の悪しきところは見えない、というあり方をしています。善いの悪いの、損だ得だのとノ目分の心の尺度を基準にして固執します。
好きなことには夢中になってしまうのと同様に、欲や怒り、嫉妬や恨みなどにも没頭し、煩悩一色に陥ってしまうという愚かさも持ち合わせています。人間は本来自分自身については無知であり、自分かいったい何者であるかがよくわかっておりません。自分の外側に立って冷静に見定める確かな眼を持つことができず、どうしても見ている自分自身から抜け出すことができないのです。
かつて、ある学会の夕食懇親会の席で、同じテーブルにおられた某大学教授の先生から、バッジ(スーツの片襟にピン止めして使用する金属製メダル)をプレゼントしてもらったことがありました。その時先生は、「皆さんこれをジャケットに付けて仏教をひろめてくださいね。仏教にはアイがないですから」と言われました。私はおっしゃった意味がよくわからず、〔「アイ」とは「愛」のことなのかなあ?〕などと怪訝に思いながら、手に取って見れば、そこには銀色の表面に白字で「there is ni i in buddha」と彫り込まれた文字があり、それを読んでなるほどと納得できたのでした。
仏教ではあらゆる事物は因と縁によって生じるものであり、不変の実体としての「我」は存在しないと説いています。これが「諸法無我」の道理です。ですから、自我を肯定する西洋的スタンスとは違って、英文法で讐えれば主語がない、いわゆる「i」がない、ということになるわけです。

後日、軽い気持ちでバッジを付けて外出したところ、「それ、なんて書いてあるんですか」と尋ねられたことが何度かあり、「現代人に対する仏教からの問いかけとして、私自身は受けとめています」と伝えました。時には無我の教えや大乗仏教の自利利他の精神について、また世の中の「自分ファースト」の風潮や、「今だけ、金だけ、自分だけ」といった経済至上主義への偏りについてなどさまざまに話題が及ぶことがありました。こうしたさりげない工夫がもたらす伝道の効用について、再認識させていただくご縁となっています。

辞書によれば、世間とは「世」が遷流、破壊、覆真の義、「間」は中の意とあり、世の中の現象は定まりがなく、移ろい壊れゆく存在であり、真実がない、と説明されています。

先に挙げた『高光大船の世界 道ここに在り』の文には、「我ほど知りがたいものはない」「世の中の人々の主張ほど侈いものはない」とあります。
「世の中≒人々」とは他の誰かではなく、他人や世の中の出来事をつい自分ぬきで

評論し、「我」「他」「彼」「此」と分けへだてをし、とらわれの生活を繰り返す私自身のことです。自分のものさしに固執するあまり、自分勝手な言動が表出し、相手を損ない、傷つけてしまうのです。こうした自己・他者・事物に対して執着するという、やっかいな自分自身にいったいどう向き合い、対処すればよいのか。まさに煩悩渦巻く世俗に生きる凡庸な人間にとっては至難のことといわねばなりません。
仏教では教法を聞信し、さとりの智慧をこの身に獲得することをめざします。智慧とは事物の実相を見通す明晰な視野、ありのままを知る心のはたらきをいいます。
智慧は光明であり、煩悩の心を内側から照らし出し、対立や争いによって生じる迷いや苦しみ、その愚かさへの目覚めを促すのです。そして目覚めによって、自分中心の凝り固まったものの見方が破られ、とらわれの縄から少しずつ解き放たれていくことになります。

妙好人源左

『親なればこそ』と考えなされや、そがすりや有難いがのう」と言い、「悪いことは我にこそ付けりや、お慈悲に傷がつかんけえなあ」とも返答されたということです。
「堪忍してくださるお方」とは、直接的には阿弥陀さまのことをさしています。源左さんは、いつも「親様」と慕うみ仏がお助けくださるから「こそ」であり、「お慈悲」に許され包まれていれば「こそ」とよろこばれたのでした。ですから、「われ」が堪忍している、耐えて辛抱しているのだ、という我情が折れてしまって、そこに相手の辛抱がかえって知られるという心の転換がなされているのです。
「有難う御座んす」とは常の言葉でしたが、相手の気持ちや立場に思いを寄せるこうした心の視野は、ひとえに仏法聴聞の積み重ねによって培われたものであったといえましょう。

おごりからご恩への転換

かく私たちの無知の闇、煩悩の妄念妄執を打ち破ってくださるはたらきが仏さまの光明です。阿弥陀さまの智慧は我見を砕き、自己に執着する縄を解き放ち、やがて苦から楽へ、おごりからご恩へと、人間精神の高みに導いてくださいます。執着のつよい私たちにとっては、生涯無我の境地に至ることはありえないことですが、教法に遇うことで凝り固まった心を解きほぐし、衆縁に生かされている身を体感しつつ、心和らぐ生き方をめざすのです。
高光師は、

  夜明けの前は闇にきまつて居る。闇に先立つ夜明けはないことである。人生に  迷はぬ限り人生の闇は知る限りでなからう。  (「信に教学なし」『真人』二号)

といわれ、自身の名利や僑慢の心に涙されました。そして自らの罪業を「暗愚無才な性分」と表現し、

  掃いた畳はきれいになったようだけれど打叩けば埃はむくむくと立上るやうに  久遠の自性が煩悩           (『精神界』 一九一三〔大正二〕年一月)

と告白されています。人間の奥底に潜んでいる偽善を見抜く眼力の鋭さは一流だった、といわれています。
明るさ来たって闇が去るという理かあるように、

  仏に逢ふたら人間闇黒の無能を自覚し、其無能者に神力自在の躊躇なき光明生活を発見せしめられるこそ仏教生活である。  (「信に教学なし」『真人』二号)

と示されたのでした。
ご往生は一九五一(昭和二十六)年九月、七十三歳のご生涯でした。
(貴島 信行)

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