2022年2月のことば ふみはずしましたが 気がつけば ここもも 仏の道でございました

はじめに

今月のことばは、榎本栄一さんのお言葉です。榎本さんは一九〇三(明治三十六)年十月に兵庫県の淡路島に生まれ、一九九八(平成十)年に九十四歳で往生されました。幼少期は身体が弱く、あまり学校にも通えなかったそうですが、十五歳の頃に父親を亡くし、十九歳の頃から家業であった化粧品店で精を出して働いたといいます。一九四五(昭和二十)年の大阪大空襲で淡路島に逃れ戻りますが、終戦後知人の店で化粧品を扱うようになり、一九五〇(昭和二十五)年に東大阪市で化粧品店を開業します。やがて浄土真宗のみ教えに帰依し、念仏のうたと称する仏教詩を書いて『群生海』『煩悩林』『難度海』などの詩集を著しておられます。

今月のことばは、その『念仏のうた難度海』(樹心社)から採られています。詩の全体は「仏の道」という題で詠まれたものであり、

  ふみはずしましたが
気がつけば
ここも仏の道でございました                   (三三頁)

とある直前には、

  今日も
如来さまは
この足弱き私の
道づれになってくださる
この道 平坦ではありません                    (二五頁)

と詠まれています。

以前に『難度海』を味わわせていただく機会があり、今月のことばを見たときに、同じく榎本さんの、

こまごまと自力で
いちにちはたらいたが
気がつけば
大きな他力の中                          (四二頁)

という、「他力一元」と題された詩を思い出しました。
一九七九(昭和五十四)年、榎本さんは七十四歳のときに化粧品店を閉めておられます。『難度海』は一九八一(昭和五十六)年に出された詩集ですが、この詩を書いた頃、榎本栄一さんはまだ化粧品店を営んでおられましたようです。今月のことばの詩は、ひょっとするとお店を閉める前後あたりのものかもしれません。そうすると、「ふみはずしましたが」という言葉は内面的なものというより、少しリアルな日常のことのようにも思えます。どちらにも「気がつけば」という言葉があります。
二つを並べて味わわせていただくのもよいかもしれません。

在家の念仏者

榎本栄一さんは在家の念仏者です。とはいえ、はじめは真宗大谷派の僧侶で仏教思想家であった暁鳥敏師に法を聞き、その後幾人かの先生に教えを受けて、念仏申しながら自分の内面を見つめ、自分の内側の声を聞くということに努めて、やがて振り返れば「内観の詩」を詠むという方向に進んできたと、自らいかれています。
いま「在家の念仏者」といいましたが、浄土真宗のみ教えは、もとより在家の念仏者の教えです。蓮如上人の『御文章』のなか、

  末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、……                          (『註釈版聖典』 一一八九頁)

と始まる「末代無智章」は私たちの耳に馴染みの深いものですが、他にも多くは「在家止住」「在家無智」という形で、十数箇所に用例が認められます。
在家とは、出家せずに世俗の生活を営みながら仏教に帰依するもののことで、インドでは、男は優婆塞、女は優婆夷とよばれていました。出家者である比丘・比丘尼にこの優婆塞・優婆夷を加えて四衆といい、これが仏教教団を構成する人々ということになります。経典等で「善男子・善女人」とあるのは基本的にこの優婆塞・優婆夷のことと考えていただければよいと思います。『仏説阿弥陀経』にも善男子・善女人の語は多く登場しますが、『仏説阿弥陀経』はインドにおける当時の浄土教信仰の様子が反映されている一面があることを考えれば、もともと浄土教は在家信者の信仰であったと思ってよいでしょう。
また、当時の仏教圈から出土したレリーフには阿弥陀仏が説法している様子が描かれていたりしますが、阿弥陀仏の膝元で礼拝している二人の人間は明らかに在家の男女のすがたで描かれていますから、これもインドにおける阿弥陀仏信仰の中心的な担い手が在家信者であったことを示しています。お釈迦さまが入滅された後、出家者はお釈迦さまの示された教え、すなわち経典にもとづいてさとりへの道を歩んでいきますが、在家信者もまた阿弥陀仏に手を合わせ、さとりへの道を歩んでいるのです。

仏の道

今月のことばと参考にあげた詩とをみると、両方ともに「気がっけば」という言葉があることに気づきます。二つの詩はともに、「気がつく辻剛後で榎本さんのまなざしが向けられている対象の質が変わっているのです。参考にあげた「他力一元」の方がより対照的に描かれていますので、まずこちらを味わってみましょう。

こまごまと自力で
いちにちはたらいたが
気がつけば
大きな他力の中

「気がっけば」の前の文には「自力」という言葉があります。そして後の文には「他力」という言葉があります。最初に申しましたように、この詩を書かれた頃、榎本さんはまだ化粧品店を営んでおられたようです。当時の化粧品店がどのようなお仕事だったのかは想像するしかありませんが、お客さんが来られたらその方に合った化粧品を勧め、売れるときもあれば売れないときもあったでしょう。また品物が置いてある棚の整理も必要かもしれません。お掃除も仕事の一つです。化粧品の発注もしなければなりませんし、伝票も書いたりしなければならないでしょう。なかには愚痴をこぼすお客さんもいるかもしれません。「こまごまと自力で いちにちはたらいたが」という文言には、いろいろと努力しながら一日の生活を送るすがたがうかがえます。
在家の者の道は、そうした日常の営みのなかにあります。こまごまとしたことに気を遣いながら、一日を送っていきます。出家の者のように世間を離れて生きているわけではありません。しかしそうした日常のなか、お念仏申しながら生きていく私を、如来さまはそのまま摂め取ってくださっている。「大きな他力のなか」というのは、ふと気がつけばそのこまごまとした日常も、他力すなわち如来さまのはたらきのなかにあったといわれているのです。
他力という言葉は、如来さまのはたらきということです。如来さまはいつも私に寄り添ってはたらいていてくださる。それは、如来さまが如来さまとしての道を歩んでおられるということです。お念仏のみ教えはありかたいなあと思います。私のこまごまとした日常はそのままお浄土参りの道であり、そのお浄土参りの道はそのまま如来さまのはたらかれる如来さまの道なのです。
さて、今月のことばが掲載されている『難度海』の「あとがき」(践)には榎本さんの言葉が添えられているのですが、そこで、

  一昨年の五十四年末に店を閉じました。行けるところまで行くつもりでしたが。
店をやめました。                       二九四頁)

と述懐されています。この詩が店を閉じる前後に書かれたものであるとしたら、「この道 平坦ではありません」「ふみはずしましたが」とあるのは、「行けるところまで行くつもり」であったのがうまくいかなかった、ということかもしれません。だとすると、おそらくいろいろな出来事があり、いろいろな事情も絡んでいることでしょう。「ふみはずしました」という言葉には、無念の思いがにじみ出ているように思います。
私たちの人生は、うまく行かないことの方が多い、思いどおりになど進むことのない人生です。しかし気がっけば、それでも私を捨てたまわぬ如来さまがおられた、そのことを「ここも仏の道でございました」といわれているのです。
ここでいわれている「仏の道」は、如来さまが私を摂め取って捨てたまわぬ如来さまの道でしょうか。それとも、お念仏申しお念仏申し歩んでいく私のお浄土参りの道でしょうか。おそらくそれはどちらでもよいのでしょう。私の道がそのまま如来さまの道なのですから。
「あとがき」に添えられた榎本さんの言葉の最後は、

  そんなわけで、耳が聞こえんようになったということが、私の詩の出発点で、
難聴さまさまでございます。    (『念仏のうた 難度海』 一九四-一九五頁)

というものでした。あるいはこのことが店を閉められた原因の一つかもしれません。
それでも、お念仏申しながらしっかりと前を向いて在家の仏道を歩まれていくすがたを、今月のことばからうかがうことができます。
ジタバタしながら生きている私ですが、気がつけば、ここも仏の道でありました。
(安藤 光慈)

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