みなもつてそらごとたはごと
九月のことばは、石田慶和(一九二八ー二〇一五)先生のお言葉です。先生は京都大学において哲学を学ばれたご経歴をお持ちであり、親鸞聖人の思想を哲学的視点から研究なさいました。また、先生のご著書を拝見しておりますと、戦争が先生に与えた影響の大きさを知ることができます。先生はかつて海軍の学校で学ばれていたというご経歴もあり、日本は戦争に必ず勝つと教えられ、疑うことも許されない状況のなかにおられました。しかし、結果として日本は戦争に負け、国中が焦土と化したとき、先生はご自分がじてきたものがまったくのうそ偽りであったことを実感されます。当時のことを先生は、
たよるべきなにものもなく、ずべき何者もないというのが、当時のありさまでした。
(『真宗入門ー宗教的人間の可能性ー』九八ー九九頁)
こと」はまったくないのだと気づいたとき、「ただ念仏のみぞまことにておはします」という言葉が強く胸に迫ってきたとおっしゃっています。今月のことばである「『まこと」のひとかけらもない私に、仏さまから差し向けられた「まこと』」というお言葉の背景には、石田先生のそのような体験と気づきがあったのでした。
価値観の押しつけ
さて、常に煩悩にとらわれて自分の都合のよい言動ばかりをしている凡夫に、「まこと」はありません。しかし、それでも私たちは自分のことを正しいとじて疑わないことがよくあります。ときに自分の価値観を人に押しつけ、それを否定されれば腹をたて、口を極めて相手を非難することさえあります。
数年前のテレビ番組で、大学生の就職活動が特集されていました。多くの学生たちが自分が将来なりたい職業について真剣に考えている様子が、映し出されていました。その番組内で、ある学生がなりたいと思う職業と、その学生の保護者が自分の子どもに望む職業とが異なっているご家庭が、紹介されていました。大学の就職活動支援の窓口にその学生の保護者が相談に来られ、窓口の職員さんが、「まずは、お父さまやお母さまと学生さんとで、十分に時間を取って話し合ってみてください」と伝えておられました。
するとその保護者は、「子どもの進路については、最近は毎晩、子どもと向き合いながら相談を重ねているのですが、なかなか結論が出ないんです」とおっしゃいました。しかし、その後の学生本人へのインタビューでは、「毎晩、両親から説得されています。私が自分の意見を言うと、もうちょっとよく考えなさいと怒られます」と言っていました。保護者は「子どもと向き合っている」と言い、学生本人は「親から説得され、自分の意見を言えば怒られる」と言っているわけですから、両者の受けとめ方はずいぶん異なっています。親からしてみれば、「自分たちは正しいことを子どもに言って聞かせているのであり、それが子どもの将来の幸せにつながるのだ」と倍じて疑わないわけです。しかし、親が子どもに「絶対にこうした方がよい」「これが正しい」と主張しても、子どもにとっては「親が自分の意見を否定している。違う意見を押し付けて説得してくる」としか聞こえない場合もあるようです。もちろん親も、子どものことを考えた上でアドバイスをしているわけですが、「自分は正しい、まことである」という前提を持ってしまうと、それはもう対話ではなく、価値観の押しつけになってしまうのではないでしょうか。「まこと」のひとかけらもない私」であることに気づかせていただくことの大切さをあらためて感じます。
さて、実はこの原稿を書いている期間に、二人目の子どもを授かりました。一人目のときも出産に立ち会わせていただいたので、今回も立ち会ったのですが、自分は本当に無力だとあらためて感じました。必死の形相で子どもを産んでいる妻を前にして、何もすることができませんでした。前回はスポーツドリンクを手に持ち、妻がそれを飲みたいと言ったときにサッと差し出す役目をしましたが、今回はそのスポーツドリンクが麦茶に変わっただけで、やはりひたすら見守ることしかできませんでした。しかし、何はともあれ、妻の闘と病院の皆さまのおかげにより、無事に次女を授かりました。
四年ぶりに出産に立ち会ったことで、あらためていのちの誕生のすばらしさ、いのちの尊さを深く味わうことができました。しかし、出産に立ち会いながら感じたのは、今こうして多くの人に祝われて誕生するいのちがある一方で、海外では戦争が起こり、日々この尊いいのちが数百、数千と失われている現実への憤りでした。
戦争とは、一部の為政者が自らの価値観こそまことであるとして、それを正当化していくことで起こります。自らにまことはないと省みることなく、我こそが正しいとわが道を突き進んで行くことは、破滅への道であるといえるでしょう。
普通指向の若者たち
私は今年で四十歳になりますが、職業柄、若い学生と接する機会が多くあります。
また、最近はだんだん学生との年齢差が大きくなり、学生の使っている言葉がよくわからないことも増えてきました。そして、学生の言葉遣いのなかにも少し気になるものがあります。それは「普通に」という言葉遣いです。「普通に美味しい」「普通に楽しい」といった言葉遣いを学生からよく聞きます。先日、ゼミに遅刻してきた学生に遅刻の理由を尋ねると、「普通に寝坊です」という返事が返ってきたのには苦笑しました。いずれにしても、「普通に」は本当に不思議な言葉遣いです。しかし、ここで少し考えてみたいのですが、二〇二〇(令和二)年から流行している新型コロナウイルス感染症により、私たちの生活は一変しました。入学式や卒業式も中止となり、卒業生には卒業証書を郵送するという、学生にとって非常に寂しい形で大学生活が終わっていきました。新型コロナウイルス感染症で様変わりした私たちの生活は、現在少しずつ元の形を取り戻している部分もありますが、まだまだ以前の日常とは程遠い状態です。そして、世界に目を転じれば、戦争によりこれまでの日常を奪われ、悲惨な状況で日々を送っている方がたもおられるわけです。
このように、これまでの普通の日々を失った今、若者が使う「普通に楽しい」というときの「普通に」という言葉遣いは、実は非常に私たちの幸せの本質を捉えた言葉ではないかと感じるようになりました。「普通に美味しい」「普通に楽しい」という何気ない「普通」という状態こそ、実はたいへん幸せなことであることを、「普通に」という言葉は教えてくれているように感じます。
また、最近の若者は必ずしも高い収入や豪華な生活を求めてはおらず、「普通の生活」ができればそれでよいと考えている者も多いというアンケート結果を、インターネットで目にしました。そのアンケート結果について、「最近の若者には夢や希望が足りないのではないか」といったような意見がネット上に散見されましたが、果たしてそうでしょうか。むしろ、高い収入があることや高い地位にあることが幸せであるというような価値観に縛られて生きることこそ、息苦しい生き方であり、それはまた苦しみの種にもなるのではないでしょうか。もちろん、「普通の生活」といっても、仏法に照らせばこの世界は「火宅無常の世界」ですから、次から次へと何が起こるかわかりません。しかし、だからこそ「普通に楽しい」といえる一瞬があるならば、それはたいへん幸せなことであると思います。若者の「普通に」という言葉遣いに当初は違和感も覚えていましたが、コロナで生活が一変し、戦争も起こっている今、この「普通に」という言葉にはむしろ魅力すら感じます。
仏さまから差し向けられたまこと
さて、しかし私たちがどれほど「普通に楽しい」状態が続いてくれることを願っても、現実にはそうはいきません。今日笑っていても、明日には涙を流して生きることもあるのが人生です。実際には自分が頼りにしていた人と別れたり、裏切られたり、頼みとしていたものを失ったり、この世界、そしてこの自分に、「まこと」はありません。そのように煩悩に振り回されながら人生で怒りや妬みを繰り返していく、この愚かな凡夫に届いてくださるお念仏こそが、唯一の「まこと」なのです。
南無阿弥陀仏のお念仏は、阿弥陀さまがこの私に至り届いてくださっているすがたです。そして、阿弥陀さまは、私たちの価値観を否定したり、私たちの行動に罪を告げたりはなさりません。自分の価値観に固執し、自分こそ正しいのだと、ときに他者を傷つけるような生き方をしている、そのような私のすがたに戻されたのが阿弥陀さまです。「「まこと」のひとかけらもない私に、仏さまから差し向けられた「まこと』」である南無阿弥陀仏こそ、まさしく人生の依りどころであるといえます。
(能美潤史)