「他力の信心」を示す言葉
今月のことばは、小山法城師がその著書『我等の歩み』に残された言葉です。小山法城師は、一八八七(明治二十)年に滋賀県で生まれられ、仏教大学(現在の龍谷大学)に学び、同大学教授、布教研究所所長、山科別院輪番、伝道協会会長などを歴任されました。一九五〇(昭和二十五)年には、本願寺派最高の学階(学位)である勧学に就かれ、専門的研究はもとより、その伝道に力を注がれ、一九七三(昭和四十八)年にご往生されました。
さて、宗教で示される「信」は、一般的に私たちの持つ信仰心と考えることができます。しかし、ここではその「信」が「如来の生命」と示されています。「如来」とは、阿弥陀如来という仏さまを指します。私の「信」が「阿弥陀如来の生命」であるとは、どういうことなのでしょうか。
この言葉は、浄土真宗という仏教を開かれた、親鸞聖人が示された「他力の信心」を明らかにしたものです。
「他力」という言葉は、社会一般では「本願」と合わさって、「自分の願いを他人の力で実現する」という無責任な態度を示す、マイナスーイメージの言葉として用いられています。「他力」も「本願」も、もとは仏教用語です。こうした社会一般での意味とは明確に区別して、もともとの仏教用語としての意味で考える必要があります。
親鸞聖人が用いられる仏教用語としての「他力」とは、「阿弥陀如来の本願にもとづく救いの力」という意味です。如来の力ですから、もちろん、プラスーイメージです。聖人の主著『教行信証』の「行文類」には次のように示されています。
他力といふは如来の本願力なり。 (『註釈版聖典』 一九〇頁)
(他力とは如来の本願のはたらきである。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一 一
五頁)
「本願」とは、阿弥陀如来の慈悲の願いです。その内容は、すべてのいのちあるものに「南無阿弥陀仏」という言葉となってはたらきかけ、それを信じて念仏申すように育て、阿弥陀如来自身の世界である浄土に迎え入れて仏に成らせよう、というものです。本願を、その願いが向けられた私たちの立場から言い換えれば、阿弥陀如来のおかげで、「南無阿弥陀仏」を信じさせてもらい、念仏申す身にならせてもらい、往生成仏する身とならせていただく、ということになります。このような「阿弥陀如来のおかけ」を「他力」というのです。
このように、仏教用語としての「他力」は、私たちの往生成仏に関わる文脈で用いられる語です。日常生活上のさまざまな場面で、自らの責任を果たすべく努めることは当然であり、そうした場面で阿弥陀如来の力を意味する「他力」をいうことはありません。
仏教用語としての「他力」「本願」と、社会一般で用いられる場合との意味の違いを整理すると、次のとおりです。
「他力」の意味 「本願」の意味 根底にあるもの 語のイメージ
仏教用語 阿弥陀如来の力 阿弥陀如来の願い 阿弥陀如来の慈悲 プラス
社会一般 他人の力 私の願い 私の都合(煩悩) マイナス
「信じずにはいられない」という信では、「他力の信心」とはどのような信心をいうのでしょうか。
「信」という心の状態には、二つの場合があります。一つは不安を伴う場合、もう一つは安心を伴う場合です。
一つ目の「不安を伴う場合」、「信」は「あることがらが、事実であること、もしくは事実となることを期待する」という状態を意味します。たとえば、「日本代表チームの勝利を信じています」などという場合です。勤務する京都女子大学では、学生さんに「皆さんが恋人の腕をひしと掴んで、『信じているからね』と言うときの『信』です」と説明すると、笑いながらうなずいてくれます。
二つ目の「安心を伴う場合」、「信」は「あることがらを、そのとおりに受けとめる」という状態を意味します。たとえば、私たちは電車の行き先表示をそのとおりに受けとめています。この場合、「信じている」などと言葉にすることはほとんどありません。京都駅で「東京行」と行き先表示のある新幹線を前にして、「私は、この新幹線が東京に行くと信じています」とは言いません。多くの方が「この新幹線は東京に行きます」とおっしゃるでしょう。行き先表示に対して、自らの判断等を交えず、そのまま受けとめているからです。そして、その新幹線に安心して乗ることができます。
いずれも「信」という言葉で語られる内容ですが、一つ目と二つ目のような差が生じる理由は何でしょうか。それは、「相手に私を信じさせるだけの力や実績があるか、ないか」の違いです。
日本代表は、私たちがどれほど勝利を願おうとも、勝てるとは限りません。そうした不安があるからこそ、熱中して応援するのだともいえます。あるいは、恋人の様子を不安に思うからこそ、「信じているからね」とその腕を掴まなければならないのでしょう。
一方、私たちは、公共交通機関の行き先表示に安心して身を任せています。鉄道やバスは、いつもいつも行き先表示のとおりに運行してきました。それによって、私たちは行き先表示を信じずにはいられなくなっているのです。このような「信」には安心が伴います。言い換えれば、交通機関は、常に「行き先表示のとおりに運行します、信じてください」と、私たちに信じてもらえるようはたらきかけてきたのです。そして、そのはたらきかけを私たちが聞いたままが、そのまま私の信じる心になっているのです。
よく考えてみると、私たちはさまざまなものを信じて、日々の生活を送っています。「信」というと何か特殊な心のように聞こえますが、必ずしもそうではありません。
そして、親鸞聖人がおっしゃる浄土真宗の信心とは、「阿弥陀如来の側に私を信じさせるだけの力がある」ことによって、私か「信じずにはいられない」ようになった心です。阿弥陀如来のはたらきのおかけで生じた信ですので、これを「他力の信心」といいます。そこには、決して捨てられることがないという、あたたかな安心が伴っています。
軒先の下にある石が雨水によって長い期間をかけて穿たれていくように、阿弥陀如来が私たちを救おうとされる活動は、ついに私たちの心に到達してくださいます。
私たちの立場からいえば、阿弥陀如来のお心を真剣にお聴聞することを通して、阿弥陀如来に対する、頑なな疑いの殼が破られていくのです。それは、たとえば学校の先生や親の真心が、ついに子どもの心に届くすがたに似ているといえるでしょう。
信心とは、阿弥陀如来のはたらきが、そのまま私たちの心に届いたすがたであり、阿弥陀如来が私たちの心を場として躍動しているすがただといえます。それを「信は如来の生命なり」と表現されているのです。
「念仏者の生き方」
信心は私の心を場として、阿弥陀如来が活動されているすがたですから、私の心に少しずつ変化をもたらします。それについて親鸞聖人は、たとえばお手紙(『親鸞聖人御消息』第二通)のなかで、次のとおり示されています。
仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。 (『註釈版聖典』七三九頁)
(阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、無明の酔いも次第に醒め、少しずつ三毒も好まないようになり、阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』九頁)
「三毒」とは、煩悩の代表で、貪欲・填恚・愚痴の三つをいいます。貪欲とは、自分に都合がよいことを「もっと、もっと」と求めてやまないむさぼりの心、継恚とは、自分に都合が悪いことを「嫌が、嫌だ」と遠ざけようとする、怒りの心です。
そして愚痴は無明ともいい、すべての物事は原因や条件の網の目のようなつながりのなかにあるのだという現実を受け止められない愚かさをいいます。
これに対して、阿弥陀如来の活動は、究極的には私たちをさとりへと導くはたらきです。さとりを得た方を仏といいます。仏は仏教の目標であり、究極の理想です。
そしてそれは、無明を根本とする、自分中心の心、すなわち煩悩を完全に滅しかありかたです。
阿弥陀如来の教えに出遇うまでは、自分中心の心で自他を傷つけ合っていることに気づかず、そのなかにどっぷりと浸かったまま、苦悩を深めていました。阿弥陀如来の教えに出遇っても、煩悩から解放されるわけではありません。けれども、阿弥陀如来のおこころを聞かせていただき、ほんのわずかでも、煩悩に振り回されるありさまを恥じ、それを離れようとする心が恵まれます。親鸞聖人は、こうした心
の転換をおっしゃっています。
さらに、別のお手紙で次のようにおっしゃっています。
この世のわろきをもすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ、念仏申すことにては候へ。(『親鸞聖人御消息』第三七通、『註釈版聖典』八〇一頁)
(この世の悪も捨て、嘆かわしい行いもしないようにしてこそ、この迷いの世界を厭い、念仏するということなのです。『親鸞聖人御消息(現代語版)』 一〇八頁)
信心を得た者は、三毒の煩悩に振り回される、自らの迷いのすがたを知らされ、その生活はお念仏申しつつ、煩悩に振り回されることを厭うものへと転換されていきます。それは、いわば「阿弥陀仏の薬」の効用です。このことは、個々の念仏者が社会を忌避し、自らの心の内に引き寵もることを意味しているのではありません。
私たち人間の作る社会に対する見方もまた、転じられていきます。
ご門主さまは、伝灯奉告法要のご親教で「念仏者の生き方」を示されました。そのなかで、武力紛争や地球温暖化等々の世界規模の課題を具体的に指摘されながら、阿弥陀如来のおこころを伝え、そのおこころにかなう行動に努めることが、一人ひとりの念仏者の課題であるとご教示くださっています。
「阿弥陀如来の生命」たる信心が私の心で躍動するとき、煩悩に振り回されるお恥ずかしい、私のものの見方が徐々に転換されます。さらには社会のありさまを考え行動する価値観も変えられていくのです。
(黒田 義道)