2022年4月のことば如来の本願は 風のように身に添い 地下水の如くに 流れ続ける

はじめに

新年度になりました。近くの駅に行きますと、時間によって学生で溢れています。
親子連れの多い日は、「今日は入学式か」と思って眺めています。
私が大学生になった昭和四十年頃は、入学式は学生一人で参列していました。私の子どもが大学に入る頃には保護者同伴で参列しました。どちらかというと親のほうが楽しそうでした。
受験に関しては、生徒数が多く、大学でも高校でも競争率が高く、それほど簡単に志望校へは合格できませんでした。今は生徒数が少なくなり受験は楽になったかというと必ずしもそうではなく、やはり受験は厳しそうです。
平野先生は、一九四三(昭和十八)年に石川県に誕生され、大谷大学大学院博士課程を経て九州大谷短期大学教授を一九九一(平成三)年までされ、一九九五(平成七)年に往生されました。その間、一九八八(昭和六十三)年には真宗大谷派金沢教区真
宗研究室初代室長に就任されました。また、石川県松任市(現・白山市)明証寺の住職でもありました。著書は、『真宗の教相』『民衆のなかの親鸞』『生きるということ』『教行信証に学ぶ』など多数あります。二〇〇二(平成十四)年には『平野修選集』全十七巻が刊行されています。
平野先生の著書のほとんどは講義・講演を書籍化したものです。先生は最期まで各地で講義をされました。その講義録はご往生後数年して盛んに書籍化され、今も多くの著書を読むことができます。

自ら在る

四月のことばは、『生きるということ』(真宗大谷派宗務所出版部)の「あとがき」に載っています。
この書物は、真宗大谷派の大阪教区と熊本教区の青年研修会での講義録です。この本を見る限り、いつの講義かわかりません。先生の没後十一年経った二〇〇六(平成十八)年の刊行です。
ここでは、先生のお人柄、生き方を知るという意味で、先生が説かれる「自ら在る」ということについて読んでいきます。
『生きるということ』では、先ず「人間は体いっぱい動かして肉体に宿った言葉を話していきたい」、しかし現実は、「『あなたの学校の成績はね』と言われるともうそんな気持ちにはなれない」というところから始まります。その意図は、私たち一人ひとりの本来在るはずのすがたと多くの人の実際の様相を示すことです。次の文は先生ご自身の体験です。

平野先生は、高校受験では第一志望ではない高校に大られました。まだ学校制定の帽子があった時代です。帽子には学校の紋章である校章がついています。通学途中は正面から校章が見えないような被り方をし、身体も歪めて歩いていました。学校内では、普通に正面を見て学校生活を楽しんでいました。周りの環境によって自分の対応が決まってきます。世の中の見方が本来の自分を出せなくしています。こんな自分がいいはずがありません。
平野先生は、外からのはたらきと自分の考えの関わりを、次のような例をあげて述べられます。
日本は、戦後からずっと豊かな社会になるために努力してきました。私たちも豊かになるために働いてきました。ところが、歳を取り、豊かさのために何もできなくなると、家族に迷惑をかけないことを考え、早く亡くなってもいいと思う人も出てきました。平野先生は、本当は早く亡くなりたいと思うことはないはずだといわれ、豊かさのために努力することがいいことだという世間の価値観が影響して自分の考えになってしまったから、早く亡くなりたいと思うのだとされます。
実際に、私たちは他からの働きを避けることはできません。普段日本語を話し、日本語で考えることも他からの働きです。他からの働きが自分のあり方を変えています。そうならば、自分の根底の自ら在るという点に気づくことが大切であると、平野先生はいわれます。
自ら在るとは、ここに在る自分を何かによって隠したり覆したり押さえたりすることを許さないということです。他との比較で生きる、豊かさを求めて生きる、人の都合で生きる、あなたのために生きるなど、外からの働きで生きることは、自ら在るという生き方ではありません。

世界といっしよにある

平野先生によりますと、親鸞聖人は大乗と小乗という二つの生き方を示されました。大乗では他との関係で生きることを説いています。小乗では他との関係を断ち切って、一人で生きていくことになります。
関係性のなかで生きていくことは揉めることもあり、気を使うことも多く、煩わしいものです。だから一人で生きたくなります。しかし、現実の世界は多くの人とともに生きる世界ですから、小乗の生き方はできません。このことを親鸞聖人は教えようと、大乗・小乗といわれたのではないかと、平野先生は述べられています。
また、他の人も自ら在る人ですが、その人の自ら在ることに対して邪魔したり押さえたりすることは許されません。
自ら在る私は、自ら在る他者との関係性のなかに生きていくことになります。それが、世界とともにここにあるという生き方です。この世界は私の生きる場ですから大切な世界です。
自ら在るという声は、私の一番深いところにあります。その声が出るかでないかは人それぞれです。その声が出ることが、『生きるということ』の最初にあった「人間は体いっぱい動かして肉体に宿った言葉を話していきたい」という生き方になります。それはまた「自身を生き尽く(す)」(二二〇頁)生き方です。

本願に遇う

四月のことばは、『生きるということ』の「あとがき」で秋吉正道師が紹介された平野先生の言葉です。

  「如来の本願は、風のように身に添い、地下水の如くに流れ続ける」という最後の言葉は、平野修その大そのものの生き方であり、青年に向き合って真宗に生きる願いでもあったかと思う。                 (ニニー頁)

「如来の本願は、風のように身に添い」とあります。風が吹けば、その場にいる人の一人ひとりが風を感じます。本願はすべての大にはたらきかけていますが、本願のはたらきを受け取るのは一人ひとりです。また本願には、地下水の流れが四方八方に広がるように、どこまでもはたらき続けるという意味があります。
本願とは、阿弥陀如来が私たちを救いたいと建てた四十八の誓願の第十八番目の願で、第十八願ともいいます。また本願は、信心と念仏によって浄土に往生させるという願いです。その願いは「南無阿弥陀仏」という名前(名号)となって、「南無阿弥陀仏」を頼りとせよとはたらきかけています。
私たちは、本願の話を聞いても自分のこととも思えません。しかし、自分自身を振り返ったときノ言ってはならないことを言って人を傷つけたり、言うべきことを言えずに人を苦しめたり、人の失敗を同情しながらも、どこかで面白がっかりする自分を見出します。ねたみ・やっかみ・怒り・腹立ちのこころが、しばしば現れます。
このようなことは反省をします。でも気がつけば、また同じようなことをしています。結局は、こころの持っていきようがないままに過ごしていることになります。
このようなときに、阿弥陀さまの本願の話が自分のこととして聞こえてきます。
阿弥陀さまを頼りとすることで、持っていきようのなかった自分のこころに道筋が与えられたような感じを受けます。今まで関心がなかった本願のはたらきは、自分の罪悪性・煩悩をみつめるなかで、私のこととして受け止められます。
自分には関係ないと思っていた本願の話か、実はそうではなかったと受け止められてくることを書きました。実際には、自分には関係ないといいながらも、縁があつて何度も本願の話を聞いているなかで、自分をみつめ直し本願を受け止めています。また親しい人の死、自分の受けた災難などを通して、本願の話が聞こえてくることも多くあります。

親鸞一人がため

本願が「風のように身に添う」ということについて、親鸞聖人は、

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
(『歎異抄』、『註釈版聖典』八五三頁)

といわれます。阿弥陀さまは、五劫の間思惟して四十八の誓願を建てられました。
その願は、親鸞ただ一人を救うための願であったという意味です。このお言葉は『歎異抄』の「後序」にあります。それによりますと、このお言葉は聖人がいつもおっしゃっていました。
そして、

  それほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか
(『歎異抄(現代語版)』四九頁)

と続きます。それに対して『歎異抄』の著者である唯円房は、

 

  親鸞聖人がご自身のこととしてお話しになっだのは、わたしどもが、自分の罪悪がどれほど深く重いものかも知らず、如来のご恩がどれほど高く尊いものかも知らずに、迷いの世界に沈んでいるのを気づかせるためであったのです。(同頁)

といいます。
親鸞聖人がご自身のこととしておっしゃったことでしょうが、唯円房がいわれることもよくわかります。唯円房は、聖人のお言葉を聞いて、自分の罪業の深いこと、仏の恩徳の深いことに、いつも気づかされていたと思われます。

私に合わせて

「親鸞一人」とは、どのようなことでしょうか。
親鸞聖人は自分を極めて厳しくみつめられます。だから自分ほど罪業の深いものいないと思っておられました。そのようなものまでが救われるという意味で、「親鸞一人」といわれたと考えられます。
また十方衆生の救いといっても、あらゆる人々を網で掬うような救い方ではありません。本願においては信心ひとつで往生できます。しかし、日々楽しいという人、なぜ苦しい生活をしなければならないのかと悩む人、自分の能力に悩む人、自分の家庭に悩む人など、キリのないほどのさまざまな人がいます。また、若者か年寄りか病気なのかと、今の状態もさまざまです。そうなると、本願もその人に即してはたらいていると窺われます。つまり私か本願に合わせるのではなく、本願が私に合わせてはたらきかけてくださっているのです。このことを、親鸞聖人は「親鸞一人がため」とおっしゃたのです。
本願によって見出された世界はさまざまです。ガンになって阿弥陀さまの説法が聞こえてくるといわれる方もあれば、おかげさまのど真ん中といわれる方もいます。
平野先生は、世界といっしょに自ら在るという生き方を見出されました。
さて私たちは、必ず救うという阿弥陀さまを頼りに、どのような世界を見出すのでしようか。
(村上 泰順)

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