はじめに
五月は花の季節です。気温も上がり、空も明るくなり、散歩する人の足取りも軽やかで、道筋や庭先には、ツツジやパンジー、ガーベラなどの花が色鮮やかに咲いています。散歩をしていても、お寺の掲示板の言葉をみては、「俯かにそのとおりだ」とか「難しいことが書いてあるなあ」と、その場その場で感想をいっていることがあります。
さて、五月のことばは豊島学由師の掲示伝道の言葉です。
豊島先生は、一九二九(昭和四)年に大阪府堺市に誕生されました。龍谷大学大学院で真宗学を学ばれた後、布教使として活躍され、NHK文化センター講師、中央仏教学院講師を歴任されました。浄土真宗本願寺派覚円寺のご住職でもありました。
著書としては、『親鸞聖人と私』『生死を超える道』『人間の願いと如来の願い』など多数あります。
私は、数度先生のご法話を聴聞させていただきました。先生は、よく通る声、明快な口調で、冗談を交えながらお話をされました。そのようなユーモアあふれるなかで、獅子吼の説法の言葉どおり、すごい迫力でみ教えを説いておられました。
余談ですが、今はスマートフォンがあれば法話を聞くことができます。本願寺も法話を配信しています。豊島先生のご法話もべ呂H呂ので聞くことができます。
今月のことばは、
失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり (一三頁)
です。『いのちの言葉掲示伝道法語集』(法蔵館)にある言葉です。掲示用の法語ですから、先生が実際にご自坊の掲示板に書かれた言葉かもしれません。
私たちは、しばしば掲示伝道の法語を目にします。この真宗教団連合の「法語力
レンダー」も掲示伝道の一つです。法語を毎日のように目にしますが、同じ言葉でも、面白いと感じたり、ありかたかったり、ときには「自分のことをいわれている」と思ったり、そのときの心情によって受け取り方が変わります。お説教で法話を聞くだけではなく、法語を書物や掲示板で読むことも楽しみの一つです。
与えられたもの
さて、今月のことばです。「失ったものを数える」ことは、よくあることです。現在に満足していなければ、自然に思い出してぼやいているかも知れません。元に戻ることがないことがわかっていながら数えるのですから、結局は愚痴になってしまいます。このような人は今が満足できないのですから、与えられたものに感謝をすることはありません。
普通に考えると、「失ったものを数える」より「与えられたものに感謝」できる方が、こころ豊かな生活になります。
「与えられたものに感謝する」生活について考えます。
「与えられたもの」が何を指すかは、この法語を読んだ人によって異なりますが、自分の家・家族・仕事などの生活環境と、住んでいる社会の環境のこととしておきましょう。
「与えられたものに感謝する」とはどのようなことでしょうか。狭い家に住めば広い家に住む人が羨ましいといい
広い家に住めばこじんまりとした狭い家がよいという
(相愛中・高等学校編『日々の糧』)
これはある法語の一節です。広い家に住めば、大きな家具も置ける、友達も呼べると思いますが、広い家に住んでみると、掃除する部屋が多く電気代も高くつくという不満も出ます。この感覚は私たちの多くが持っています。この感覚を持つたままでは、いつまで経っても不満だらけの生活になります。しかし、狭い家には狭い家の良さがあり、広い家にも広い家の良さがあります。私たちは見方を少し変えると良さがわかります。その良さを見つけると、満足感になり感謝になります。
家だけではなく、家族・学校・仕事・出遇う人々など、どれもにもよいところがあります。そこを探す努力をすると、「与えられたものに感謝する」生活になります。
一つよいところを見つけると、どんどんよいところが見つかり、こころ豊かに過ごせます。
恩恵に気づく
私たちは、どのようなときに感謝をするのでしょうか。
古い話で、スマートフォンが普及した今では考えにくいことです。以前、私は高校の教員をしていました。定期考査が近くなって、病気で欠席をする生徒がいます。
テスト前は大事な時期です。欠席したときのノートを見たいのですが、誰もがテス卜勉強をする時期ですから、簡単にノートを貸してほしいとは言いにくいものです。
そんなときにノートを貸してくれる生徒がいれば、嬉しいことでもあり、ありかたいことでもありますから、「ありがとう」と口にします。この生徒は、今度は貸してくれた生徒がノートで困ったときは、多少無理をしてでも貸してあげます。また別の生徒がノートで困ったときも、自分か困ったことがあるだけに、できるだけノートを貸してあげます。
ノートを借りたことは恩恵です。恩恵を受けたことがよろこびになり、よろこびが感謝のこころになり、それが言葉になります。恩恵を感じると、その恩の思いが行動になっていきます。しかし恩恵とわがらなければ、感謝にはなりません。恩恵は自分が感じるものです。人から「恩恵を受けているから感謝しなさい」といわれても、感謝の気持ちは湧きません。
今月のことばでいえば、「与えられたもの」に恩恵を感じるならば感謝します。
恩恵のなかの私
昭和時代の禅の大家である沢木興道師は、
天地も施し、空気も施し、水も植物も動物も人間も施し合い。われわれはこの 施し合いの中でのみ生きている。ありかたいと思うても、思わないでもそうなのである。
(ネルケ無方著『ドイツ人住職が伝える禅の教え生きるヒント33』 一九〇頁)
と、自らが感謝するしないに関係なく、施し合いのなかに生きていることが縁起の意味である、といわれたそうです。
人間同士も施し合っています。施し合うとはめぐみ合うことです。親子で考えると、親は施す意識はありませんが、子を育てることに精一杯施します。子は、特に親のことを考えて成長するわけではありませんが、子どもと一緒にいると楽しい、子どもがいるから意欲的に生きることができる、といったことなどはよく聞く話です。これらは子どもからの恩恵です。子どもがいるから遊びにも連れて行かねばならないと思っていても、後から考えると子どもがいたから遊びに行けたことがわかります。これは子どものめぐみです。
沢木師の話を前提に考えますと、私たちは恩恵のなかに生きています。施し合いが恩恵とわかると、よろこびになり感謝にもなります。
大きなご恩
親鸞聖人も恩恵に対して感謝されます。聖人の著述には、感謝の言葉として「謝す(感謝する)」「報ず(報いる)」「報謝(感謝して報いる)」という言葉が出てきます。
この三つの言葉を同じ意味で使っておられます。聖人の感謝とは、感謝して報いることです。また、家族や周りの人々の恩恵に感謝されていたと思いますが、残された著述はすべて教えに関するものですから、推測しかできません。ここでは「恩徳讃」を読んで、感謝の内容を考えます。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし (『正像末和讃』、『註釈版聖典』六一〇頁)
(私を救う阿弥陀仏の恩恵は身を粉にしても報うべきである。阿弥陀仏の教えを親鸞聖 人まで伝えたお釈迦さま、七人の高僧の恩恵も骨を砕いてでも感謝すべきである。著者訳)
親鸞聖人は、二十年間比叡山で修行しても、煩悩を断じてさとりに近づくことができませんでした。そこで法然聖人に出遇い、煩悩があるままで必ず浄土に往生させるという、阿弥陀さまの願いを知られました。それは聖人にとっては大きな救いでした。
親鸞聖人は阿弥陀さまに帰依されました。さらに生涯にわたって、何かおきても阿弥陀さまを頼りに生きていかれました。
これが「如来大悲の恩徳」の内容です。
法然聖人は、阿弥陀さまに帰依し念仏生活を送っておられましたが、そのおすがたは、阿弥陀さまの救いに摂め取られ安らかで温かいものでした。そのおすがたを見、お話を聞くなかで、親鸞聖人は阿弥陀さまに帰依することが正しい道と確信されたのです。
阿弥陀さまの願いはお釈迦さまによって示され、インド・中国の高僧、日本の源信和尚、法然聖人へと伝わってきました。その人々のおかけを「師主知識の恩徳」といいます。
親鸞聖人は、如来の大悲と師主知識の恩徳は、身を粉にしても骨を砕いても報いていかねばならない、といわれます。恩恵の大きさがこのような表現になったのでしょうが、聖人の苦難の生涯をみると、言葉どおり身を粉にして報恩に努められたことがうかがえます。
ところで、別の書物では報恩は利益であるといわれます。利益ですから、頂戴してよろこばしいもの、うれしいものです。利益ですから、厳しい報恩の行いはよろこばしい行いでもあります。
報恩の行為とは、念仏すること、教えを伝えること、そのための著述をすることです。親鸞聖人は生涯、お念仏をし教えを伝えられました。また八十八歳の頃まで著述をして教えを説かれました。このようにみますと、聖人は報恩のために一生を過ごされています。それは嫌なことではなく、よろこびの生涯でした。
恩恵に気づくよろこび
私たちも、阿弥陀さまに帰依しますと、親鸞聖人と同じ恩恵をいただきます。この恩恵を恩恵として受け止めることができればありかたいことです。
仏の恩恵がわかればさますまな恩恵もわかるとは思いませんが、聖人をけじめ多くの念仏をよろこばれた人々についての話を通して、凡夫の私か多くの恩恵に生かされていることもわかってきます。先にお話ししたように、自分の体験を通して、実感できなかったものが恩恵であるとわかることもあります。また、自分中心の煩悩をもっていることがわかると、少し方向を変えて物事をみれば恩恵とわかることもあります。
恩恵を数える必要はありませんが、恩恵のなかに生かされているとわかることに気づくことは、幸せなことですし楽しいことです。それは、たった一人で頑張っていたつもりの人が、自分に向けられた多くの支えがあることに気づけば、一気によろこびが湧いてくるようなものです。
(村上 泰順)