2021年8月のことば まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう

 

先生との出遇い

今月は山本佛骨(ぶっこつ)先生のことばです。これは「喜憂を超えた人-山本佛骨先生をしのぶI」(『花と詩と念仏』梯賓圓著)と題しか文中に出ているもので、原文には、

  御往生の少し前に、病院をたずねたとき、ちょうど病室を変えられた直後でしたが、「いつまでここにいるのか」とおっしゃいますので「お楽になられるまで、もうしばらく御辛棒ください」といったら、「まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう」とつぶやくようにいわれたのが、今もあざやかに思い出されます。
(二一八頁)

とあります。
山本先生は、一九一〇(明治四十三)年石川県に生まれ、一九三九(昭和十四)年から大阪の高槻にある行信教校に学ばれた後、大阪の定専坊住職となられます。そして龍谷大学教授、浄土真宗本願寺派の伝道院長に就任され、一九七六(昭和五十二年には勧学を拝命、安居本講師も務められました。一九九一(平成三)年にご往生されています。研究書には、『道棹教学の研究』『浄土教の教理史的研究』『観経散善義鐙仰』などがあり、講話集や法話集には、『合輯求道者の疑問』『山本仏骨法話集』第一巻・第二巻、『歎異抄のこころ』『火中の蓮華』『人生の眼と足』『無限への歩み』『現世利益の味わいと扱い方』など、数多くの著書があります。
じつは、私の龍谷大学大学院時代の指導教授が山本佛骨先生でした。私は同文学部在学中から伝道に関心を持っておりましたので、学者としては言うに及ばず、布教法に関しても高名な方でしたので、先生のゼミを志望しました。
私の在学当時は、「伝道」よりも「教化」という言い方が一般的で、伝道学に関する研究も少なく、私の記憶では大宮学舎開講で選択科目として「真宗伝道学」という一科目。があっただけでした。その科目を担当されていたのが山本先生でした。
先生は龍谷大学をご退職後、伝道院長に着任されますが、折りしも同時期に私も百日間にわたる住職課程の受講生として、伝道院に入寮しました。院長のご講義では、伝える力や法義伝達への情熱を実感いたしました。布教はどう話すかということよりも、まず教えをどういただいているかが根本的な問題であること。布教はうまく聴衆を感心させようとする技術の問題ではなくして、全生命、全人格があらわれるところに伝道者は心しなければならないこと。また「信仰は生命の対決」であるとよくおっしゃっておられました。
人はこれなくしては生きていくことも死んでいくこともできない、またこれがあればこそ生きていける、これがあればこそ死んでいける、という生死をかけたいのちの問題を解決しなければならない。それには厳しい聴聞をくぐって、蓮如上人が明らかにされた後生の一大事の解決を腹にすえなければならない。こうした言葉には、信仰と教学とが一体となった先生のバックボーンを知ることができました。
個人的には、在学中にご自坊にお邪魔して論文指導を受けたこと、その後ご無理を申して私どもの結婚式の媒酌人をお引き受けいただいたこと、そして学問にたいする厳しさのみならず、法味あふれる語り口でやさしくご教導いただいたことなど、折々のことが今も懐かしく思い出されます。

三業相続の日暮らし

さて、私的なことばかり述べてしまいましたが、今月のことばには先生の信仰体験から溶み出る他力救済の妙味が感じられます。
浄土真宗の救いは「摂取不捨の利益」(『歎異抄』第一条、『註釈版聖典』八三一頁)といわれています。それは苦悩の衆生を必ずおさめ、まもり、すくうという阿弥陀さまの大慈大悲のみ心のことです。「慈」(サンスクリット語ではマイトリ士とは最高の友愛の情をもって、惜しみなく楽を与えようとする心であり、「悲」(同じくカルナ士とは苦しみや悲しみに同感して、苦を取り除こうとする心です。その心はI切のとらわれを離れた絶対平等の心を意味しますから、凡夫の慈悲(小悲)や聖者の慈悲(中悲)をはるかに超えています。
この「摂取不捨」の言葉は、『仏説観無量寿経』の定善、第九真身観に、

  念仏衆生摂取不捨           (『勤行聖典 浄土三部経』二六二頁)

(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。『註釈版聖典』 一〇二頁)

とある文によっています。善導大師は、この文言について『観経疏』「定善義」に「親縁釈」という釈義を設けられています。そこでは、

いろいろの行をよく修めて、それを往生の因に向けるならば、みな往生できる。
どうして阿弥陀仏の光はあまねく照らされるのに、ただ念仏のもののみを摂められるのは、どういう意味があるのか。
という問いを出し、それに答えて、

  衆生が行をおこして、口に常に名号を称えるならば、仏はすなわちこれを聞きたもう。身に常に仏を礼敬すれば仏はすなわちこれを見たもう。心に常に仏を念ずれば仏はすなわちこれを知りたもう。衆生が仏を憶念相続するならば、仏
もまた衆生を憶念せられる。かの阿弥陀如来の三業(聞・見・知)とこの衆生の三業(称・礼・念)とがたがいに離れないから親縁と名づける。

と示されています。
つまり、私か仏さまを敬い礼拝するならば、仏さまはそれを見ておいでになる。
お念仏を称えれば、仏さまはそれを聞いてくださっている。仏さまを念ずれば、仏さまは知ってくださっている。こちらからは見えずとも、気かっかずとも、仏さまは必ず見ていてくださり、聞いていてくださり、知っていてくださる。そんな訳で、仏さまと念仏の行者とは親しい関係で結ばれており、けっして離れることがないといわれるのです。したがって、念仏者は大悲心に安んじて二二業(身・口・意)相続の日暮らしをさせていただくいわれがあると教えられるのです。

仏さまからのメッセージ

そう言えば、真宗門徒の家庭では、子育てする折々に、「ほとけさまが見てはるよ、聞いてはるよ、知ってはるよ」などと、仏さまからのメッセージを伝えてきたと聞いています。私もその教育を受けた一人ですが、祖父母やご両親からそうした言葉がけをしてもらった記憶をお持ちの方も多いと思います。
以前、孫娘が保育園に通いはじめた頃だったでしょうか。居間で親子が顔を近づけて何やら話していた様子でしたが、急に「おかあさんの目のなかにサキちゃんがいる」と大声をあげたことがありました。「どこに、何か、見えるの」と母親が尋ねますと、孫娘は同じ言葉を繰り返していました。どうやら、お母さんの両眼の中に映るまるごとの自分を発見して、おどろいた様子でした。その光景を見ていた私は、まなざしがわが子にまっすぐ向けられるとき、子の姿全体を映し、心の内に摂めてしまう母なる眼力に脱帽せざるをえませんでした。

  まなざしに
とける
とければ
わかし なし
ない わかしに
はなし なし
ただ
まなざしに
とける
とけて
あなたに なる

(『そよ風のなかの念佛』三〇頁、百華苑)

これは中川静村氏の「まなざし」という詩です。
清らかでまっすぐなまなざしに出遇えば、そこに信頼が生まれます。そして信頼が醸成されれば、言葉も必要がなくなって、見ている私自身のとらわれも消えていきます。み仏のまなざしはそのようにして、私たちの汚れた煩悩の心を浄化し、真向きになって信頼と安心を届けてくださっているのです。
ある先生は、「仏さまって何だ」と言って、子どもたちにおヘソの話をされたといいます。「みんなにおヘソがあるのは、それぞれが自分勝手に生きてきたからではないんだ。命を全部もらってきた、いただいてきてるんだ。だからおヘソがあるということは、私か死ぬまでお母さんに頭があがらないということなんだよ」と先生は語られたそうです。
身体の中心におヘソがあるという事実から私たちは逃げることができないのでしょう。先生の意図が伝わったのかどうかは別にして、その後子どもたちが自分のおヘソをジツと眺めている情景が目に浮かぶようです。そして子どもたちはいつしか大人になり、親となり、先生の「おヘソの話」を思い出し、頭のあがらない世界があることに気づく日がきっとやってくるにちがいありません。
阿弥陀さまの広大な慈悲心には、端っこ、隅っこという尺度がありません。それはたとえば球の上に位置しているすべての点はどこをおさえても中心を指し示すようなもので、私をいつも真ん中に据えて支えてくださっているのです。この私を救いのめあてとされる摂取不捨の救いとは、いわば誰一人として置き去りにしたり放置したりしない、決して見捨てることがない心なのです。

摂取不捨の利益にあずかって

梯賓圓先生は、冒頭の山本佛骨先生のことばを受けて、病院にいようと、自宅に帰ろうと、生きようと、死のうと、お慈悲の中だという、この一言に、摂取不捨の利益にあずかって生きる念仏の行者のすがたが言いつくされています。
先生の最初の著書は『喜憂を超えて』でしたが、その題名こそ、先生の全生涯を象徴していたといえましょう。              (二一八頁)

と結んでおられます。
老いの時も若さ時も、善人の時も悪人の時も、この身このままで救われていくというご利益が念仏の行者には備わっています。ですからいつどのような死の迎え方をしても、それは何ら往生のさわりとはなりません。
私たちはただ「まかせよ、必ずすくう」と喚んでくださるみ仏の仰せにすべてをゆだね、大慈大悲をもってもろびとを利益する安楽浄土をめざすのです。
(貴島 信行)

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