2022年 表紙のことば 念仏は まことなき人生の まことを見せしむる

 

はじめに

表紙のことばは正親含英師の言葉です。師は、一八九五(明治二十八)年十一月十六日に姫路市に生まれ、真宗大谷大学(現・大谷大学)研究科を卒業後、真宗大谷大学の教授となられました。また、一九五八(昭和三十三)年から一九六一(昭和三十六)年まで大谷大学の学長を務められました。一九六九(昭和四十四)年十二月二十八日に往生されたのですが、生前に親交のあった金子大栄師からは「本当に救われる道があるということを話しあうことができるのは、あるいはあの人だけではなかったかということも思われる」といわしめるほど、お念仏のご法義に真摯に向き合った方ともいわれています。
この表紙のことばは、師の書かれた『真宗読本』(法蔵館)の第三章に、

  生も死も容易でない。吉凶禍福、さまざまに織りなされてゆく人生は、そのまま仏教にいわゆる六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六の境界をへめぐること)の絵図そのままではないか。けれど、こうして、どうにもならないものが、どうにもならぬままに度されてゆく法がある。それが念仏である。この
智慧の念仏は、まことなき人生のまことを見せしむる光であり、一つ一つ苦悩の経験において、一つ一つの寂かなる、まことのよろこびを見るのである。
(九六頁)

とあるところから採られています。この章では、私たちの人生をご本願のはたらきのなかに歩む横超の道であると説かれており、そのなか、私たちの人生を横超の道として成り立たせるものこそお念仏なのだ、と明らかにされています。その鍵となるのが、この「(智慧の)念仏は、まことなき人生のまことを見せしむる光(であり)」
という言葉だと思います。

まことなき人生

さて、私たちが「まこと」と訓じる漢字には、ぱっと思い浮かぶだけでも「真≒誠」「実」などがあります。「信」も「まこと」と読むときがありますね。他にもいろいろあるようですが、漢字で考えると、「真」の基本的な対義語は「偽」、「誠」の対義語は「嘘」、「実」の対義語は「虚」、そして「信」の対義語は「疑」となりますから、同じ「まこと」でもそれぞれにニュアンスが異なっているようです。「まことなき人生」といわれる「まこと」には、どの漢字が当てはまるのでしょう。
あえていうなら、「実」ではないかと思います。師のいわれるとおり、私たちの人生は「吉凶禍福、さまざまに織りなされて」いきます。よろこびも楽しみもあり(吉・福)、悲しみも苦しみもある(凶・禍)人生です。しかしながら、そのよろこびや楽しみがいつまでも続くわけではなく、地震や水害などにも遭い、悲しみや苦しみを逃れることはできません。そのことを、含英師は「いわゆる六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六の境界をへめぐること)の絵図そのままではないか」といわれるのであり、そうした吉凶禍福に迷うだけであれば、それは実ならざる虚ろな人生といわねばなりません。このような世界を、師は「苦悩の土」とよんでおられるのでした。
昨年は、新型コロナウイルスの感染拡大にともない、重症化して苦しんだ人、命を亡くされた人、そしてその周りで心配し悲しむ人々……、私たちもまた、いつ感染してしまうかわがらずに、漠然とした不安を抱えて日々を過ごしていました。まさに人生は諸行無常であり、何か起きてもおかしくないと実感した一年でした。諸行無常、それは、東日本を襲った震災のときにも思い知らされたことでした。こうした大きな災害や事件だけではなく、私たちの周りには世の無常を思い知る出来事で満ち満ちています。
しかし、この世は無常、本当にそれだけでよいのでしょうか。

諸行無常ということを考えるとき、すぐに思い浮かぶのは鴨長明の『方丈記』ではないでしょうか。『方丈記』は、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。     (市古貞次校注『新訂方表記』九頁、岩波文庫)

という文で始まり、無常観を示すものとして有名です。東日本大震災が起きたときには再び注目されたのですが、それは鴨長明が生きた時代もまた政治的な騒乱が多く、加えて地震などの災害が人々を苦しめていた時代だったことも関係していると考えられます。『方丈記』は和漢混淆文とよばれる文体で書かれた名文で、京都の鴨川のほとりにたたずみ、荒れた都の家々を背に、暗いまなざしで移りゆく川面を静かに見つめる長明のすがたが目に浮かぶようです。
たしかに『方末記』のこの冒頭の文は、この世の無常観を示したものに違いありませんが、正確には仏教の無常観、諸行無常ということを表しているわけではありません。この文から浮かぶ長明は、川のほとりにじっとたたずんでいます。移り変わり変化しているのは彼が見ている目の前の川であり、「世の中にある人とすみか」です。彼はただじっとたたずみ、彼の周りだけが移り変わっていく、その様子を見ているのです。
しかし仏教の諸行無常でいうなら、移り変わり変化しているのは長明白身に他なりません。もちろん、目の前の川も「世の中にある人とすみか」も移り変わり変化していますが、仏教が問題にしているのは私自身のすがたであり、私こそが諸行無常であるということなのです。長明は、もとより下鴨神社の神事を統率する家の出であり、後に出家はしていますが、むしろ歌人あるいは随筆家として名を馳せた人物です。出家遁世の原因も、琴や琵琶などの管絃の名手であった長明か、演奏することを許されていない秘曲「啄木」を演奏したことが知られてしまったためともいわれているのですから、『方丈記』の冒頭の文は仏教の諸行無常というよりも、この世に移り変わらないものなどないということを表そうとしているのでしょう。

まことのこころはなけれども

親鸞聖人が書がれたものにも「まこと」という言葉がたくさん用いられていますが、私か表紙のことばを見たときに思い浮かんだのは、

無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(『正像末和讃』、『註釈版聖典』六一七頁)

というご和讃でした。自分に「まことのこころ」がないということ、それを認めることは容易ではありません。その容易ではないことを認めさせてもらえるのは、「そのまま救う 我にまかせよ」という如来さまの喚び声があればこそではないかと思います。
私の称えるお念仏は如来回向のお念仏であり、如来さまのすべての功徳は南無阿弥陀仏の名号となり、私の口をついて出るお念仏となってくださいます。そして、無漸無愧のこの身のままに、まことのこころなきこの身のままに、「苦悩の土」を渡らせてくださるのです。「苦悩の土」であっても、私を往生成仏せしめる如来さまの功徳が「十方にみちたもう」なかに、この人生を歩むことができます。何ごとにも我を張って、自分中心にしか考えることのできない煩悩具足の私ですが、その私か「まことのこころはなけれども」と自らを煩悩具足の凡夫と顧みることができるのは、「そのまま救う 我にまかせよ」という如来さまの喚び声のなかにあるからなのでししょう。

二種深信のこころ

私たちお念仏申す者は、他力回向のご信心をいただき、この「苦悩の土」を生きていきます。そのご信心のすがたを、善導大師は『観経四帖疏』に、一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、劫劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、
疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
(『註釈版聖典(七祖鎬)』四五七頁)

と示されていて、「一には……」の方を「機の深信」、「二には……」の方を「法の深信」といい、両者を合わせて「二種深信」といいます。
親鸞聖人は、他力の信とは仏願の生起本末を聞いて疑いのこころがないことであると示されています。「仏願の生起」とは、如来さまはなぜご本願を誓われたのかということですが、それは、煩悩具足の凡夫でありどこまでも迷いの世界を抜け出ることができない私を救うためだ、ということです。また「仏願の本末」とは、その私を救うために、五劫の問思惟し兆載永劫の間行を修めて願を成就し、十方の衆生を摂め取る阿弥陀如来となられたということ。換言すれば、煩悩具足の凡夫である私か間違いなく浄土に往生して仏と成らせていただく、ということです。そのことを聞いて疑いのこころがないということが他力のご信心です。すでにおわかりのように、「仏願の生起」を聞くということと機の深信の内容、あるいは「仏願の本末」を聞くということと法の深信の内容とは、同じです。善導大師の示された二種深信とは、仏願の生起本末を聞いて疑いのこころがないという、他力のご信心をいただいた上での信心のすがたなのです。ですから、一つの信心に具わる二つのすがたであって、これを別々のこころとするのはもとより誤った考えです。
しかしながら従来より、どちらの深信の方が先なのかということを問題にする人がいます。そしてそうした人は、大方「機の深信」を「法の深信」を得るための手だてと考えているようです。そういう考えは、信心を得た上でそのすがたを表されているものが二種深信であるということを理解されていないと思われますが、そもそも機の深信だけをおこすということは私たちにはできないのです。 何ごとにも我を張り、自分中心にしか物事を考えることができない。それが罪悪生死の凡夫なのであり、それを自分で認めることができないということが、親鸞聖人のご和讃にいわれる「無漸無愧のこの身」ということです。その私に「そのまま救う 我にまかせよ」といってくださる如来さまのご本願に出遇ってはじめて、「そのまま」の私、「まことのこころ」を持ち合わせていない私であることを認めることができるのです。
二種深信は、ご本願に出遇って他力の信を得た上での信心のすがたです。ですから、機の深信・法の深信のそれぞれに、「ご本願に出遇わなければ「ご本願に出遇ったからには」と付けてみると、わかりやすいかもしれません。

人生のまこと

表紙のことばをもう一度味わうと、「まことなき人生」とは機の深信に示されるように、ご本願に出遇わなければ煩悩具足の凡夫として流転し続けていくしかない人生を、私か歩んでいるということでしょう。それはまことなき私を中心に、世界を、そして私自身を見ていくしかない人生です。しかし、念仏申して歩む人生は、法の深信に示されるように、ご本願に出遇って如来に摂め取られ、間違いなくお浄土へ往生し仏と成らせていただく人生です。「そのまま救う我にまかせよ」との如来さまの喚び声のなか、如来さまの智慧の念仏を通して世界を、そして私自身をみていく。そのことを、「(智慧の)念仏は……人生のまことを見せしむる光」といわれているのです。
(安藤 光慈)

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