2022年6月のことば 〃あたりまえだ” と言うて、まだ不足を言うて生きている

はじめに

古典落語を聞いていますと、枕(前置き)で大相撲の巡業の話をしていました。昔、地方巡業は部屋ごとに行ったということをいっていました。なぜそんな話をするかというと、時代背景がわからないと落語の話か前に進まないからです。それでも、そんなことを話してまで落語をするのは、話が面白いからです。法話も同じです。
七十年、八十年前の法話が今に残っているのは、ありかたい法話だからです。ただ書物で残っていますので、例えが時代に合わないこともあります。その点て、例えの意図をふまえて法話を読むと、その法話の素晴らしさがよりわかります。
六月のことばに書かれている法話は、七十年ほど前の話かと思われます。
世扉哲雄師は、一九一九(大正八)年に、石川県羽咋郡志雄町(現在の宝達志水町)に誕生されました。大谷大学専門部卒業の後、真宗大谷派明円寺住職をされ、大谷派宗議会議員、同朋会館教導などを歴任されました。著書としては、『おかけさま
の世界』『深く生きる』『親鸞の教えに生かされて』などがあります。
師は、一九七〇(昭和四十五)年に季刊誌『人間成就』誌を発刊されました。一九八〇年頃には発行部数が四千部、日本全国とアメリカまで送っておられます。

人間成就

一九七〇年頃、国外で日本人はエコノミックアニマルといわれ、一方国内では、森林や海などの自然環境の破壊や工場排水などによる環境問題があり、水俣病・イタイイタイ病などの公害が、現代にまで通じる大きな社会問題になっていました。
そして、このような社会で人間は本当に幸せになれるのかということが問われました。
その頃、「人間を問う」というテーマで数々の雑誌が発刊されました。湯川秀樹博士を中心とした『創造の世界』、小田実・高橋和巳らの『人間として』、家永三郎らの『現代と思想』です。松扉師は、そんな雰囲気のなかで、自分自身がいや応なしに人間とは何かを問われたといわれます。それは、私たちは人間だけれども、ほんとうに人間という実があるかという問いでした。そして、実のある人間になろうじゃないかという呼びかけを周囲にしたいというところから、『人間成就』誌を発刊したと『おかけさまの世界』(一二-一五頁、要約)でいわれています。
この本には、「人間」と「実のある人間」という言葉が出てきます。「人間」とは自分中心の煩悩のままに生きている人間のことで、「実のある人間」とは相手の身になる、相手の立場にたつことができる人間のことです。これが真実の人間であるとされます。「実」の意味は、親鸞聖人が『浄土和讃』の「真実明に帰命せよ」(『註釈版聖典』五五七頁)の左訓に、「実」を「もののみ(実)となる」と註釈されているところから採られています。
『人間成就』誌を発刊された師は、生涯にわたって人間成就を説いていかれることになります。

深く生きる

今月のことばが載っている『深く生きる』(真宗大谷派宗務所出版部)のなかで、松扉師は人間成就とは深く生きることであるとされます。
師は、次のように述べられます。

  「なぜ仏法を聞くのか」それは「人生を深く生きるため」である。深く生きることなくして、人間は満足をもって生き切る、安心をもって人生を送ることはあ  り得ない。深く生きる中味は「生かされて生きる、おかげさまの一生といただくのみ」である。この「いただく」とは目覚めさせていただくことであり、「おかげさまの一生といただく」とは、一切の存在するものはみな支えられて生きていることに目覚めさせていただくことである。そのためには教えに出遇うことが大事である。           (『深く生きる』八三頁、引用者要約)

人間成就の仏教とは「深く生きる」ことです。深く生きるとは、おかげさまの一生と目覚めさせていただくことです。
「深く生きる」ことの内容は、「生かされて生きる」と「支えられて生きる」です。
私を支えるものは私を生かすものですから、この二つの言葉に大きな違いはありません。

おかげさまの一生と目覚めさせていただく

「生かすもの」「支えるもの」について、次のような話があります。
世評師は、ある講演の前に合掌してお茶をいただかれました。それを見ていた五十代くらいの女性が、「あのお坊さんは湯呑みに合掌してお茶を飲んだ」といって笑いました。松扉師は講演で次のようにいわれました。
「湯呑みがあるからお茶を飲めるのであって、ポットから直接お茶は飲めません。
私たちは湯呑みのはたらきに生かされています。そうであるのに、合掌を笑うのは真実が見えていないからです」
松扉師が「生かされて生きる」「支えられて生きる」といわれるのは、湯呑み・ポットのようなものから、家族・周りの人、あらゆる生き物・空気・土、さらには阿弥陀さまの願いまで、すべてのことです。
「生かされる」「支えられる」とは、順調なときのことだけをいっているのではありません。人は、辛いことや悲しいことを背負って生きていかねばならないこともありますが、これも、「生かされて生きる」ことになります。これを、師は「おかけさまの一生と目覚めさせていただく」といわれます。私たちの感覚では「おかけさま」とは、なかなか言いにくい面もありますが、師はその例として、本願寺第二十二代宗主鏡如上人の妹であり、仏教婦人会活動や社会福祉事業に邁進した歌人、九條武子夫人について語られます。
夫人は大正時代の一種のスターで、非常に世間の注目を集めた方です。短歌集を出版すればベストセラーになりました。
夫人には、「幸うすきわが十年」と詠まれるほど辛い時期がありました。また夫人の活動に対する世間の好奇の目もありました。次の短歌から、夫人へのあることないことのさまざまなそしりを背負いながらも、阿弥陀さまを頼りに精一杯の活動をされているすがたが想像できます。

  百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
(『九條武子全歌集 無憂樹(あそか)』三一八頁)
(百人の人からの私に対する誹りが火の降るように激しくても、仏さまが慈悲の涙を流していただいている、それで十分である。著者訳)

これが松扉師のいわれる、教えを聞いて「おかげさまの人生と目覚めさせられる」生き方、つまり人間成就の仏教になります。

あさましいヤツであった

“あたりまえだ”と言うて、まだ不足を言うて生きている」という今月のことぼは、『深く生きる』からとったものですが、次のような話を受けての言葉です(四九~五〇頁、要約)。昭和二、三十年代の話のように感じます。
ある九十歳を過ぎた老夫婦は、「おかけさま」「ありかたい」という日暮しをしていましたが、そのおばあさんが脳出血で倒れて、寝込んでしまわれました。そこで、数人の友人がおじいさんを慰めようと訪ねて来ました。そのとき、おじいさんが友人に話したことです。
おばあさんが粗相をして腰巻きを汚してしまいました。おじいさんは、若いお嫁さんに洗ってもらうと、おばあさんも肩身がせまいだろうと思って、お湯を沸かし、タライを出して腰巻きを洗って、隠居部屋の物干しに掛けておきました。
そのおじいさんが干している様子が、おばあさんには見えました。おばあさんは「モッタイナイ」といって、おじいさんを拝みました。おじいさんは六十年間、禅を洗ってもらってお礼をいったことがないのに、たった一回腰巻きを洗っただけで拝まれました。おじいさんは、拝まれたときの気持ちを「自分は何とあさましいヤツであったかと、今朝ほど思い知らされたことはない」と、見舞いに来た友人たちに話しました。
この話を聞いた松扉師は、次のように述べられます。

  褌一枚すら女房に洗うてもらわねばならないところに立って、生かされて生きておるのがこの身でしょう。にもかかわらず、われわれは”あたりまえだ”というところにしか立っていない。真実を見る眼を持かないために、〃あたりまえだ”
と言うて、まだ不足を言うて生きているのが、お互い私たちの今の生きざまでありませんか。                (『同』五〇頁 傍線、引用者)

世評師の人間成就の道についての見解から考えますと、自分中心の煩悩にふりまわされているから、「あたりまえだ」といってまだ不足までいっていることになります。ところが、「あたりまえだ」といっていたことが「あたりまえ」でないことがわかりますと、不足の言葉にならず感謝になります。

「モッタイナイ」

私の推測も含めていえば、この老夫婦は元気なときは常々お寺にお参りされ法話を聞いておられました。そのためにみ教えが身につき、「ありかたい≒おかげさま」という日暮しをされていました。ところが、おばあさんの「モッタイナイ」という言葉によって、六十年間、下着を洗濯してもらいながらお礼さえいったことがなかったことに、おじいさんは気づきました。洗濯をしてもらっていたことをあたりまえと思っていたのでした。「モッタイナイ」の二言で、おばあさんの六十年間の下着の洗濯が支えであった、恩恵であったことに気づきました。
それとともに、気づけなかった自分が「あさましいヤツ」と知らされることになります。おじいさんは、み教えを聞くなかであさましいこころを持った自分であることは知っていたのですが、この「あさましいヤツ」はまさに実感で、自分を恥じ情けないと思ったのです。おじいさんは改めて、おばあさんに生かされて生きてきたことに気づかされました。
おばあさんは自由には動けなくなられましたが、老夫婦はお互いに生かされて生きる日暮しをされそうです。お互いが支えられていることを感じながらの生活は幸せな生活になります。

教えに遇う

人間成就とは、教えに遇って「あらゆるものに支えられて生きる≒生かされて生きる」ことに目覚めることです。しかし、「生かされて生きる」ことがわかれば、人間として成就したということではありません。日々の生活のなかで目覚めさせていただくのが人間成就の道です。具体的には、今回のようにおばあさんの一言に自分のあさましさを感じたり、浄土真宗の門信徒が食事の際に唱える「多くのいのちとみなさまのおかげにより」で始まる〈食前のことば〉を読んで、「確かにいのちをいただいている」と思ったり、念仏のなかに亡き人の恩恵を感じたりすることで、目覚めさせられます。
人間成就の道は、教えに遇って「あらゆるものに支えられて生かされて生きる」ことに目覚めていくことですから、私を支えるものに対する感謝とよろこびがあります。
一方、今月のことばにある“あたりまえだ”と言って、まだ不足まで言っている」自分中心の煩悩のままの行いのままであれば、正しくもなくよろこびもありません。
ところが、人間成就の道を歩みながら、「生かされて生きる」よろこびも感じている私たちであっても、今月のことばのように「不足まで言って」います。どうすればいいのかわからなくなりますが、やはり、教えに遇い、自分自身を見つめて、さまざまなご縁に出会っていくことが大切であると考えています。今回のおじいさんのように。
(村上 泰順)

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